毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ピンチの威力

2016年06月02日 14時41分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


危機的状況というのは、つくづくすごい力を持っているものです。

危機とは ピンチとチャンスを同時に言い表す言葉ですが、実際この表裏一体のコンビネーションを うまく使いこなせさえすれば、想像をはるかに超える成果とあいまみえることが可能なのだと 改めて思い知らされています。

ピンチが大きいほど 背中合わせのチャンスも大きく、命に関わるほどの危険を感じれば、なんとしてでもそこから逃れるべく 普段は出さないようなパワーを発揮して 必死で事に当たるので、思いがけないほどの結果に行き着ける。

俗に言う 「火事場の馬鹿力」 ってことですね




人間誰しも 好ましい事象を欲し 好ましくないものは排除したくなるのが 人情というものですが、この二元対立の世界に そんな都合のいいことばかりが続くはずもなく、禍福はあざなえる縄の如し、平和な時間の後には 大なり小なり 面倒なことが訪れるのが この世の習い。

そして そんなやれやれな面倒ごとこそ、平和時には得られないような 人間レベル ・ 魂レベルでの成長を促す 絶好の機会なのですね (^^)




前回の 「観照者」 の記事の前後の空白期間、これまでにないほどの危機的状況に見舞われておりました。

外の世界で起こったことが引き金でありながら、表側は大した変化もないまま、内側がえらいことになっていました。

正しくは、氣がついたら そうなるように 自らもっていっていたわけなのですが。

もちろん好んでのことではありませんが、内なる指針に従っていたら なんかそういうことになっちゃったのです ( ̄∇ ̄;)

内的変化の例に漏れず 一連の明確な始まりも終わりも見えないまま、もう過ぎたことなのか、まだならいつどのように終るのかもわからないありさまですが、とりあえずブログが書けるほどにはなったのですから 一息つくところまではこぎつけたといえましょうか。




もっともっとず~っと時が経ってみないと このことにどういう意味や役割があったのかは おそらく見えてこないでしょうが、とりあえず今言えそうなのは、これまでにない大きな変容を促されたらしいということ。

前の記事で 「観照者」 の視点が存在感を増してきたことについて書きましたが、その後 この 「観照者」 こそが ほんとうの私なのだ という理解に行き着きました。

今こうしてブログをしたためているこの 「私」 さえ 内外の世界を見つめるひとつの小窓のようなものに過ぎず、“私” というものの主体は これまでその存在すらろくに感じとれていなかった 形を持たない絶対意識とでもいうべき 「観照者」 だったのだと。

これが 腑に落ちるというところまではいかないまま、マインドレベルですとんと受け入れさせられてしまったので、一時期大混乱に陥りましたよ

五感の感覚さえ怪しくなって、万事を水槽の中から眺めているかのような 実感の希薄な氣分で過ごしたことも。




そんな中で ありありとわかったのが、悩んでいたのも 悩みを生み出していたのも それを解決しようとしていたのもぜ~んぶ ちっちゃな個である自分だったということ。

マインド ・ 自我である自分を 私そのものだと思い込んでいると、「私が悩んでいる」 「私が解決しようとしている」 という切迫した意識になりますが、「観照者」 が主体ということになれば、それは小我たる私が繰り広げる一人芝居を 眺めるともなく眺めているようなもの。

よく見かける 「 (悩むことを) やめようとするのではない、ただやめればいいのだ」 というアドバイスが 長いこと どうしてもわからずにきましたが、ここへきて腑に落ちました。

小我 = 自分 と思えば、キリキリ舞いしている当人なわけですから、「そんなこと言ったって どうすればやめられるのぉ」 となるのは ムリもないことですが、「観照者」 は ジャッジせず ただ見つめるだけの存在ですから、この視点から小我のやってることを眺めると、「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ( ̄  ̄) 」 っていうだけのことなのです。

そして、主体と認めた「観照者」 の そんな視点を通して 改めてキリキリ舞いの様子を眺めると、自分で仕掛けておいて 苦しんだり勇み立ったり ひとりでなにやってんだ、ということになり、そこで初めて「や~めた」 という選択が可能になるようです。

問題を解決するのでなく、そもそも問題を作り出すところから やめにできるのです。




頭では 「観照者」 こそ ずっと望んできた ありのままの真の自分と思っていながら、感覚的には 自分とはあくまでも悩みの当事者たるちっちゃな個で、「観照者」 は 神のように 高みから光を投げかけ照らしてくれる 神々しい特別な存在、という捉え方だったことが よくわかりました。

そして、「観照者」 を主体と認めるということは、内なる指針に100%従うこと、すべての答は 小我の自分の中にはないと認めて 悩むのも 悩みを作るのもやめること、導きはすっかり 「観照者」 にゆだねて 赤ちゃんのように安心しきって生きることなのだ、と知りました。




どういうわけか、このことが腑に落ちるより先に マインドレベルで納得せざるを得ないところにもってこられてしまったので、行動が理解に追いつかないことも。。。。というか 追いつかないことのほうが多く、悩みかけては 「待て~い、やめやめ~」 となることの繰り返し、特に 朝起き抜けは 無防備な眠りの中で 意識が引き戻されやすいのか、いきなり旧マインド世界の感覚からスタートしたりするので、抜け出すのに四苦八苦させられたりと、見つめる自分と演じる自分を行ったり来たり、心休まらない日々が続いています。

言葉で理解していたことが 現実になってみると、平面だったものが立体で現れるとでもいうか、同じものなのに ぜんぜん肌合いが違う感じで、なるほど 実際そうなってみるまでは わかったなどと言えるものではないんだな、と思わせられます。

こんな混沌から あるときすとんと腑に落ちる瞬間がやってくるのかどうか、先のことはまったくわかりませんが、とにかく大きな変化の真っ只中にいるのは間違いないようで、それもこれも かの感覚フォーカスを重ねに重ねたその先に起こったことであるからには、今見えるもの感じることについて 文章にできる限りは 少しずつでもご報告していければと思います。





















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