ふと氣がつけば、今年になってからアップした記事ってことごとく 「貴秋の視点、すなわち偏見」 カテゴリーのものばかり。
内観と並行して日々の暮らしもちゃんと楽しんでいるのに なんで? と思ったら、どうやら写真が載せられないせいらしい。
2月の終わりごろから いよいよパソくんの調子がで、ついにブログのプレビュー画面が出なくなってしまったので、父の使ってないパソコンを借りることになりました。
おかげでブログ更新もサイト閲覧も検索もサクサクできるようになって しみじみありがたいのですが、ひとつ問題なのは 写真の取り込み方がわからないこと。
手探りで試そうかとも思いましたが、機械オンチの貴秋が借り物にうかつなことをしてトラブったりしたら。。。と思うと、やはり心配で。
相変わらず台所で楽しんでるし、庭でささやかに冬野菜も育てているし、散歩やサイクリングにも行けば、読書やペーパークラフトにもいそしんでいるんだけどなぁ。。。。あ~、こういう話も書きたいよぉ~
というわけで、きょうは相変わらずのカテゴリーながら やや暮らし寄りのお話を。
「人生という物語の作者」 なんていうと やたら壮大で大仰に聞こえるかもしれませんが、実際の人生って 小さくて平凡な選択の積み重ねだと思うのですね。
朝目が覚めたらすぐ起き出すか、布団の中でひとしきり過ごすか。
朝食は食べるか食べないか、食べるなら和食か洋食か。
出かけるか家で過ごすか、出かけるなら何を着て何を持っていくか。
外でご近所さんと出会ったら 挨拶だけするか、ひとこと余分に添えるか。
ことさら意識しないような こんなささやかな選択をつなげてゆくだけでも、ショートエッセイのひとつぐらい書けそうではありませんか。
十代、二十代のころは 「大きなことに取り組んで 華々しい結果を出し 名を上げてこその人生」 という感覚が強かったのですが、いまは こういう小さな出来事や感情の積み重ねこそ何よりの宝という氣がしています。
作った料理が美味しかったとか、播いておいた種からかわいい芽が出たとか、散歩中に珍しい雲や美しい夕焼けを見かけたとか、ふらりと入った店で初物の野菜や果物と出くわしたとか、そんなちっちゃな喜びがどこまでもどこまでも続いてゆくなら、それは十分豊かで満ち足りた人生だろうと。
こういうささやかで何氣ない幸せって 見逃そうとすれば簡単に見逃せてしまうのだけれど、そのありがたみを痛切に感じるのは、当たり前と思い込んでいた平穏な暮らしを失ったとき。
貴秋はこれを、和歌山時代にいやというほど味わいました。
晩秋の山腹の駐車場から 夕闇迫る眼下の街並に明かりがひとつ またひとつ灯ってゆくのを眺めつつ、「今の自分には入れてもらえる団らんも温もりもないんだな」 と思ってぽろぽろ涙したことが幾度あったか。
そんな哀しみを知ってこそのいまの自分。。。という氣がします。
ウクライナやロシアの人たちも、どんなにか切実に以前の暮らしを思っておられることでしょう。
コロナで 家族や友人と過ごす時間のありがたみをかみ締めた人も多かったはず。
何もかもすっかり失ってしまうまで待つことはありません。
もしいま 辛かったり不安だったり寂しかったりするのなら、その感情を一度しっかり味わって終わらせましょう。
その先に、これまで見過ごしていたあたたかく豊かで安らかな世界が 私たちが戻ってくるのを待っています。
派手に人目を引き 羨望の的にならなくてもいい、この淡々と穏やかな日常こそ何よりの宝物と思えたとき、人生という物語がいっそう輝きを増すのだと思います。
内観と並行して日々の暮らしもちゃんと楽しんでいるのに なんで? と思ったら、どうやら写真が載せられないせいらしい。
2月の終わりごろから いよいよパソくんの調子がで、ついにブログのプレビュー画面が出なくなってしまったので、父の使ってないパソコンを借りることになりました。
おかげでブログ更新もサイト閲覧も検索もサクサクできるようになって しみじみありがたいのですが、ひとつ問題なのは 写真の取り込み方がわからないこと。
手探りで試そうかとも思いましたが、機械オンチの貴秋が借り物にうかつなことをしてトラブったりしたら。。。と思うと、やはり心配で。
相変わらず台所で楽しんでるし、庭でささやかに冬野菜も育てているし、散歩やサイクリングにも行けば、読書やペーパークラフトにもいそしんでいるんだけどなぁ。。。。あ~、こういう話も書きたいよぉ~
というわけで、きょうは相変わらずのカテゴリーながら やや暮らし寄りのお話を。
「人生という物語の作者」 なんていうと やたら壮大で大仰に聞こえるかもしれませんが、実際の人生って 小さくて平凡な選択の積み重ねだと思うのですね。
朝目が覚めたらすぐ起き出すか、布団の中でひとしきり過ごすか。
朝食は食べるか食べないか、食べるなら和食か洋食か。
出かけるか家で過ごすか、出かけるなら何を着て何を持っていくか。
外でご近所さんと出会ったら 挨拶だけするか、ひとこと余分に添えるか。
ことさら意識しないような こんなささやかな選択をつなげてゆくだけでも、ショートエッセイのひとつぐらい書けそうではありませんか。
十代、二十代のころは 「大きなことに取り組んで 華々しい結果を出し 名を上げてこその人生」 という感覚が強かったのですが、いまは こういう小さな出来事や感情の積み重ねこそ何よりの宝という氣がしています。
作った料理が美味しかったとか、播いておいた種からかわいい芽が出たとか、散歩中に珍しい雲や美しい夕焼けを見かけたとか、ふらりと入った店で初物の野菜や果物と出くわしたとか、そんなちっちゃな喜びがどこまでもどこまでも続いてゆくなら、それは十分豊かで満ち足りた人生だろうと。
こういうささやかで何氣ない幸せって 見逃そうとすれば簡単に見逃せてしまうのだけれど、そのありがたみを痛切に感じるのは、当たり前と思い込んでいた平穏な暮らしを失ったとき。
貴秋はこれを、和歌山時代にいやというほど味わいました。
晩秋の山腹の駐車場から 夕闇迫る眼下の街並に明かりがひとつ またひとつ灯ってゆくのを眺めつつ、「今の自分には入れてもらえる団らんも温もりもないんだな」 と思ってぽろぽろ涙したことが幾度あったか。
そんな哀しみを知ってこそのいまの自分。。。という氣がします。
ウクライナやロシアの人たちも、どんなにか切実に以前の暮らしを思っておられることでしょう。
コロナで 家族や友人と過ごす時間のありがたみをかみ締めた人も多かったはず。
何もかもすっかり失ってしまうまで待つことはありません。
もしいま 辛かったり不安だったり寂しかったりするのなら、その感情を一度しっかり味わって終わらせましょう。
その先に、これまで見過ごしていたあたたかく豊かで安らかな世界が 私たちが戻ってくるのを待っています。
派手に人目を引き 羨望の的にならなくてもいい、この淡々と穏やかな日常こそ何よりの宝物と思えたとき、人生という物語がいっそう輝きを増すのだと思います。
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