毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

おかえり エゴくん

2014年07月16日 12時12分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ここ数日、「神との対話」 「はてしない物語」 ほか数冊を並行して読んでいます。

連想がおもむくままに あっちに飛びこっちに飛びしているのですが、そんな中 あらためてふと思ったのです。

私、相変わらず 「エゴ」 っていう言葉が苦手だよなぁ、って。

いや、言葉自体がどうのこうの、使っておられる方がどうのこうのということではなくて、私の思いグセみたいなものです。




「エゴ」 って、言葉自体にすでに マイナスイメージが内包されているように思うのです。

少なくとも私の中では、前もってそういう色づけがされてしまっています。

「エゴイスティック」 と聞けば まずいい意味にはとれないし、「エゴイスト」 と言われれば あまりお近づきになりたくないなぁ・・・と思っちゃう

色づけ・クセづけされた視点のことを 「エゴ」 と表現することが多いのかな、と思いますが、愛そのものである “ひとつ” から分けだされた 異質な要素が 否定的な色合いを帯びるのは、まあ当然といえば当然の話。

でも、それについて語るとき、それをさらに 「あってほしくないもの」 と否定的にとるか、「良くも悪くもそういうものだよね」 的に 中立にとるかの違いは、自身のその先の歩みに大きな影響を及ぼす氣がします。

言葉自体の問題じゃなく、その言葉を捉える意識のあり方の問題なんですね。





私はふだん 「エゴ」 という表現を避けて 「我」 とか 「自我」 という言葉を使っていますが、もし 「エゴ」 を使うとしたら、そこには「コイツうざ~い、ジャマ」 っていう氣持ちが入ると思う。

じゃあ、ネガティブイメージのエゴくんは、ほんとうにジャマもの扱いされなければならない存在なのでしょうか?





今まさに地中から顔を出そうとする植物は、真上に石ころなんかがあったら、それをよけて 斜めに生えてきます。

だから、不自然に曲がった形になっちゃうんだけれど、それができなかったら 枯れるしかないのだから。

私たちも、なんの障害もなく あるがままにすんなり伸びられたら幸せだったのかもしれないけれど、でもそれじゃあ わざわざ自分でないものに分けだされた意味がなくなっちゃう。

だから、前もってしっかり障害の種を仕込んでおいて 生まれてくるんですね。

そして、計画通り 見事にひん曲がって(笑)、「行き」 の道を歩き出す。

つまり、エゴくんは いのち強い ともいえるんですね♪

曲がって その後のリスクを背負ってでも、生き延びる道を選んだんだもの♪





エンリケ・バリオス作 「もどってきたアミ ~ 小さな宇宙人」 に、「あるていどまでの水準の人生において、エゴは一種の“救命具”のような保護者的な役目をしている」 っていう一文があります。

自分の体験に照らすと まったくそのとおりで、エゴくんの働きに守られてきたなぁって思う場面が どっさりあります。

たとえば、過食の体験も、不安と向き合う術を知らなかった あのころの自分には、そこから氣をそらしてくれる癒しが必要だったのです。

逃れることも 解消することもできないまま、あれほどの不安にさらされ続けていたら、心が壊れていたかもしれない。

だから、ダイエットのたんびにリバウンドしていたのは、今思えば 自己防衛反応だったんですね。

攻撃的だったり 尊大だったり、今出くわしたら そそくさと逃げ出したいような 以前の私 も、「自分は強いんだ、えらいんだ」 と無理にでも思い込むことで 潰れずにいられたんですね。

グッジョブだ、エゴくん♪





で、おかげさまで生きながらえて、これまたエゴくんが引き寄せてくれた トラブルの数々に背中を押されて、「自分を変えよう」 と決心するところから、「かえる」 道のりが始まる。

エゴくん素晴らしい働きぶりです(笑)

なのに、かえり道では にわかにジャマもの扱いされちゃう (T_T)

でも、「抵抗すれば 相手はますます大きくなる」 と 「神との対話」 にもあるとおり、ジャマにすればするほど大きくなるのが エゴくんなわけで。

じゃあどうすればいいの?





その昔、「来たものをよ~く味わって、感謝して、お別れすること。でないと、先へ進めませんよ」 とアドバイスをもらったことがあります。

当時は いまひとつピンとこなかったけれど、今はつくづくそのとおりだと思います。

先の 「 抵抗すれば ~ 」 のあとも、「見つめれば 消える」 と続くんですね。

ありのままのエゴくんの成り立ちや その働きを 客観的に見つめて、味わって、自分を守り続けてくれたことに感謝して、お役目を解いて 戻ってきてもらう。

「あれ? お別れするんじゃないの?」 って?

貴秋イメージでは、お別れするのは エゴくんの性質やお役目だけ。

つまり、異質な色合いを帯びて分けだされたエゴくんは、その色やクセだけを手放して 「エゴ」 ではなくなり、本来の姿にかえって ひとつに統合されるのです。

以前のブログに書いた アニメ 「魔法騎士レイアース」 で、悪役であり ヒロインの分身でもあるノヴァちゃんが すっかり力を失って 迎えるヒロインの腕の中に溶け込み融合する あの場面です。

この世に 意味なく生まれてきたもの、あってはならないものなんて、なにひとつないんだもの。

そういう意味で、今の世の 「ジャマものは 叩いてけなして 切り捨てる」 といった風潮は、このままどこまでいっても解決には至らないだろうなぁ、という氣がするけれど、それはまあ 余談☆





このプロセス、エゴくんは かなり怖がってる氣がします。

それはそうだよね。。。。いくら見捨てたりしないよ、変わるだけだよ、って言われたって、自分が自分でなくなるとは、ある意味 死を迎えるようなもの。

私たちが、いくら 「本来死というものはない。死とは 消失ではなく 変容だ」 って言われたって、やっぱり死ぬのは怖いなぁ、と思ってしまうのとおんなじ。

だからこそ、その働きを十分認めて、感謝して、愛を込めて 「おかえり」 と迎え入れる姿勢が大事なんじゃないかな

「ジャマだから消えて」 なんて・・・そんなむごいこと、どうして長年尽くしてくれた大切な分身に言えましょうか (;_;)




というわけで、私は 私でないものを手放すことは どこまでも続けるけれど、分離した自分を 「エゴ」 呼ばわりしてジャマには やっぱりしないよ。。。。と結論づけるつもりだったんですが。

エゴくんエゴくん書いているうちに、なんかエゴくんって可愛いなぁ、って思えてきちゃって (*^▽^*)ゞ

もう 「エゴくん」 でも 「自我さん」 でもなんでもいっかぁ~♪ ・・・・・って、どーゆーオチだ(爆)


















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