毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

無心

2014年07月10日 07時44分25秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「通奏低音」 とは、主にバロック音楽における伴奏形態を指す言葉で。。。。な~んて、その昔受けた西洋音楽史の講義を思い出すなぁ

譜面には 一番低音のパートのみが単音で記され、そこに和声を示す数字が添えられているので、その低音部自体を指す言葉としても使われます。

現代音楽に比べれば それはそれは慎ましやかなバロック音楽、中でもこの低音パートなんて あまりにも地味で ほとんど意識されないのですが、低音部を抜いた演奏と聴き比べると、「あ~ぜんぜん違う~、けっこう存在感あったんだなぁ」 と初めてその重みがわかる、というか。

突然なんでこんなことを言い出したかっていうと、この地味~な存在感の通奏低音って、「不安」 と似てるなぁ、って かねがね思っていたから。





「思い出は 美し過ぎて ~ 」 なんていう八神純子さんの歌があったけど、美し過ぎるどころか ふつうに美しいとか懐かしいとかいう思い出も ほとんどないといっていい貴秋。

そんなにいいことなかったの? どんな人生!? とか思われそうだけれど、そういうわけではないのです。

もちろん楽しいこともうれしいことも 一杯ありました。

ただ、記憶として振り返ると、意図的に集中して思い出そうとしない限り、ほとんど上がってこない。

最近は 後ろ向きでなくなったためか、良くも悪くも ことさらその傾向が強いのです。





ひとつには、幼い頃から 無自覚に感性を鈍らせていたせいでしょう。

まともに感じていたら あまりにもストレスの多い環境だったため、氣づかないところで防衛本能が働いて そういうことになってたみたいです。

記憶のもとからぼやけちゃってるんだから、思い出が鮮やかに上がってこないのも当たり前か (^^ゞ

もうひとつ思い当たるのは、前述の通奏低音のごとく 無意識のうちに常にまとわりついていた 「不安」 に遮られるせいか、と。

当時は氣づいていませんでしたが、どんなに楽しく浮き立っているときでも、実はひそかに 四六時中といっていいほど ベールのような不安に覆われていたらしい。

せっかくの記憶に届くより先に 手前のベールに触れてしまうおかげで、素敵なはずの思い出が 色調がくすんで見えたり不鮮明に映ってしまうようなのです。

そもそも、楽しいことに向かう動機自体が、純粋に楽しむためというより 「不安を忘れるため」 っていうのがほとんどだったみたいだから、それはもう不安につきまとわれるのも当然なありようだったのかもしれませんね (^_^;)





そんな私が、とりとめもなく浮かんでくる思い出に ひとつ 不安の影が混じってないものがあることに氣づいたのは、ついおとといのこと。

それは、小5のときにしばらく通っていた お茶のお稽古の記憶。

クラブで一緒だった 一年上の先輩のお母さんが お茶の先生をしておられるのがわかったとかで、これから毎週土曜の午後 そこにお稽古に通わせるから、とある日突然母から言われたのです。

しかも、同じクラブ所属の親友と二人で。

私の方から行きたいと言い出したわけではなかったけれど、けっこううれしくて 楽しみにしていたのを覚えています。





で、そのお稽古。

先生は、いつも着物をお召しで、子ども相手であっても 言葉遣いがとても上品で丁寧な 優しい方。

「友だちのお母さん」 というイメージとあまりにもかけ離れたその雰囲氣に、感嘆しきりだったものです。

本格的なお茶室に 親友と並んで座って お手前を教えていただくのですが、厳しくされたことは一度もなく、親友が教わっている間など どうやらすっかりリラックスして、ぼぉ~っと場の雰囲氣に浸り込んでいたようなのです。

肝心のお手前の手順ややり方などは きれいさっぱり忘れてしまっているのに、その場の情景や 味わった空氣は、今でも鮮明に覚えています。

午後の日がさす障子に映る、南天か何かの 庭木の影。

釜の蓋を開けるたび しゅんしゅんとたぎる湯から立ち上る湯氣。

たたんだ袱紗で なつめの蓋を拭くときの 丸みを帯びたなめらかな手触り。

しんと静かで ぴんと引き締まっているのに、ぴりぴりした緊張感はまったくない、得もいわれずたおやかで心地よい空間。

うっとりくつろいで味わう甘い和菓子、続いていただく抹茶の苦味さえ まろやかで優しい。

視覚的というより 心情的なものなのでしょう、ひとたびほどけ出すと あとからあとから湧き上がる、涙が出るほど懐かしい思い出。





思い出すこと自体は これまでにも何度となくありましたが、今回はっと氣がついたのは、この記憶に不安の影がまったくないのは ただ純粋にその場を感じて体験していたからだ、ということ。

つまり、あのお稽古中の私は、今 ここ に 完璧なまでに同化していて、不安の入り込む余地がまるでなかったのです。

あのころは、若いクラス担任の先生が 手のかかる子どもたちを うまく統率できず、自信をなくしてお休みしがちで、クラス全体が不安定になっており、そんな中で まわりとうまくなじめず 孤立していた私には、つらいこと・氣の重いことがやたら多い日々だったのに。

他の時間については、家だろうと学校だろうと 鮮やかな記憶なんてまったくといっていいほどないのに、このお茶の時間の記憶だけが 別格状態で インナーワールドに大切に大切にしまわれて、今なお輝きを放っているのです。





不安はやはり、今 ここ とは相容れないのですね。

過去のうれしくない記憶に 未来への懸念が合わさって生まれるのが、不安。

意識の焦点を 今 ここ にぴたりと合わせている限り、頭の中にしか存在しない不安につかまることはないのだと、思い出に教えられました。

つまりは、無心 ということ。

なにかに夢中で打ち込んでいるようなとき、不安が忍び寄る隙はない。

よく聞く 「ワクワクすること、大好きなことをしなさい」 というアドバイスは そういうことだったのね、と、おおいに得心がいったのでした。

























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