毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

名づける ・ その3

2014年07月23日 07時46分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、「アッシー」 なんて言葉が流行ったことがありましたが、仲間内で アッシーくんの報われない尽くしぶりや 傍目にこっけいな姿などを 揶揄的に取り上げて盛り上がっていたとき、横で冷静に聞いていた人の 「で、ほんとうにそういう人に会ったことあるの?」 というひと言に、ハタとわれに返って バツの悪い思いをしたことがあります。

面白半分で、ありもしないものに実体を持たせるようなことを 無自覚にやらかしていた自分の危なっかしさに氣づいて。

そんなことをしてまで 目を背けたかった、自分の心の貧しさをつきつけられて。

流行り言葉を ノリやテンションだけで使うことの意味を思い知らされた瞬間でした。

内容のない空っぽのイメージに 名前をつけて さも実在するかのように語ることは、自分もまわりも欺いて、エネルギーを無駄遣いさせたり、ひどいときには 悪意のこもったものをわざわざ生み出してしまったりするのですね。





「はてしない物語」 の幼ごころの君の 「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができる」 というのは、こういうことも含んでいるのかな、と思ったりします。

その本質や役割を正しく表す名前をつければ、正しい働きをしてくれるけれど、誤った名をつければ、本来ないはずのものがあるように見えたり、善意から生まれたはずのものに 否定的な意味合いが生じたりしてしまう、と。

これは、名前をつけた人だけでなく、使う人にも当てはまることなんですね。

ジョークや軽いノリで使う言葉に いちいち目くじら立てることもないけれど、それが大切なこと・重要なことであればあるほど、名を持つものの本質的な部分をちゃんと理解して 感じ取って使うかどうかで、自分の周りの世界が大きく違ってくる。

自分の愛するものによかれとの願いを込めて それに見合う名前をつけることも大事だけれど、それ以上に慎重になったほうがいいのは、好きになれないもの、力を与えたくないものに名づけるときなのかもしれません。





たとえば、「嫌韓」 なんていう言葉にしても、人それぞれにいろいろな過去があるのだし、そこから好き嫌いの感情が生まれてしまうのは ある程度仕方がないことなのかもしれない。

ただ、自分にとっての 「韓」とは 具体的になにを指すのか、「嫌」 とは どういう感情を表すのか、ちゃんとその “現地” をわかったうえで使うのならまだいいけれど、なんとなくのキャッチフレーズみたいなものに うっぷんばらしのエネルギーを乗っけて言い放ってしまうとしたら、それは怖いことのような氣がします。

なんといっても、自分が発したものは、自分に返ってくるのだから。

自分で責任持って受け止められないエネルギーを 八つ当たり的に野放しにしてしまうのは、誰にとってもいい結果になろうはずがない。

今の世の中で なにかとフラストレーションが溜まりやすいのはわかります。

でも、ほんとうに解消したいと願うのなら、そのできる限り元の部分をしっかり見つめるしかない。

でないと逆に、自分がフラストレーションの製造元になってしまいかねません。

「抵抗すれば、相手は大きくなる。見つめれば、消える」 なのですから。

どちらも ( 特に前者を多く ) やってみた身として、まったくそのとおりだと思います。

イヤなもの、なくなってほしいものに わざわざ名前をつけて 憎しみや非難の的にするのは、その存在にはっきりした形や居どころを与え、エネルギーを注いで強化して、怒りや苦しみを大きくするだけ。

もちろん、なにを選択するかは それぞれの自由だけれど、自分の捉え方、意識の向け方が、ほんとうに自分の望む結果に結びつくのか、名づけることの意味と考え合わせて よぉく観察する方がいいんじゃないかな?





自分が名づけて分け出したもので、自分の世界が創られる。。。。ある意味 神的といってもいい創造行為。

せっかく与えられた力なら、自分のほんとうの望みどおりの世界を創るために うまく使うほうがよくないですか?

私たちみんな、“ 大いなる ひとつ ” のひとかけら、いわば神の分身なんだもの。





自分が世界を創っているなんてあり得ない、って思います?

でも、私たちみんな ひとり残らず その力を持ってるし、現に生まれたときから 今この瞬間に至るまで 日々刻々使ってもいます。

自分のまわりの世界と、自分の心をじっくり照らし合わせて見つめてみれば、きっと思い当たることがあるはず。

あとは、その力を無自覚に使うか、意図して望むものを創るのに使うか、その選択だけ。

今いる世界が氣に入らないなら、創り変える力を 誰もが持っているんですよ \(^o^)/





名前と聞いて もうひとつ思い浮かぶのが、この曲、ゴダイゴの 「ビューティフルネーム」。




      名前 それは燃える命

      ひとつの地球に ひとりずつひとつ

      Every child has a beautiful name

      A beautiful name,a beautiful name

      呼びかけよう名前を すばらしい名前を




そう、子どもたちだけじゃなくね。

名づけられた誰もが、なにもが、みんな命を吹き込まれて この世界に息づいている。

そこに どんなエネルギーを乗せるかな? 入れるかな?





あなたは どんな世界を 創りたいですか? (*^ー^*)






長文をお読みくださって ありがとうございました。

























2 コメント

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おはよ~\(^^)/ (ぴょんこ♪)
2014-07-24 06:53:22
今日も 蝉の大合唱
賑やかです!
この前は 私のメッセージアップと貴秋ちゃんの記事アップが重なっていたね
名前の 1を読み メッセージアップしたら
その間に 貴秋ちゃんも 名前の 2をアップ
二人が 同じブログ内に存在していた時間の重なりがあったことが嬉しかった♪
でも微妙なすれ違いをしたみたい~かな(^^;

今回の名前に関する貴秋ちゃんの思い
こんなに色んなお話を重ねて説明してくれてて判り易いし このあれこれの重なりが うまく出来てる~と いつもながらの文章力と 合わせて 貴秋ちゃん すごいわ~と思いました。
私 貴秋ちゃんみたいに カタカナの名前 覚えられないの 昔から
だから 貴秋ちゃんがカタカナの名前をスラスラ出せる事も すごいって 前から思ってた
そして 今回の名前シリーズ
出るべきして出てきた記事のようですね(^w^)
想像して創造する私たちの世界
無意識に呼ぶ呼ばれる名前 意味も思いもある
気持ちよく晴れ晴れ生きていきたいよね
いろんな心のひっかかり
無いに越したこと無い
ひっかかりを引き寄せることもないんだから
ここを読んで
今日もハレバレするよ!
ありがとう~
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ぴょんこちゃん♪ (貴秋)
2014-07-24 08:44:32
おはよ~♪
そうなのよ~、いつもならもう一度自分のブログに戻ってくるところなのに、あまりの蒸し暑さに これ以上パソコンの放熱にさらされていられないって 早めに終了しちゃったの(^^ゞ
でもたしかに 同じ場を共有していたのよね♪

たぶん 小さい頃から親しんでいた「岩波少年少女世界文学全集」のおかげで、カタカナ名前には抵抗がないんだと思う。
他のところで 私にもどうしても苦手で頭に入らない分野もあるのよ☆
思うんだけど、それぞれに得手不得手があって、互いに補い合ってるんじゃないかな。
だから、自分の関心が向かないものは、他の誰かがやってくれるから、めいめい好きなこと・得意なことだけしてればいいんじゃないかと

私がなにかに「あ」って思うときは、いつもこんな感じなの。
あちこちにバラバラに放置されていた断片が、何かのはずみにぱたぱたっと関連づけられて組み合わさって、一枚のパズル絵が出来上がる、みたいな。
だから、「あ」は一瞬のことなのに、言葉化すると 毎回とんでもない量になっちゃって、まさに圧縮ファイルの解凍状態
だから、ぴょんこちゃんみたいに丁寧に読んでくれて共感してくれて、こんな素敵なコメントまでもらえるなんて、いっつもうれしくてありがたくて じ~んときちゃうんだなぁ

言葉や思いの力ってバカにならないって、前にも増してひしひしと感じます。
ひとりひとりの引っかかりがなくなっていくことと、世界がいいほうに変っていくことが、ぴたりと重なっている氣がする。
だから、私みたいなちっぽけな存在でも、自分に役立った体験は とにかく表に出して、 いいように使ってもらいなさいって背中押されている氣がしてね。
実は書きかけの草稿がけっこう溜まってるんだけど、そうそうこの暑さの中 パソコンに取りついてばかりもいられないし、最近いささか焦り氣味の貴秋です
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