子どものころから 空が大好きです。
一日の最初に表に出たら、まず空を見上げて その日の表情を確かめるのが日課。
カメラを向けることも多く、ちょっとドラマチックな様子だったりすると、あっというまに数十枚撮ってしまっています。
スーパーの駐車場などで 上を見上げてばしゃばしゃシャッター切っていて、まわりから怪訝な顔をされることもしばしば (^^ゞ
ただ、これが 「雲ひとつない真昼の青空」 のときは 例外。
光みなぎり 冴え冴えと力強い空は お天氣的にもエネルギー的にもうれしいのだけれど、写真にすると ただの青一色、言われなければ 空だということもわからないぐらい。
はっきり言っちゃうと、単調で退屈なのです
こういう空を見ていると、私たちの源 “おおいなるひとつ” のことを 思い出します。
ただそれしかない、それ以外のものがまったく見当たらない。
完璧だけれど、自身が完璧であることを ただ知るのみで、それ以上味わうことができない。
どれほど素晴らしい存在でも、それってやっぱり退屈だろうなぁ。
自身の完璧さ素晴らしさを もっと存分に体験したくて、わざわざ自分を 不完全な細切れに分けて、本来の自分でないネガティブな要素を盛り込んで 。。。。。そんな手の込んだことをした氣持ち、わかるような氣がします (*^▽^*)ゞ
私たちは、その意向に基づいて コントラストの妙を味わうべく この世に送り込まれた、いわば “天の不完全なひとかけら” なんですね。
私たちが生きるこの世界は、コントラストの世界。
正負、明暗、高低、優劣、美醜、貧富、賢愚、さまざまな対比の両面を味わうことで 奥行きや深みが増してゆく世界。
「禍福はあざなえる縄の如し」 という言葉は、まさに コントラストに彩られた そんな世界での 私たちのありようを表しているんだなぁと 感心させられます。
そこまでわかっていてなお、快不快ということになると ついつい不快を避けてしまい、結果よけいに 不安や怒りといったしんどい感情を長引かせて 半世紀を越えることになってしまいました。
まあ、それを受け止められる自分になるまで 待たなければならなかった、ということなのでしょうが。
で 今、溜まった夏休みの宿題に ヒィヒィ取り組む8月末の子どものように、半世紀分の負のおとないを受け続ける毎日です ( ̄∇ ̄;)
時としてキツイです、消耗します、自分が何を何のためにやってるんだか わけがわからなくなったりすることも。
そんなさなか、絶妙のタイミングで 「自分の道をたどっていると ネガの嵐を潜り抜けねばならない時が訪れるが、それこそが 長きに渡って持ち続けた負のカルマ解消の時なのだ」 というような情報が ぽんぽんと飛び込んできたりして、がぜん元氣づけられ、めらめらとヤル氣が湧いてきます
魂の私 グッジョブ、ほんとうにうまく仕組んでおいたね
けさも ちょうどこれを書いている最中に ふと見に行ったおなじみのブログで、こんな情報を見つけました。
そう、切り捨てるんじゃなくて 取り込むんだよね。
それが、二極のあいだで揺れ動くのをやめ そこを越えてゆくっていうこと。
あえて二つに分けたものを 再び統合し、本来の自分に還ってゆくということ。
せっかく望んで このコントラストの世界に生まれてきた私たちが、翻弄されるのではなく この世界の妙を 十分味わい楽しむために。
一番怖れているものから目を背けず、その真っ只中に飛び込み 突き抜けて 初めて見えてくる景色があるようです。
目に映るものは いつもとまったく変わらないのに、なぜか世界が違って見えてくる、なんとも不思議な心地です。
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