毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

“自分”  このやっかいで 愛おしきもの

2016年04月04日 11時46分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「自分」 っていう言葉を最初に思いついた人は知らないけれど、なんて的を得た表現なんだろうと 使うたびに思います。

自ずと分けだされ、また 自ら分け出すものでもあるという その本質が、たった二文字で表現されているなんて。

そう、私たちは いのちの源から 自ずと分け出された存在であり、また その言動によって 自らも有形無形さまざまなものを分け出しながら生きている存在なのですね。




前に 「分離はいのちの力を弱める」 と書きました。

私たちのからだの細胞ひとつひとつは、筋肉、骨、血液、髪の毛など それぞれ形も働きも違うけれど、自分の役割に専念しつつ 他の細胞とも調和連携して 、総体であるひとりの人間の生命を 最良に保っています。

もし 種類の違う細胞どうしが 互いの違いにこだわり 比較し合い、自分と違う相手を嫌ったり 優越感からいばったり 引け目を覚えて落ち込んだりすれば、調和は乱され、細胞の主の健康も損なわれてしまうでしょう。

この細胞を人間に置き換えて考えると、今の私たちの社会は ちょうどそんなふう、本来の自分を生き切って 幸せや充実を感じる代わりに、他者との比較や競争で 調和を失いかけているように見えます。

自他を区別しようとする意識の働き、これもまた 生につきものの自己表現であると同時に、“大きなひとつ” という本来のありようへ戻ろうとするいのちの流れに掉さす 分離の動きにもなるのですね。




私たちの生の営みは 区別し 分け出すことで成り立っており、そういう形での活動や表現をやめるわけにはいきません。

さりとて 分離を重ねて源からどんどん離れ、調和を壊し いのちの力を弱めたくもない。

ではどうすればよいか。




これは何の本で読んだのだったか、たしかOSHOこと バグワン ・ シュリ ・ ラジニーシの本じゃなかったかと思いますが、「舟で川を渡ったら、空になった舟はそこへ置いてゆく、次の川に備えて わざわざ担いで運んだりはしない」 というような講話を覚えています。

私たちの表現も それと同じく、必要に応じて線引きし 分け出す、それが済んだら ただちにその線引きを手放し その都度リセットし直す、とすればどうでしょう。

スポーツやゲームを楽しむために 敵味方に分かれ、終わったら チーム分けもご破算にして、再びみんな元の仲良しに戻る。

家庭、学校、会社、さまざまな場に応じて それぞれの立場や役割があるけれど、いったんそこから離れたら 立場や役割からも降りて、フラットな関係に戻る。

表現活動の結果として 作品は残るけれど、作り手は すぐまた新たな意識に返り、一から新しい作品作りに向かう。

そのときそのときで いろいろな自分になって いろいろなものを生み出すけれど、それはあくまでもかりそめの姿、終ったらすみやかに役割から降りて、 結果や産物に未練を残さず、ただ 今 ここにあるがままの 素の自分に戻る、ということですね。




・・・・・と言うのは簡単ですが、実際にはこれがなかなか難しい。

わが子が一人前に成長してからも つい親として上からものを言ってしまったり、職場を離れても 立場や上下関係はそのまま引きずったり、試合が終った後も ファンどうしがいがみ合ったり、素晴らしい作品や成果を残した人が 過去の栄光にしがみついたり。。。。。などということが どうしても起こってしまいます。

認められたいという欲求、日ごろのうっぷんを晴らしたくなる心理、評価や対価への執着、常日ごろから胸の奥に潜んでいた さまざまなわだかまりが、いのちの一員へとまっすぐ戻ろうとする進路を曲げてしまうんですね。




分け出し 分け出されるものであり、同時に 大きなひとつのいのちの一部もある私たちが、そんなふたつのバランスをちょうどいいところで保って 自由に楽しく生きてゆくためには、ふたつの自在な行き来を阻むものが何なのか、おおもとからじっくり見つめて 感じ 受け入れることが どうしても不可欠だと思うのです。

分離を楽しむこともできれば 苦にすることもできる、選択はそれぞれの自由。

ただ、今 世界のあちこちが軋み バランスを崩しかけているように見えるなら、その原因は 外ではなく ひとりひとりの意識の内にあります。

元から確実に立て直すことで、手がつけられないように見える世界も、まだまだ 救いやチャンスは 山ほどあるのです。






















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