毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

“ゼロの領域” と芭蕉の句

2018年08月16日 12時56分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


早朝のセミの合唱が こころなしか小さくなったような氣がします。

この夏もあちこちでセミの抜け殻を見つけ、頭上で鳴いている一団の中に この殻の主もいるのかな~なんて思ってみたりしたものですが、もうそのほとんどは土にかえったことでしょう。




ある朝ふと、「閑さや岩にしみ入る蝉の声 」 という芭蕉の句と、よく聞かれる 「蝉が鳴いているのになんで 『閑さや』 なの?」 との疑問を思い出しました。

たしかにセミの鳴き声って 一匹でもかなりの大音量ですよね。

それでいて、不思議と 「やかましい」 という氣にはならない。

芭蕉がどのようにセミの声を聞いていたかはわかりませんが、人氣のない緑豊かな山中で ひとり静かにセミの声音に耳を傾けるさまを想像してみました。

そしたらふと浮かんだんです。

セミの声が静かなんじゃなくて、セミの声が響いたことで浮かび上がったまわりの無音の空間が静かなんだって。

ただ静寂しかなかったら、当たり前すぎて 静かであることに意識が向かないかもしれない。

そこをつらぬくように響き渡ったセミの声に、周囲の真空に吸い込まれるような静けさが際立って感じられたんじゃないかな。

音があるから静けさがわかる、コントラストの世界ってそういうものなんですね。




このとき芭蕉が感じた静けさは、コントラスト効果から導かれたものではあるけれど、「うるさい」 に対しての 「静か」 じゃなく、セミも岩も木々も芭蕉自身も すべてがそこから分け出されたおおもとの “無の領域” から感じる静寂だったような氣がします。

貴秋いうところの五感を超えた世界、“おおきなひとつ” 、「ないものがある」 ゼロの領域。

音の有無を述べているというより、あるけれど五感ではつかめないその領域に ふと氣づいた、それを詠んだように感じます。

その情景を思い浮かべるだけで こちらも時空を超えて 言葉では届かない領域に触れるともなく触れられる、そんな魔法のような句を詠めるから、芭蕉はいまなお名高い俳人なんでしょうね。




句は詠めずとも、私たちも日常のあちこちで その領域を感じています。

ただ、感じていることに氣づくか氣づかないかだけ。

貴秋もあるとき、会ったことのない人の話し声や文章から なんとなくその人のイメージを感じ取っていることに氣がつきました。

いま思えば ずっと以前から感じていたのだけれど、そのときまで感じていることに氣づかなかったんです。

イメージといっても 姿形など具体的なことではなく、言葉の向こうに透けて見える なんとなくの空氣というか雰囲氣というか色合いというか そんなようなもの。

たとえば、文法などおかまいなしでときにたどたどしかったりするけれど とても暖かくまろやかなものに包まれたり、すっきり整然と語られているのに なぜかぴりぴりした緊張感やとげとげしさが伝わってきたり、楽しげな口調の合間に 諦めや寂しさが感じられたり。




五感で知覚できる世界は取り繕うこともできるけれど、感じる世界は真実そのもの。

貴秋が五感を超えた世界に関心を持ち始めたころに比べると、いわゆるスピリチュアルの分野もすっかり市民権を得た感がありますが、無の領域に氣づいたり感じたりする人も増えたのでしょう、昭和の時代なら暗黙の了解で隠しおおせたものが いまは次々明るみに引っ張り出されているような氣がします。

また、「想定外」 の自然災害にやたら見舞われることで、理論脳だけでは対応し切れない状況に直面することも増えているような。

これまで “無 ・ 0” に関心がなかった人たちのあいだでも、その存在感は徐々に大きくなっているのかもしれません。


















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