「私」 という言葉が からだを介して あの ”在る” と結びついていたとは、ほんとうに驚きでした。
体内に響き渡るさまざまな雑音にかき消され、また 「私」 = からだ、感情、思考、記憶、名前、性格などの寄せ集めだと思い込んでいたために、これまでまったく氣づいていなかったのです。
「私」 = “在る” とは、「私」 なるものがいまここに確かにある、あるとわかっているからこそ 「私」 と言えるんだ、ということなんですね。
意識して 「私」 と言うたび、ああ確かに私はここにいる、ここに在る という感覚にすうっと満たされるのがわかります。
「 I am (私は在る) 」 とは、「 『私』 なるものが存在する」 ということと、「 『私』 とはすなわち この “在る” だ」 ということを同時に表現しているように感じます。
まだ2~3歳のころ、折り紙の 「帆掛け舟」 で遊んでもらうのが大好きでした。
リンク先の折り紙教室では 「だまし舟」 となっていますが、ただの折り紙でなく その 「だます」 ところがこの舟の魅力。
下のほうに書かれているように 帆先を押さえて目をつぶっていると、母から 「ハイ、目を開けて」 と促され、目を開けるとなぜか押さえたところが舳先に変わっている。
そこでおおげさに 「あらあら こっち持ってって言ったのに なんでそんなところ持ってるの?」 なんて言われると ぞくぞくするような快感が湧き上がってきて、種明かしされたあとも 少しも飽きることなく、母がうんざりするほど繰り返しせがんだものでした。
真我 (これまた “在る” の別名といっていいでしょう) とマインドの立体メビウスの輪は、この帆掛け舟を思い出させます。
ここからこっちが真我で こっちがマインドという明確な線引きなく、互いにいつのまにか入れ替わるような形でひとつになっている。
自然界における境界線は たいていグラデーションであいまいですが、真我とマインドという明らかに異なる二つも、マインドが真我に氣づいている限り やはりそのようにくっきり分けられない状態で一体化して、ひとりの「私」 として機能するんですね。
そんな 「真我」 ・ 「私」 すなわち “在る” は、巡りゆく世界の中心にあって 動かないものだと感じられます。
「私の~」 が付くものは なんであれみな変化してゆくし、季節も昼夜も刻々移り変わり、花も草木も水も空氣もさまざまに変化しながら巡り続ける。
一方 “在る” は、時空の境界もなければ、定まった形も場所も質量も持たない、不変で不動の存在。
安定した巡りとは、時計やコンパスの針のように 動かない中心があって初めて可能なのですね。
移ろいゆく世界には 不動の中心が必要であり、この世界の万物の中心は “在る” なのだと感じます。
・・・・・・と ここしばらくで ぐっと身近になり親しみが増した “在る” ですが、内側でたしかに感じ取れはするものの、五感の世界を超えているがゆえに はっきりつかむことも 言葉で表し切ることもならず 捉えどころがないのは 相変わらず。
ですが、ここに量子物理学の初歩知識が加わると、なんとなくそれなりに納得できる雛形のようなものが 垣間見えてきます。
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