“無条件幸福”に目を開かされるのと並行して、否定的な観念についても 大きな発見がありました。
子どものころ 人からされて辛かったことを 自分も他者に対して行うようになるとは、以前から言われていること。
幼少期に虐待を受けた人が 自身も子どもを虐待する親になる、などは その典型ですね。
この 「他者」 を 「投影された 自身の姿」 と見ると、自分がされて辛かった仕打ちを 自分で自分にするという、妙な構図になります。
自分で自分を責めさいなむ 自己否定というこの現象も 内的探究ではよく取り上げられていますが、自分がそういうことをしているという実感が なかなかつかめずにいたのですが。
もうかれこれ6~7年前のこと、バイトしていた旅館で 仕事の後温泉に入っていて、ちょうど居合わせた 若いお母さんが 小学生になるかならないかぐらいの娘をヒステリックに叱りつけているのを目にして、母と娘の双方にいら立ちを覚え、おや? と思ったことがありました。
お母さんはともかく なんで娘さんにまで? とわれながら不思議だったのですが、そのとき不意に、同じようにヒステリックな叱り方をすることの多かった 自分の母親のみならず、叱られてビクビクおどおどしていた当時の自分にまでも ずっと不快感を持ち続けていたらしいことに 氣がつきました。
自身を守り 反撃できなかった不甲斐なさに 怒っていたということ?
が、感覚フォーカスがまだ身についていなかったころのこととて 思い出すだけで苦しい記憶や感情を それ以上深追いする氣になれず、そこでストップしたまま棚上げになっていました。
自分が辛かったから、弱い立場の相手、とりわけ子どもに対して感情を荒げるのは 極力控えるようにしていましたが、我慢はしても 真の解決には至れぬまま。
そして、人にはぶつけられないいら立ちを 物にぶつける長年のクセがあり、それが パソコンに対して特に激しく出るのが ずっと氣になっていました。
パソコンの動作が遅くなったりおかしくなったりするたびに、異常なほどかんしゃくが募り、罵声を浴びせたい衝動が抑えられなくなるのです。
この 「スムーズに動かないパソコン」 を 自身の鏡と見立て、感覚フォーカスしながら掘り下げていったら、思いがけないものが見えてきました。
「動作が遅い」 と 「いら立ち」 この二つのキーワードから思い浮かぶのは、まさに幼いころの自分と母親。
生来のんびりやでアダージォ (音楽用語 ・ ゆるやかに の意) な私は、しょっちゅう早く早くとせき立てられ テンポに乗り遅れては 叱られていました。
感情の波立ちを抑えられなかった母は そんな私のクセに ことさら厳しく当たり、そのきつい叱り方に こちらも大きな怒りや反発を覚えるようになっていました。
そこまでは以前から自覚していたのですが、もうひとつ 母の私へのいら立ちが、幼い私の脳に いつのまにかそっくりそのまま刷り込まれている事実を、長いあいだ見落としていたのです。
「なにをぐずぐずしているの!」 という怒りに満ちた母の声が、「ぐずぐずしていたらまずい、また叱られる」 という 怯えを伴った緊張から 「ぐずぐずしていちゃダメ!」 という 自分への戒めに変わり、やがて 無意識のうちに 母そっくりに自身を責め立てる声になった。
あの温泉で 小学生の娘さんに覚えたいら立ち、そして 動かないパソコンによく感じていた激しい怒りは、私本来のものではなく、その昔 母からそっくりそのまま写し取られた 母のいら立ちや怒りのコピーであり、それをいつのまにか 自分自身のものと思い込んでしまっていたのです。
長くなりそうなので、続きは次に。
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