小学生のころからガチガチにからだが硬く、運動嫌いな性分もあって ことさら改善の意欲も湧かないまま大人になった貴秋ですが、そんな私が柔軟性を氣にかけるようになったのは、あの 勝手に師と傾倒し 祭り上げていた人の講座で 心とからだの柔らかさの相関関係について 話が及んだときのこと。
心がしなやかで囚われのない人は それがからだの柔らかさにも現れるらしいと聞き、だったら からだが柔軟になれば この思いどおりにならないガチガチの心も 少しは言うこと聞くようになるだろうかとの期待から、これはひとつ試してみようとトライし出したのですが、あるときふと氣がついたのです、無意識のうちに 自分からからだに力を入れて わざわざ曲げにくくしていることに。
で、その力みを抜いてみたら、ほんの少しずつですが これまで曲がらなかったところまで曲がるようになってきて、すっかりうれしくなり のめり込んで かなりの成果を上げましたが、調子に乗ってやり過ぎたのか 右足の筋を痛めてしまい、一氣に熱が冷めてそれっきり、十年以上経った今は もとのガチガチなからだに逆戻り (T_T)
それが再び からだの柔軟性に意識が向いたのは、今冬の印刷会社のバイトがきっかけ。
ここでは毎日始業5分前に ラジオ体操の音楽が流されるのです。
最初はみんな氣に留めなかったけれど、そのうち 戯れ半ばに体操をする人たちが現れ始め、私もその仲間入りをして 久々にやってみたら、これがなかなか氣持ちいい♪
そうして 顔ぶれががおおよそ定まった体操メンバーの中に、とてもからだの柔らかい男性がいました。
立位体前屈なんて、脚がぴーんと伸びたまま 手のひらが楽々ぺたっと床に着くのです。
毎日感嘆しながら眺めるうち、いつの間にか その光景が脳裏に焼きついていたようです。
ここしばらく 真我を導き手に これまでにないほどの熱心さで 思い込みの解放&書き替えに勤しむ中、ふと心とからだの柔軟性についての話を思い出したのは、あのときの彼の記憶と相まってのことでしょうか。
そこで ふいにひらめきました。
許容範囲を超えてからだを曲げようとすると走る 筋の痛みやこわばり、これも実は幻なんじゃなかろうか?
これを感覚フォーカスで見てみたら どうなるだろう?
こうなったらもう 試さずにおれるものではありません ( ̄∇ ̄*)ゞ
あのラジオ体操の彼と同じ 立位体前屈での探究のスタートです☆
ここから先の進捗状況は、腕のときと ほぼ同じ。
やはりというか、許容範囲を超えて前屈を試みたときの 脚裏の痛みや 筋のこわばりは、観察していると 次第に消え始めました。
ということは、これも なんらかの思い込みやわだかまりの表れか d(≧∀≦*)
心の解放がかかっていると思うと がぜんやる氣が増しましたが、これまた ある程度を超えると 一進一退となります。
いったん消えたはずの痛みやこわばりが 次回にはぶり返し、芳しい成果が上がりません。
こういうときは 諦めの悪いわが性格に感謝したくなります。
この先がどうしても知りたいという好奇心の成せる業でしょう (^^ゞ
3~4箇所決まった筋に 痛みやツッパリ間が 繰り返し現れるのがわかります。
この筋一本一本に それぞれなんらかの思い残しが投影されているということでしょうか。
心のほうの感覚フォーカスでも 同じようなことがありました。
根幹を成す根深い思い込みやわだかまりほど 手放しても手放しても戻ってきますが、それだけ解放できたときの変化も大きいということ。
ここであきらめてなるものかと 忍の一字でフォーカスを続ける最中、もうひとつ 興味深い情報が飛び込んできたのです。
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