毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

不毛

2015年02月15日 08時44分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


これまでにも何度も引用させてもらっている ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 ですが、文庫版第2巻の 「ヒトラーは天国へ行った」 という話に絡んで、「どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない」 という一文があります。

これ、ほんとその通りだと思うんですね。

誰のどんな行動も、本人視点では 筋が通っている。

傍目にどんなとんでもないことをやらかした人でも、自分には こうするだけの理由があるという思いを 心のどこかに持っている、ということ。

社会的規範を侵したのはわかっているから、相応のペナルティを科されるのは仕方がないとしても、そんなところまで追い込まれた自分にも 言い分はあるんだ、という氣持ちも その奥に潜んでいるんじゃないかな。




人が成長してゆく道筋において、誰でも 赤ん坊の頃は 幸せで満ち足りて 純真無垢。

生まれながらに “黒い赤ちゃん” なんていないものね。

生後間もないほど、それだけ神に近い存在。

そこへ、まわりの大人たちから さまざまな制約が課せられ、少しずつエネルギーを削がれてゆく。

これって、本人目線で言えば すごく理不尽なことですよね。

何を悪いことしたわけでもないのに、枷をはめられ 自由を奪われて つらい思いをして。

ゆえに 多くの人が、本来自分は プラスもマイナスもないゼロ地点にいたはずなのに、不当にエネルギーを奪われ マイナスになってしまったのだから、貸しがあるんだ、いつでも取り返しにいっていいのだ、という感覚を (無自覚にでも) 持っていて 不思議はありません。

制約の度合いは人によっていろいろだから、ほとんどわだかまりのない人から 恨みの塊みたいになってしまう人まで、その差は大きいけれど、影響は社会全体に及ぶわけですね。

いや、今はマイナス分を取り戻すどころか 「倍返し」 がもてはやされるような時代だから、よりエスカレートしているというべきか。




私の場合、この 「不当感」 はそうとう大きかったし、そこへ抑圧が加わって 怒りなどの感情をストレートに出せず 抑え込んでしまったものだからなおさら 溜め込んだマイナスエネルギーも半端なく、しかも素直に表現できないまま 常に爆発寸前という 二重苦、三重苦。

それだけ、おのれ見ていろ、いつか必ず奪い返して目にもの見せてやる! という一念も強固だったわけで。

でもね、あるときわかっちゃったんです。

奪い返す! って思うのは、そうすれば 自分の不当に奪われたマイナスを取り戻して満足し、再び幸せな自分になれるっていう期待がどこかにあるからだけれど、実は どれほど人から奪っても、欠けたものが埋められることは 決してないんだっていうことが。




だって、私も人から奪ってやる! と決めた時点で、自分もダークな人になっちゃっているんだもの。

その暗いエネルギーは、確実に自分に返ってくる。

奪うという不条理な行為に 同じ行為で返すと決めたところで、終わりの見えない 負のサイクルに入り込んでしまうだけ。

想像してみればわかります。

人を傷つけて、被害者がある人数に達したとたん くるりと心が入れ替わり、晴れ晴れと幸せな氣持ちになって、もう二度とこんなことする必要ないわ♪ なんて思えるものかどうか。

放った負はそのままにしておきながら、自分だけが貸しをプラマイゼロにし、清らかな心を取り戻して 無条件の幸せを得られるはずなんてないのですね。




実際 まったくその通りでした。

どれほど怒ろうとごねようと、たとえ傷つけた張本人に 直接怒りを叩きつけたところで、小さな意地の悪い満足は得られても、ブラックになってしまった氣持ちが 清々しく晴れ渡り、怒りの念が雲散霧消するなんてことは、ただの一度もなかった。

そして、これをどれほど続けても、怒りと奪い合いの循環から解放されるときなんて 決してやってこないんだって 身に沁みてわかったのでした。

今はさらにわかるんだけれど、私が敵意を持ってエネルギーを奪おうとした相手って、実はみんな自分なんだよね。

自分のダークな部分の象徴。

つまりは、あきらめきれない自分のひとり相撲だったんですね。

マイナスを取り戻そうという試みに 終わりがなかったわけです。

執着して すごいエネルギーを注ぎ込んだというのに、なんたる不毛。




そんなこと言ったって、じゃあ現にここにあるこの怒りはとうすればいいのよ? っていうことになるかと思いますが、ブレイクスルーの機会は ちゃ~んとありました。




次に続きます(^^)













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