毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その10

2020年12月14日 10時39分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「ヒューマニエンス ・ 49億年のたくらみ ~ 自由な意志 それは幻想なのか?」 で いとうせいこうさんがいみじくも言われたように、知覚できない意志の存在を知るということは 「自分とはなにか?」 という問いに直結するんですね。

知覚できる個の意識、すなわち顕在意識だけを自分とすれば、知覚できない意志の存在は異様に思える。

でも、その知覚できない意志も含めてすべてが 「自分」 だとしたら、自分というものの定義自体が変ってくるわけです。

五感を通して知覚できないものは、たとえ科学的に存在が証明されていても 自分にとってはないのと同じこと。。。と考えれば、「その8」 や 「その9」 でご紹介した実験結果は落ち着きの悪いものになりそうですが、実際には 私たちは 氣づいていようといまいと すでに知覚できない領域から個を超えた情報を引っ張り出して、毎日の生活に役立てているのです。




顕在意識 = 自分 だと思っていると、過去の体験から論理的に導き出す以外に知識や情報を得るなど思いもよりませんが、しかし世の中には時として ぶっ飛んだことを思いつく人がいます。

衛星写真もロケットもない時代に地球は丸いと言い出したり、翼もない身で空を飛ぶことを夢見たり、誰もが呆れ顔で耳を貸さない、いやそれどころかヘタをすれば狂人扱い ・ 村八分 ・ 処罰などの憂き目に遭いかねないとわかっていても 突拍子もない思いつきをどうしても捨てられず追求し続けた酔狂な先人たち。。。彼らが常識だの社会通念だのに屈せず信念を貫き通してくれなかったら、いまの私たちのこの豊かで便利な生活もないわけです。

いや そこまで大きなことでなくとも、夕べのおかずのリサイクルアイデアでも新規事業の開拓でも便利な道具の発明でも、私たちは日常の多くの場面で それまで自分の情報圏内になかった思いつきを 顕在意識の守備範囲を超えたところから得て 日々の暮らしに役立てている。

そう思えば、顕在意識が行動を決める前から脳の活動が始まっていても、理詰めでものを考える自分だけではない、知覚しないところで着々とことを進めている自分だっているんだと認識を改めても構わないのではないでしょうか。




実のところ、私たちが自身の意図と違うものにコントロールされていると感じるのは、物事がうまくいってないときではないかと思います。

幸せになるつもりで進学 ・ 就職 ・ 結婚したのに、事は思い通りに進まず 思惑とかけ離れたほうにどんどん運ばれていってしまう。。。。そんなとき、自分の望みに耳を貸さず立ちはだかる壁のような存在を感じるのではないでしょうか。

そしてその自分をはるかに超える強大な力の持ち主を神とあがめ恐れるようになった。

自分を操る力を自分の外に置く、自己の分裂の始まりです。

そしていま、私たちは分かれた自己を再びひとつに戻す時期にさしかかっている。

知覚できない力を恐れるのでも強引に統制しようとするのでもなく、その性質や役割を理解し 協力し合うために。




知覚できない意志が 私たちを望みとかけ離れたほうへ連れてゆくのは、意識の知覚できない領域に生じる “バグ” のためです。

それが、私たちが氣づかぬうちに意識に入り込み いつのまにか定着している あの 「三つ子の魂百まで」 のもと。

周囲の大人と意識を共有することで 未完の脳に言葉を介さずコピーされ、無条件に採用されて自身のものとして働き続ける負の観念、それが “バグ” の正体です。

でもそれは真の自分とは別物の いわば幻ですから、きちんと向き合い直視すれば やがて消えてゆきます。

こうして 遺跡以外の部分を削り落とすことで遺跡が掘り出されるように 次第に姿を現した本来の自分は、すでに統合され 形なき領域の知恵を形ある領域で行動する力に変えることのできる自分です。

そして、この形ないものを形あるものに置き換える役目を果たしているのが、私たちの脳なんですね。




これまでの私たちは 知覚できる世界がすべてと思い込んできましたから、脳の使い道も 知覚できる領域 = 顕在意識の守備範囲内に限られていました。

でも 本来あるべき姿に戻った私たちは、知覚できない領域 すなわち潜在意識や無意識から送られる情報をひらめきとして受け取り、言葉に変換してアイデアとして活用することができるのです。

真の自分に目覚めた私たちは、今度こそその知恵や力を 自分たちを悩ませ苦しめるためではなく 自分たちを幸せにするために使うことができます。