毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

深夜のお月見

2015年12月26日 03時39分52秒 | ふと思うこと


きょうもまたまた 夜中の更新




お隣小学校の校庭で、深夜のお月見をしてきました。

この山里に住むようになって、星明りさえ十分明るいと知った今、満月の輝きのまぶしさは格別です。

背景にはもくもくの白い雲、上空は風が強いのか けっこうな速さで流れてゆきます。

動いているのは雲なのに、手前の月の方が するすると雲の間を泳ぎ渡るように思えてなりません。

いつもなら黒く見える夜空も 月の光に照らされて 青みを帯び、そのまた青みが 白雲に映えて、なんともいえない美しさ。

ときおり雲のすき間から きらめく星が顔をのぞかせ、ところどころ白雲に混じる灰色雲のポケットに月が滑り込むと、かすかな光の濃淡のうごめきとなり、雲の通過と共に 再びまん丸い顔を出す。




夜中にひとり ぽつんと校庭に立っていると、かすかな怖さもあります。

それは、かつてさんざん悩まされた 不安や怖れの影とは違い、感覚を鋭くし、生きていることを強烈に感じさせ、喜びすら覚えるほどの いのちの証。

目を閉じていると、微風に髪がそよぎ、自分の中の野生が頭をもたげるような感覚に襲われます。

内も外も 静まり返った濃厚ないのちの氣配に満ち満ちて、全身で “今 生きて ここにある” と感じます。




「余白の美」 「行間が語る」 などとは よく見かける表現ですが、美しいもの、感動を覚えるものと出会ったとき、その本質は それ自体よりも まわりの目に見えないすき間に立ち込めていると思うようになりました。

決して派手々々しく働きかけてなどこないそれは、こちらがその美しさに打たれ 心を開いたときに、初めて感じ取り 通じ合えるものなのかもしれません。

対象を通じ、共鳴する 自身の内側のそれを感じて打ち震える。。。。感動とは そいうものなのでしょうか。




荘子の 「無用の用」 ではないけれど、合理的に 効率的に、とがんばってきたことで、こういう余白やすき間が忘れられ、私たちは いのちから遠くなってしまったのかもしれません。




    “ 時間をケチケチすることで、本当は全然別のなにかをケチケチしているということには、誰ひとり気がついていないようでした。

      自分たちのいのち(生活)が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、誰ひとり認めようとはしませんでした。”


大好きな一冊、ミヒャエル ・ エンデ作 「モモ」 も、ファンタジーを通して、今の世界が失くしかけている 大切なものについて、生き生きと語りかけてくれます。




極限まで ゆとりを切り詰め、生命力の枯渇が あちこちで目につく今だからこそ、その対極となる動きも 注目され 活発化してくるのかもしれません。

世界遺産ブームが過ぎてなお、熊野古道歩きに訪れる人たちを見かけるたびに、ふとそんなことを思ったりします (^^)