毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

愛するものを語るとき

2015年12月13日 07時15分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私が奈良で ピアノ教師をしていたころのこと。

生徒の中に、幼稚園の男の子がいました。

丸顔に くりくりした目、真っ赤なほっぺ、いつも好奇心全開の 元氣な子だったなぁ




実のところ ピアノには さほど関心がなかったようで、レッスンそのものよりも おしゃべりのほうが好き (^_^;)

ピアノ弾くより しゃべってる時間のほうが長かったねぇ、なんていうのがしょっちゅうだった氣がしますが、それでも彼のおしゃべりを聞くのは この上なく楽しかったのです♪




お家の人と観に行った 映画 「ジュラシック ・ パーク」 について話してくれたときのことは、ありありと覚えています。

よほど強烈な体験だったのでしょう、テンションMAX、その話しっぷりといったら、言葉のほうから溢れ出し ほとばしって 止まらないという感じ。

しかし そこは幼稚園児の表現力、途中から 誰が誰やら 何がどうなったやら わけがわからなくなり、主人公が逃げ込んだトイレごと 恐竜に踏み潰されたかと仰天したりして




映画については 今もよくわからないまま (笑) ですが、それ以上にくっきり焼きついているのは、あのときの彼の弾む口調や目の輝き、そして その場のなんともいえず楽しい空氣。




「エンデと語る」 という本の中で、児童文学者のミヒャエル ・ エンデ氏が、「人は愛するものについて語るとき もっとも生き生きと語れるものだ」 というような意味のことを話しておられます (本が手元にないので うろ覚えですが) 。

言葉というのは およそ不完全なアイテムで、物事の本質に近づくほど、正しく伝えるのが難しくなります。

しかも、その氣になれば、いくらでもウソがつける。

その場にないものを あるかのように、人づてに聞いただけのことを さも体験したことのように、話せてしまいます。

でも、そういうウソの言葉は、空っぽで スカスカで、力がこもらず、白々しさが漂うもの。

五感の上ではごまかせても、五感を超えた 「感じる」 領域までは ごまかせません。




好きなもの、愛するものについて 夢中で語るとき、人は 生き生きと輝いています。

本来のその人に 限りなく近い姿に返っています。

言葉に乗って 言葉以上のものが溢れ出し、聞いているこちらの心に 直接届いて 揺さぶります。

こちらもいっしょになって その温もりに浸り、胸を躍らせ、感動を分かち合うことができます。




ピアノの鍵盤の上を ネコが歩いたって 音は鳴るけれど、それを音楽とはいわないように、空っぽの言葉は、ただの音。

現地と地図の関係でいうところの 現地のある言葉、とりわけ うれしい現地のある言葉は、共感を呼び起こし、大きないのちのエネルギーを生み出します。

そこに、万人を惹きつけてやまない 喜びの世界が生まれます (*^-^*)




幼くして 本音と建前をきっちり使い分け、見目よい空っぽの言葉ばかり並べてきた私。

もうこれ以上、空っぽのスカスカはノーサンキュー。

大好きなものを 身のまわりいっぱいに集めて、あの幼稚園の彼に劣らない情熱をこめて 生きた言葉で 語り続けたいです \(^o^)/