29日の日記で「内への探求の力になってくれる情報はたくさんある」って書いたんだけど。
私の場合、その7割方が 本。
今は 五感を超えた世界に関する本もどっさりあるものね☆
最近はネットで手軽に買えて、近くに書店がなくても困らないから助かります。
ただ、ネットだと立ち読みが出来ない分、これは違ったかな?ということもたまにあって、そういう本とは度重なる引越しのたびにお別れとなりましたが、今手元に残っている本は ほんとうによく読み込んでるなぁ(^^)
古いものは20年以上経っていて、すっかりページが変色して シミが浮き出たりしてるけど、まだまだ現役。
こういう内なる世界のことを書いた本は、何回読み返しても そのたびに新しい発見があって、もういいやってことにはならないのです♪
本から情報を得る際に氣をつけなければならないのが、言葉。
29日にも書いたけど、書き手の意図を 読み手が100%完璧に受け取るなんていうことは まずあり得ないので。
生身の人間同士の会話なら、それどういう意味?といちいち確かめながらコミュニケーションできるけど、本の場合は一方通行なので、意味がよくわからなかったり 思い込みで掴んじゃったりしてることが多い。
わからないことがたくさんあっても、不思議と魅力的で飽きない本は、きっと縁あって出会っているのでしょうね。
そういう本は、繰り返し読むうちに ぼやけた画像のピントがだんだん合ってくるように じわじわ理解が進んで、少しずつその内容が消化されて 自分のものになっていくのがわかります。
複数の愛読書間で 「相互作用」とでもいうようなことが起こることもあるし。
どんなに素敵なことが書いてあっても、外からの言葉として読んでいるうちは 単なる情報や知識。
それらが体験に裏打ちされ、実感を伴う中で、自分の言葉となり 内側から溢れ出すんですね。
そのときには、もう知識ではなく「智恵」になっていて、日常に活かすことができる。
内なる答えは、形があるわけではなく、その正しさを証明するなんていうことはできません。
だから、本の中で「これいいな」とぴんとくる話があったら、まず“仮説”として心に残しておく。
そして、暮らしの中のさまざまな場面に当てはめて繰り返し観察し続ける。
すると、その説への信頼がどんどん増して、そのうちすっかり自分のものになるか、「これはやっぱり違うな」と手放すか、どちらかに分かれます。
実際のところ、ぴんときたもので あとからやっぱり違ったってなるものは、まずないんだよね。
心に響いた時点で、すでにそれは(自分にとっては)答えなのかもしれません。
本にすがりついて「早くどうしたらいいのか教えてよ~」ってなるときもあります。
今ある状況がとても苦しくて、一刻も早く抜け出したいと焦っているとき。
でも、こういう本はハウツーものではないので、「これさえすれば誰でもうまくいく」なんて答えは載ってない。
なんで肝心要のところはぼやかされてるのよ!と腹立たしくなったりしちゃうんだけど(^^ゞ
そもそも、なんでもいいからこの状況から逃げ出したい、という欲求にかられていること自体が ちょっと違うんですね。
すべて意味があって起こっているんだもの。
来たものは とにかく味わって受け止めるしかない、そのために来たのだから。
人間だから、辛くて苦しくてパニックになってしまうことももちろんあるし、それはそれでありなんだけど、そこで終わってしまったらなんにもならない。。。結局再び同じような体験をする羽目になるのは目に見えているので。
どうにか心を落ち着けて 目の前のことをよぉく観察し、本から得た知識を総動員してできる限り噛み砕き、それでもわからないところは内なる答えに問う。
大事なのは、答えを得ること以上に、繰り返し体験する そのプロセスにある。
繰り返すことで、自分なりに答えと出会う道のりが少しずつわかってきて、そのたびに血肉となる智恵の層が厚くなり、それにつれて 内なる答えへの信頼も増してゆくのだから。
本の情報は、答えではなく 手がかり・ガイドなんですね。
答えは自分の中にある。
そこへ近づいてゆくのに力を貸してくれるのが、本。
同じ本を読んでも、注目するところやその解釈、そこから得るものは 人によって違う。
めいめいが、自分なりの道を歩んで、自分なりの答えと出会い、導き出す。
それが、この世に生まれた醍醐味。
それを応援し 助けてくれる本は、ただの「物」なんかではなく、大切な友。
これからもずっといっしょに 人生の旅を続けていくと思います(*^ー^*)
私の場合、その7割方が 本。
今は 五感を超えた世界に関する本もどっさりあるものね☆
最近はネットで手軽に買えて、近くに書店がなくても困らないから助かります。
ただ、ネットだと立ち読みが出来ない分、これは違ったかな?ということもたまにあって、そういう本とは度重なる引越しのたびにお別れとなりましたが、今手元に残っている本は ほんとうによく読み込んでるなぁ(^^)
古いものは20年以上経っていて、すっかりページが変色して シミが浮き出たりしてるけど、まだまだ現役。
こういう内なる世界のことを書いた本は、何回読み返しても そのたびに新しい発見があって、もういいやってことにはならないのです♪
本から情報を得る際に氣をつけなければならないのが、言葉。
29日にも書いたけど、書き手の意図を 読み手が100%完璧に受け取るなんていうことは まずあり得ないので。
生身の人間同士の会話なら、それどういう意味?といちいち確かめながらコミュニケーションできるけど、本の場合は一方通行なので、意味がよくわからなかったり 思い込みで掴んじゃったりしてることが多い。
わからないことがたくさんあっても、不思議と魅力的で飽きない本は、きっと縁あって出会っているのでしょうね。
そういう本は、繰り返し読むうちに ぼやけた画像のピントがだんだん合ってくるように じわじわ理解が進んで、少しずつその内容が消化されて 自分のものになっていくのがわかります。
複数の愛読書間で 「相互作用」とでもいうようなことが起こることもあるし。
どんなに素敵なことが書いてあっても、外からの言葉として読んでいるうちは 単なる情報や知識。
それらが体験に裏打ちされ、実感を伴う中で、自分の言葉となり 内側から溢れ出すんですね。
そのときには、もう知識ではなく「智恵」になっていて、日常に活かすことができる。
内なる答えは、形があるわけではなく、その正しさを証明するなんていうことはできません。
だから、本の中で「これいいな」とぴんとくる話があったら、まず“仮説”として心に残しておく。
そして、暮らしの中のさまざまな場面に当てはめて繰り返し観察し続ける。
すると、その説への信頼がどんどん増して、そのうちすっかり自分のものになるか、「これはやっぱり違うな」と手放すか、どちらかに分かれます。
実際のところ、ぴんときたもので あとからやっぱり違ったってなるものは、まずないんだよね。
心に響いた時点で、すでにそれは(自分にとっては)答えなのかもしれません。
本にすがりついて「早くどうしたらいいのか教えてよ~」ってなるときもあります。
今ある状況がとても苦しくて、一刻も早く抜け出したいと焦っているとき。
でも、こういう本はハウツーものではないので、「これさえすれば誰でもうまくいく」なんて答えは載ってない。
なんで肝心要のところはぼやかされてるのよ!と腹立たしくなったりしちゃうんだけど(^^ゞ
そもそも、なんでもいいからこの状況から逃げ出したい、という欲求にかられていること自体が ちょっと違うんですね。
すべて意味があって起こっているんだもの。
来たものは とにかく味わって受け止めるしかない、そのために来たのだから。
人間だから、辛くて苦しくてパニックになってしまうことももちろんあるし、それはそれでありなんだけど、そこで終わってしまったらなんにもならない。。。結局再び同じような体験をする羽目になるのは目に見えているので。
どうにか心を落ち着けて 目の前のことをよぉく観察し、本から得た知識を総動員してできる限り噛み砕き、それでもわからないところは内なる答えに問う。
大事なのは、答えを得ること以上に、繰り返し体験する そのプロセスにある。
繰り返すことで、自分なりに答えと出会う道のりが少しずつわかってきて、そのたびに血肉となる智恵の層が厚くなり、それにつれて 内なる答えへの信頼も増してゆくのだから。
本の情報は、答えではなく 手がかり・ガイドなんですね。
答えは自分の中にある。
そこへ近づいてゆくのに力を貸してくれるのが、本。
同じ本を読んでも、注目するところやその解釈、そこから得るものは 人によって違う。
めいめいが、自分なりの道を歩んで、自分なりの答えと出会い、導き出す。
それが、この世に生まれた醍醐味。
それを応援し 助けてくれる本は、ただの「物」なんかではなく、大切な友。
これからもずっといっしょに 人生の旅を続けていくと思います(*^ー^*)