21日、前日の雨から一転、冴え冴えと晴れ渡った青空の下、お隣小学校の卒業式が行われました。
毎年お招きを受けるようになって以来、たしかこれが4度目の卒業式。
いつもながら子どもたちの成長ぶりは目を瞠るようで、卒業証書授与の際に述べられたそれぞれの未来への希望も、ひとりひとりのセリフが驚くほど多い「卒業の言葉」の暗唱も、常日頃人前で発表をすることに慣れた彼ららしく堂々としていて、ずっしりと心に響きました。
個人差はあるけれど、もう“子ども”からぐんぐん離れていきつつあるね。。。そして遠からず“大人”の仲間入りだね。
ここで、あれ?いつもの年と違うな、と思ったのは、私自身のこと。
いつもなら、もっと子どもたちが離れていくことを淋しく思うところだし、どうかこの子たちが幸せになれますように、と祈るところなのだけど。
今回は、あまりそういうふうに心が動かない。
いえ、決して薄情になったとかではなくて(笑)
2月の学習発表会あたりから、ずいぶん大きくなったなぁ、もう無邪氣に甘えに来てくれたあの子たちとは違うんだなぁ、という感じはあったけど、それを淋しく思うよりは、そういうものなんだな、と認める氣持ちの方が大きかった。
卒業、入学、のサイクルを何度も体験させてもらう中で見えてきたものがあるのでしょう。
梅が散り、桜が咲いてはまた散り、つつじ、藤、と次々入れ替わる。
春がいつの間にか夏へ、秋へ、冬へと移り変わる。
川はいつも同じ場所に同じように流れているけれど、その表情は季節ごとに変化するし、流れる水は一瞬として同じではない。
学校でも、6年生が去り、残っている子たちも学年がひとつずつ上がって、やがて新しい1年生が入ってくる。
巡りのパターンは 毎年規則正しく訪れ続けるけれど、そこに同じものは何ひとつない。
花も、水も、人も、同じようなパターンを繰り返しながら、絶えず変化し続ける、どこまでも、どこまでも。
とにもかくにもそういうものなんだな、と。
この土地の自然や人と暮らすうちに、知らず知らず受け入れるようになっていたんでしょうね。
幸せを願う、ということについても。
ひとりひとり道のりは違うけれど、結局のところ みんな幸せに向かって進んでるんだ、ということを受け入れたんだと思います。
その道のりが楽であればいい、困難がないほどいいとも思わない。
人や状況によっては、敢えて外れてまた戻ることが最善という場合もあると、今ではわかっているから。
やたら心配したり、万事順調ですように、悪いことが起こりませんように、と願うだけが愛情じゃない、と思えるから。
みんなオリジナルの自分の道を行く。
ピンチもアクシデントも、長い目で見れば 全部予定調和。
なるようになる。
何があってもクリアしていけるだけの力を、この子たちは備えている。
そう信じて、にっこり笑って、「光あれ」と祝福して送り出す。
たとえ闇の中にいるように見えても、その向こうはいつでも光に満ちているし、いつかは自分が絶えず光に取り巻かれていたことに氣づくんだよ、回り道したり立ち止まったり彷徨っているように見えて、実はまっすぐ進んでいたことに氣づくんだよ、という思いを込めて。
だから、幸せを「願う」ことなんてないんだね。
それがいつもあるとわかってるだけでいいのね。
それが、私にとっての「祝福」ということ。
たぶんずっとそういうことだとわかっていたんでしょうね。
ただ、心配する、祈る、願う、という物語に慣れていただけ。
そして今、そういう後づけのなんやかんやの不自然さがわかってきて、少しずつ剥がれ落ちていってるんだろうなぁ。
変化に氣づかせてもらったのは、子どもたちのこと以上に、自分自身についてかもしれません。
というようなわけで、子どもたちにも自分自身にも、今何か声をかけるとしたら、
”生まれてきてよかったね~♪
これからますますいろんなことがあるよ~♪
面白いよ~♪ ”
こんな感じかな