黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

熱戦続きの甲子園

2024年08月21日 | スポーツ
熱戦続きの甲子園 今日は準決勝


第一試合は逆転で 関東第一高校が勝った



判官びいきで 


はらはら ドキドキしながら


負けているチームを応援しているが


ピンチになると見ていられない





大社高校と 早稲田実業の時は


どちらも勝たせたい思いで


終わった後は泣いてしまった




一昨日の 上村学園と 大社の試合も


涙がポロポロ



毎試合感動を貰っている





準決勝 第二試合も目が離せないでいる




昨日の夕方の雲


朝は涼しかったが 暑くなってきた


調子が良かったのに夜中に下痢


食欲はあり残さず食べた






今日は嬉しい予定がある

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施設の利用請求書

2024年08月20日 | たより

昨日7月分の利用請求書が届いた


合計 183,098 円


内訳は

介護保険の一部負担金 要支援 1 で 6,548 円

居室料   67,000 円

共益費   42,000 円

光熱水費  14,000 円

家電持込み手数料(2) 440 円

食費(31日) 53,010 円
 

暖房費がないので冬より少ないが



医療費 税金 後期高齢者医療保険 介護保険料 の他

インターネット スマホ 日用品費などの他

マンションの維持費もあり

大赤字である





穏やかなしのぎやすい日

血圧も落ち着いておりふらふら感も少ない

食欲もあり 膀胱炎の方も少し良い

お腹の調子も悪くない

 だましだましだが 

傍から見れば元気に見えるようだし

良いとしよう


恵まれた介護生活を送っているが 


お金が底をついたらどうしようかな


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目と鼻の先なのに・・・・

2024年08月19日 | たより
市役所のロビーでは 


オリンピック金メタルの 北口榛花選手を祝うパネル展示


隣の文化会館では


 東山魁夷の版画展が開かれている



どちらも 道路の向かい側 目と鼻の先なのだが



今の体調では 一人で行く自信がない




北口選手の笑顔を テレビやパソコンで探し


元気なころ観賞した 道立美術館での 東山魁夷 展


長野 善光寺の後ろにあった 東山魁夷館 での感動を


思い浮かべている





年を重ね  幾つも病気をもつようになると


昨日まで出来たことが出来なくなり


その数が増えて衰えていくが


過去に経験した よろこびや感動は失せないし


心の中で輝き続けている


強がりかもしれないが・・・・・・



施設のロビーに咲いていた





食欲もあり 今朝も完食したが

昨夜は1時間おきにトイレ通いで目が覚め

膀胱炎がぶり返したよう

お腹の方は落ち着いている

体重39.9kg




気晴らしに 絞りのリフォームの洋服を着ていると

綺麗と 褒めて下さる


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今年も巡ってきた忘れられない日

2024年08月18日 | 戦争
今年も巡ってきた忘れられない日


今年もその時のことを記します




1945年(昭和20年)

樺太(サハリン)

8月9日ソビエトが宣戦布告し

13歳以下の男子と婦女子の疎開命令が出される

8月15日に敗戦 疎開は引揚げになった



豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族

 父(45歳)を除いた

母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳) 

私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月

7人が 北海道の伯父宅へ引揚げることになった

 着替えと食糧だけ持ち

8月18日午後 豊原駅に向かった



奥地からきた貨物列車には

大勢の人たちが鈴なりに乗っている

国鉄勤務の父は 少しでも早く港の大泊へ行くよう

貨物列車に乗るように促すので 急いで乗った

父は見えなくなるまで手を振っていた



  戦争はもう終わったと 少し開放感を感じていたが 

奥地からきた人たちが口々に 

ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き

恐ろしさと緊張感を感じた



無蓋車のシートで覆われた荷物は大砲らしい

ゴツゴツと座り心地が悪いが我慢するよりない

汽車は度々停まる 真っ赤な大きな太陽が傾いていく

新場という駅で停車すると 長い間動かない



オシッコをしようと貨車を降り草むらへしゃがんだ時

ポーッと汽笛が鳴りゆっくり動き出した

慌てて走ったが高くて足が届かない

誰かが手を引っ張り上げて貨車に乗せてくれた

無我夢中夢中だった

手を差し伸べてくれたのは

豊原医專の学生さんだったと後で知った



暗くなって大泊に着いた
 
駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている
 
姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だが
 
誘導され映画館で待つことになった
 
館内も溢れんばかりの人人人である

乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごした



再び夜になりやっと順番がきた
 
港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた 

母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち

 4才の弟は長姉に手を引かれ

 3人も後に続いた
 
母は荷物が重く途中捨てようとした時 

兵隊さんが現れ持ってくれた
 
やっと港にたどり着き 乗せられた船は 

小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった



 コルサコフの港(大泊港)2012年7月



真夜中に白龍丸は出航した

稚内港がいつぱいで 小樽まで行くという 

20時間かかるそうでがっかりした

 甲板に張ったテントに数家族が入った

トイレはなく甲板の端でする

海は時化て嵐になった テントにも雨水が入る 

すぐに酔って動けなくなる 

夜が明け左側遠くに北海道の陸地が見えるが

20時間すぎても小樽に着かない

船倉の方へは行かないようにと言われていたが 

チラリ覗くと 地鳴りのようにわめき声が聞えてきた

大勢の朝鮮の人がお酒を飲んで騒いでいる

今まで虐げられていた鬱憤を晴らそうとしていたのだろう

 暴動がおこるのではないか恐ろしかった
 

再び夜が来た 

緊迫した声で目が覚める

船はすべて灯りを消しエンジンの音も聞こえない

暗闇の中で目を凝らすと 船長らしき人の指図する声

乗組員が慌ただしく動き回っている姿が異様に見えた

緊張が走る

誰かが「潜水艦がいるらしい」という

戦争が終わったのに・・・・まさかと思うが不安で恐ろしかった

船はエンジンを止めて漂ったまま



どのくらいの時間だったか覚えていないが

危険が去ったらしい

 夜が明け船は動きだした
 


小樽の港が見えた時は 

疲労と船酔いで歩くのもやっとだった

嬉しいと言うよりホッとした


 

国籍不明の潜水艦に沈められたのを知ったのは 

ずっと後の事である
 
我たち一家は幸運だった 
 
父は三年後痩せ衰えて帰国した 




79年後少女は 91歳になった

年とともに鮮明になる引揚げの時の記憶


戦争はいけない 犠牲者の冥福を祈る





あの時小笠原丸に乗っていたら 

生まれていなかったであろう  孫の誕生日でもある

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昭和20年 引揚げ前日のこと

2024年08月17日 | 戦争
戦争に負け 樺太 豊原市(からふと とよはらし)から


 8月18日に 北海道の伯父宅に(父の兄 渡島管内 木古内町)


引揚げることになった


父が国鉄に勤めていたので 荷物は6個送れるという


衣類 教科書など 重いものは


荷造りして送る


長姉が気に入っていた オーバーをリックに入れようとしたが

母は止めさせて 行李に入れた



リックには着替えと 食べ物(大豆の炒ったの)


いざというときに貯めてあったもち米

畑で取れたばかりのエンドウ豆を入れて ついたお餅を

手分けして入れた



大人たちは緊迫感でいっぱいだったが


12歳の私 10歳の妹は 空襲の心配もなくなり


大好きな伯父の家に行けると 嬉しくて


余所行きの半袖のワンピースを出し
(戦争中は長袖にモンペかズボン  半袖 スカートはダメ)


色紙の 紙ぼっちゃん を持とうとして たしなめられた





引揚げ後 荷物は1個も届かず 


その年の冬は 一張羅の夏服のままだった



 痩せて小さかった

食料難で 毎日雑炊 すいとん などを

盛り切り (おかわりはなし)

お餅はお正月だけのご馳走だった

大豆の炒った非常食 お腹が空いて食べると下痢をした



引揚げ後は もっと食べるものがなかった





お昼の食事は 美味しく全部いただいた

 白米のご飯 残すのは勿体ない






毎年 何度も同じようなことを投稿しているが


戦争は今も続いている 私の戦後も続いている

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藪入り

2024年08月16日 | 思い出
赤ちゃんのころ子守をしてくれた 

遠い親戚にあたる おりちゃん

大好きでいつも甘えていた


祖父が亡くなり 父が戦争へ行った後は


大きな病院の女中さんとして働いていた



お盆の16日は 藪入り


おやすみを貰って 我家へ帰ってきた


あっという間に夕方 戻る時になった


淋しくなって 泣きながら後を追った


おりちゃんも泣き出し 道路の真ん中で  抱き合って泣いた


遠い遠い 5歳くらいの時の 藪入り




姪から貰った 旭岳の写真




晴れの日 夜は涼しかった

血圧は落ち着いており 食欲もあるのだが

お腹の調子が悪く トイレに駆け込んでいる

膀胱炎もまだすっきりしない

体重 40.0kg 少し増えた

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敗戦記念日

2024年08月15日 | 戦争
79回目の敗戦記念日で お盆の中日


12歳の時 戦争に負けた


特攻隊で戦死した 従兄や 義兄を偲ぶ祈りを捧げる



何もかも失ったが 空腹が一番つらかった

戦争中も 敗戦後も いつもお腹を空かしていた





今は飽食の時代


今日の朝食は 

ご飯が山盛りで多かったが 勿体ないので全部食べた

お昼の冷やしラーメンも美味しくいただいた






今なお食べるものがなく 飢餓に苦しんでいる人たちが多い


二度としてはいけない戦争





姪夫婦が面会に来てくれた

一昨日 旭岳登山をしたそうである

Dir drop で写真を貰う



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まだお迎えには来ないでね

2024年08月14日 | たより
月命日であり 初盆 


 遺影に祈り話しかける静かな朝だった


突如 Sさんがお参りにいらして下さった


急に空気は華やぎ 夫の大きな笑い声が聞こえるよう



もう少し楽しみ過ごしたいので


まだまだお迎えには来ないね・・・・っと


お願いする



再度UP


長女夫婦は 同じ初盆のお義母さんのお墓参り


私の分もお参りしてと頼む




血圧も下がらないので立ち眩みも少ない


だましだまし


高校野球を見たり パソコンで遊んだり

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嬉しいお参り

2024年08月13日 | たより
夫の初盆である

我家のしきたりはなにもないが


3日に娘たちや婿さんとお寺へお参りに行き


供養をお願いしてきた


昨日は


日帰りだったが 孫がお参りに来てくれた


猛暑であり一緒に行く元気はない




 写真を見せてくれ


お祖母ちゃん ラインでなくても写真送れるよと


Air Drop  での転送を教えてくれる


仕事も遊びも充実しているそう






朝食を全部食べたら

 す~ッと頭が空っぽになった感じでふらふら

見守ってもらい部屋に戻って横になったが

トイレに起きたら ひどい立ち眩みで

血圧が83/46まで下がっていた


少し回復してきたが おとなしくしている


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山の日の大雪山

2024年08月12日 | たより
沢山の感動を与えてくれたオリンピックが終わった


甲子園の高校野球 北北海道代表も姿を消し


気が抜けたよう




今日は山の日 朝食時 雲一つない大雪山が見られた


写しに行った時は








台風が東北地方に上陸し心配だが 


我が地方は晴れて 猛暑に近い真夏日である


部屋に籠っているが

身体の具合も少し良く ウレシイ出来事があった

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