朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

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獅子舞神楽(東千里)~市指定無形民俗文化財~

2009-03-05 15:37:15 | 河芸の文化財


獅子舞の由来は『風土記詳略』(古書)によると、

「高倉天皇、承安(じょうあん)3年(1173)伊勢の国内に疫病、妖魅(ようみ)が盛んにおこって、国郡が不穏であった。同4年春正月に朝廷は勅を下して、国中の悪鬼邪鬼を祓(はら)うため、御獅子数口(から)を造らし、当尾前土宮(おざきどぐう)に二口を奉納せられた。この御獅子祈祷によって国中の悪疫病魔直ちに終息せり。」

としるされている。

これが尾前神社の獅子舞神楽(まいかぐら)の起源である。

それ以降、4年に1度の舞年を定めて獅子を舞い出し、村中はもちろんのこと、北は鈴鹿市若松より、南は津市まで、また、西は亀山市下之庄から、東は磯山、上野、豊津、白塚へと神楽祈祷を続けてきた。しかし、社会の変動、戦争などにより、何度か舞神楽を中止したこともあった。第2次世界大戦後、昭和24年(1949)に復活し、昭和30年、33年、36年の舞年には人材がとぼしいながらも舞神楽を続けてきた。しかし、その後の高度経済成長の余波をうけ、舞神楽を行う人が少なくなり、ながく継続してきた獅子舞神楽を中止しなければならなくなった。

それが、昭和47年に河芸町教育委員会のすすめによって復活し奉納されたが、ふたたび中止となった。その後、一般区民の間にまた復活の気運が高まり、昭和54年に保存会が結成され、獅子舞神楽が河芸町無形民俗文化財に指定された。舞神楽はその後も継続され、今にいたっている。

戦前の獅子舞に関係していた古老に話を聞いた。

獅子には、牡頭(おかしら)と牝(め)頭がある。それぞれの獅子のお頭(かしら)、後舞(あとまい)、口取(くちとり)が三人一組になり、笛、太鼓にあわせて舞う。

舞の日、“獅子舞お仲(なか)”という神事の奉納者たちは、風呂で入浴し、その後で頭から冷水をかぶり身を清める。食事はしめ縄をはった家族とは別の部屋でする。そして、白足袋、白シャツに青袴(あおばかま)を着用し、早朝より社務所に集まる。

お頭の二人は獅子舞期間中、社務所で獅子とともに寝起きをする。朝、起床と同時に社務所の井戸の冷水を頭からかぶり、身体を清める。

食事は各家の別室でする。

舞のしたくができると、尾前神社の正面から行列をつくって出発する。

その順序は先頭に鉾持(ほこもち)2名、牡頭・牝頭各1名、口取・後舞各2名、宮司、笛2名、太鼓の順で、行列中は道笛(みちぶえ)を吹き、太鼓をたたきながら歩く。

宮司は立烏帽子(たてえぼし)に白衣、袴、格衣(かくえ)を着用する。鉾持は立烏帽子、白直垂(しろひたたれ)、黒袴、白足袋、下駄の姿で鉾を持つ。お頭は白衣、青袴、白足袋、下駄の姿で、左肩に獅子頭をのせてお衣(きぬ)を右肩へからめる。口取は鳥笠(とりかさ)、天狗面(てんぐめん)、襦袢(じゅばん)式の上下、裁着(たてつけ)、腰には三巴(みつどもえ)のついた巾着(きんちゃく)を下げて簓(ささら)を持つ。後舞は白衣、青袴、赤地柄布で作った頭巾(ずきん)、腰には三巴のついた巾着を下げる。笛、太鼓は鉾持と同じ服装で行う。口取と後舞は小学生が行った。

舞場に着くと、むしろを十数枚敷いた上座(北)に置いてある白布のかけた長机に牡頭を右側に、牝頭を左側に置く。その後へお頭、後舞、口取がすわる。宮司、笛、太鼓は西側に、招待者、鉾持は東側にすわる。出迎えにいった新婚の男は後方(南)にすわる。

舞のはじまりは、宮司の合図でお仲(奉仕者)一同が二礼二拍手一礼して、宮司がお祓いをする。両頭および後舞はお衣(きぬ)に入り、宮司の祝詞(のりと)がはじまると笛を吹き出し、舞がはじまる。

舞は9種類あって、1から9までで約3時間かかる。

一の舞 四方掛  宮司大祓の祝詞をあげる。両獅子は協力して四方を祓う。
二の舞 尾前舞  尾前神社特別のしかも伝統の舞である。
三の舞 飛の尾  勇壮な、人情的な舞である。
四の舞 起こし舞 寝ている牡獅子を苦労して起こし、たがいの健康を喜びあう舞である。
五の舞 扇の舞  最後に扇をもらって満悦する舞である。
六の舞 花起こし 稲の花が咲き、牡獅子を起こし、豊年満作を祝う舞である。
七の舞 花の舞  二頭の獅子が、たがいの幸福を祝福しあう舞である。
八の舞 寝舞   豊作で稲がゆれる姿を表現した舞である。
九の舞 舞あげ  両頭の獅子が最後の舞いあげを報告する舞である。

本場(ほんば)での舞は一の舞から九の舞まで全部舞うため、広い場所で行った。南ぜこは正法寺の境内、北ぜこは信光寺の境内で舞った。舞う時間が3時間もかかるので午前、午後に分けた。

本場で獅子を舞わす時には、東千里の地区民や親戚、縁者、近郷近住の老若男女でにぎわい、境内はもちろんのこと、本堂のなかまでいっぱいになった。

獅子舞の最中に、酒に酔った人が「獅子おし」といって、酒の勢いをかりて、人を押す。そのはずみで人がたおれる。また押し返す。どっと笑いが起こる。この歓声、どよめきで、その場の雰囲気を盛り上げた。このように「獅子おし」が恒例の行事のようになった。

この「獅子おし」によって観衆が前後左右にゆれ動くありさまは、ちょうど稲穂が風にゆれ動くようなものである。観衆が大きく前後左右に動くことによって、その年の豊作を願う心のあらわれであるといわれている。

本場での舞が終わると、次の日は鈴鹿市若松へでかけ、岩屋や海岸で舞う。ついで津方面まででかけて舞うなど、およそ40日間は大変なこことであった。

本場の舞のほかに門舞(かどまい)がある。

これは本場の舞を簡単にしたもので、申し出のあった家の玄関前で舞う。

舞い方は、後舞は獅子のなかにはいらないで、尾を持って演じ、口取は天狗の面をつけて、簓をすって拍子をとり、笛、太鼓に合わせて舞う。これは家々の悪魔払いをするためのものである。

また厄年の人が厄払いのため、特に頼んで獅子に頭をかんでもらうこともあった。

昔は、今のように遊ぶものや場所もあまりなかったので、このようなお獅子さんの舞い年が待ちどおしかった。また、本番にそなえ練習にも力がはいり、昼は仕事、夜は練習で、舞う日が近づくと1日中練習が続いたが、それが楽しかった。

戦後の獅子舞に従事した人に聞いた話。

戦前は、獅子舞の期間が2月から4月初めまでの2か月間であったが、戦後はいろいろな事情により舞う期間は3月末から4月初めの10日間、ついで、正月3日間へと縮小され、現在にいたっている。

昭和33年2月に戦前のように、若松へ獅子を肩にかけて歩いていった。そして神社、岩屋(獅子頭を拾った家)、獅子が打ちあがった海岸で獅子舞を行ったが、その後は東千里地内で、おもに門舞を行っている。門舞の仕方は、四方舞、尾前舞、飛の尾、花の舞などを簡略化したものを笛にあわせて、両頭が立ったまま5分から10分程度舞う。

(かわげの伝承から)


追伸:獅子舞神楽は、今年元旦、2日と行われたのですが、写真は今年のものではありません。(すみません


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