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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

山部赤人の不尽山の歌

2025年01月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 山部赤人が富士山を詠んだ歌はあまりにもよく知られている。

  山部やまべの宿禰すくね赤人あかひと尽山じのやまを望む歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕
 天地あめつちの わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿するなる 布士ふじたかを あまの原 振りけ見れば 渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽ふじの高嶺は〔天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将徃不盡能高嶺者〕(万317)
  反歌〔反謌〕
 田児たごの浦ゆ うちでて見れば しろにそ 不尽の高嶺に 雪は降りける〔田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留〕(万318)

 中央の官人層に当たる人が富士山について作歌したものは、上の山部赤人とそれに続く高橋虫麻呂の歌(注1)だけである。ほかにも富士〔不尽、布士〕を詠んだ歌はあるが、東歌の駿河国の相聞往来の歌(万3355・3356・3357・3358)と、古今相聞往来の歌の類として採られた寄物陳思歌(万2695・2697)に属する。後者は、燃えるような恋心の比喩として噴火するさまを詠んでいる。結局のところ、中央では歌のテーマとして流行っていない。この点には注意が必要である。
 都から遠く離れている富士山を類歌の乏しいなか赤人は歌にしている。旅行する人もガイドブックもない時代、意味が通じたか心許ない。そんななか長歌・反歌の組の歌を作り、都において人前で披露しているらしい。歌として歌うだけで意味が通じたようである。万葉集の編纂の際には、高橋虫麻呂の伝歌もついでに採録されている。
 歌を聞いただけでわかるとは、歌の中の言葉をもって描写が行き届いているということである。その場合、旅行記として聞いているわけではない。富士山のことは初めて聞き知ったが、これから訪れる機会もなければ関心もない。題詞に経緯を細かく記して伝説を伝えているものでもない。それなのにわかるということは、歌のなかで話が完結しているということである。言葉をもって言葉が説明され、皆の納得に至っている。地誌に疎く興味もない都の人がフジという高い山のあることを耳にし、なるほどそういうことなのね、と腑に落ちるような歌ということになる。
 フジは地名である。語源はわからない。フジという山が厳然とあって、その名の意味するところを謎解きしようとしたのがこれらの歌であったろう。それ以外に作歌の動機や表明の意図は考えられない(注2)。歌を聞いた人がちんぷんかんぷんではどうしようもないからである。
 フジを、フ(斑)+ジ(形容詞化する語尾)の意ととって説明しているらしい。フは、しま、特に横縞になっていることを指す(注3)。ジは、~のようなさまである、~のような感じがする、~らしい格好である、の意にする接尾辞である。ジモノの形をとることが多い。別のものなのに本当にそれらしい感じ、様子をしていることを示す(注4)。すなわち、フジの山はどうしたって横縞の様子を示しているとおもしろがって歌っているのである。今日でも多くの人が思い浮かべる富士山の姿は、絵文字🗻にあるように横縞柄である(注5)。ヨコシマという言葉は、雲などが横向きに水平にただよってさまを表すとともに、邪悪な思いを抱いていること、正常でない状態を表す。 
富士山
 日をかへりてまをさく、「西北いぬゐのかたに山有り。帯雲くもゐにしてよこしまわたれり。けだし国有らむか」とまをす。(神功前紀仲哀九年九月)
 一書あるふみに曰はく、天照大神あまてらすおほみかみ天稚彦あめわかひこみことのりしてのたまはく、「豊葦原中国とよあしはらのなかつくには、是みこきみたるべきくになり。しかれどもおもひみるに、残賊強暴ちはやぶる横悪よこしまなあしき神者かみども有り。かれいましきてけよ」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一、日本書紀私記乙本訓)

 ということは、フジという山にいます神を想定すると、それは悪しき神なのである。ヤマトの国は、中央から遠く離れたところへ征討しては従わせ、版図を拡大していった。だからこのフジの山へも討伐するために攻めて行かなければならない。それが反歌で歌われている内容、長歌で縷々述べられたことのオチとして歌われている。
 「田児たごの浦」から「うちでて」いる。タゴ(ゴは甲類)という言葉は、田子たご、すなわち、田を耕し稲作をする農民のことである。そのウラがどういうところかと考えれば、田んぼではなく畑(畠)であろう。お百姓さんは表向き田を耕し稲を作って田租を納めているが、裏の畑では芋や豆、蔬菜類を作っていたりする。二毛作をすれば裏作では田が畑になる。そんなタコノウラからフジノタカネへとち出でてみたら(注6)、フジノタカネは雪が降ってすでに真っ白く横縞を成していた。ハタ(畑)から出陣したら直ちにシロハタ(白旗)をあげて降伏していた、という頓智話を作為しているのである。
 長歌はそのオチへと至るなぞなぞ咄である。
 「天地あめつちの わかれし時ゆ」などと大仰に始まっている。古事記や日本書紀に残されているように、天地が分れて世界は生まれたと思われていた。イザナキ・イザナミ両神が天の浮橋から矛を下ろしてかき混ぜ、滴った塩が固まってできた最初の島はオノゴロ島である。そこへ降り立ち柱を立て、その周りを右から廻ったり左から廻ったり試行錯誤しながら国生みが行われている。ところが、赤人の長歌では、「……かむさびて 高くたふとき」と、天地が分かれた時から古色蒼然と高貴に感じられると形容されている。その対象は「駿する」という言葉である。そこにあるのが「布士ふじたか」である。「駿する」がどうしてそんなに持ちあげられているかといえば、スルガという言葉がスル(擂、摺、擦)+ガ(処の意)を思わせるからである。イザナキ・イザナミの国生みは、右へ左へと廻っている。それぞれの特徴、「成り成りて成り余れる処」と「成り成りて成り合はぬ処」とを合体させてぐるぐる回すことは、ちょうど火鑽杵を火鑽臼に合わせてぐるぐる回して火を熾す作業に当たる。富士山はときおり噴火していたから国生みの場所と類推され、スルガ(駿河)は讃美されて然るべきだろうと頓智を言っている。ジョークなのだから聞く人も真に受けたりはしない。創世神話が書き換えられているのではなく、言葉遊びの語呂合わせが楽しまれているにすぎない。
 つづく「あまの原 振りけ見れば」はそれまで述べてきた天地創世、国生みの舞台である高天原たかまのはら、天空を仰ぎ見ることを大袈裟に表現している。こういったわざとらしさもジョークの一環である。そうして見てみると、「渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり」している。標高の高い山で雲がかかって日月とも隠れてしまうというのである。そして、「時じくそ 雪は降りける」としている。間断なく雪は降っていると気がついた(注7)という。このことを、「語りぎ 言ひ継ぎ行かむ」と主張している。
 そのようなことを伝承していく必要などどこにあるというのだろうか。これも赤人のジョークである。「不尽ふじの高嶺」の特徴は、雪が降っているということである。ユキ(雪、キは甲類)はユキ(行、キは甲類)と同音である。雪がある山のことはユキ(行)していかなければならない。都の皆さんにあらせられましては、遠方の駿河へユキ(行)することはなかなかできないでしょうから、せめて今、歌いました事柄を末永く語り継ぎ言い継ぎしてユキ(行)してください、というのである。
 赤人は長歌で富士山の雪についてジョークを並べ立て、反歌でさらにひねりを利かせている。富士山の「高嶺」のところ、頂部分が雪化粧して横縞になっているからフジ(+ジ(~らしいさま))というのだと語呂合わせをし、よこしまな賊を田んぼのウラに当たるハタ(畑)から攻撃したらすぐに白旗を掲げたというのもそのとおりなのだという話にしてまとめたのだった。
 万葉の時代、歌は声に出して歌われて、その場で人々に理解されて楽しまれた。機知に富んでおもしろく思われたから伝え残そうと万葉集に採られ、編まれている。理屈をこねた言い分を主張してみたとて、一回しか歌われない歌は耳に届かず、心に残らない。へぇー、スルガにはフジという山があるんだって、とても高い山で常に雪が降っているんだって、初耳のその山のことを雪があるから語り継いで行こうって、なになに横縞になっているからフジと言うんだって、邪だから攻撃したら白旗をあげているように見える理由はそこにあるって、ははは赤人さん、おもしろいことを言うねえ(注8)

(注)
(注1)巻三の目録に、「詠不盡山歌一首〈并短歌 笠朝臣金村歌中之出〉」とあり、歌の左注にある「右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此」と異動があるが、要は、どちらの作でもかまわないと思われていたということである。今日では、高橋虫麻呂説が多く採られている。
(注2)特に万318番歌が短歌として切り離され、新古今集にも字句を変えて採られ、百人一首にも選ばれている。近代以降、叙景歌であると見なされてきたが、長歌・反歌の組として捉えなければならないとされて叙景歌なのかも疑問視する傾向が出てきた。また、富士山を賞美するようなことは、江戸時代にまで下らなければ一般に広まっていないとも指摘された。21世紀になると、赤人のこれらの歌に関して、「国土讃美の様式を用いて土地の風物の描写がなされるようになった」(井上2010.36頁)のであるとも、「一見風景を描写しているように見える内容であるが、これは讃美目的の虚構表現である。従って叙景歌であるとはみなされない。」(吉村2015.343頁)とも、「当該歌は、東アジア的世界観のなかで、聖武天皇の東国支配の正統性を保証し、讃美する新たな国見歌として、漢詩文の山岳讃美表現を取り込みつつ、神代から雪が降り続ける不尽の永続的な神聖性を構図的に幻視したものと考える。」(遠藤2022.9~10頁)とも、「一見すれば旅先の景を叙したように見える当該歌にも実は国家意識が潜在していたのであった。」(鈴木2024.197頁)とも説かれている。取ってつけた講釈が優勢になってしまっている。教育勅語のようなものが歌に作られていたとして、覚えられるはずがないではないか。
(注3)時代別国語大辞典に、「ふ」は、「まだらな斑点を意味するフチとは区別されていたものか。後世、矢羽の横縞をいうキリや、虎の毛皮をいうトラなどの語があることから考えても、横縞の意であろう。」(628頁) とある。
参考図「切文(切斑)」(伊勢貞丈『貞丈雑記』(味の素食の文化センター所蔵、国文学研究資料館・国書データベースhttps://doi.org/10.20730/100249523(615~616 of 1093)をトリミング結合)
(注4)歌中にある「時じく」の形も、名詞「時」にジをつけて形容詞化したものである。
(注5)富士山は噴火をくり返し形を変えていっているが、有史以降でみると大勢としては変化は少ない。絵画化された例として残されているものとしては聖徳太子絵伝や一遍聖絵などが古いが、絵文字のさまと大差ない。殊更に三峰あるように描かれるようになったのは富士信仰に基づくもので、そのような考え方は古代にはなかった。
(注6)陸路説と海路説が唱えられ定説を見ない。「でて見れば」ではなく、「うちでて見れば」とあり、意を決して海上へ出てみたら、という意味合いになる点が、外海を進むわけではないことにそぐわないと、廣岡2005.は疑問を抱いている。
(注7)「雪は降りける」について、降雪説と積雪説があり、長歌と反歌とで異なる見方をすることが多い。赤人が富士山に登山したことや誰かが登山して経験談を教えてもらったことから作歌しているようには思われない。富士山初冠雪の便りも麓から見て確認できた日に発表されるもので、雲がかかっている日には確認できない。富士山に雪が降っていることは雪が積もっていることによって知られることである。
 助動詞の「けり」について、小田2015.は、「テンス的意味として、①「継承相」(過去に起こって現在まで 持続している、または結果の及んでいる事を表す)と、②「伝承相」(発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態を表す)を、認識的意味として、➂「確認相」(気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得を表す[=「気づき」])を表す。」(152頁)としている。認識的意味を示す語釈としては、古典基礎語辞典に、「①過去の事柄や過去からあったという事実に、はじめてそうだったのだと気づいて、あらためて過去を思いめぐらす意。回想(気づき)の意。…た。…てきた。…ている。……②今まで意識していなかったことに、はじめて気づき、感動と驚きの気持ちを表す。詠嘆(気づき)の意。…だったのだなあ。…ていたのだなあ。…だったよ。……➂はじめて聞いた話や伝説などについて、そうだったのだとあらためて確認する意。伝聞(気づき)の意。…だったそうだ。…とかいうことだ。…たとさ。」(473頁、この項、我妻多賀子)としている。どんな内容であれ「気づき」を表している。詠嘆の視点から語釈を考えることは、「有り」の転と考えられる語の出自からして不適当である。
 赤人の用いている当該「雪は降りける」の「けり」については、どちらの歌でも話を作為しているのだから、自分で歌いながら「気づき」を演出しているわけで、回想でも詠嘆でも伝聞でもあると言えるのである。とぼけた赤人の歌声が聞こえてくる。
(注8)この歌は長らく叙景歌の代表として君臨してきた。遅くとも藤原定家の頃にはそう捉えることで名歌と思われていたようである。しかし、本稿により、頓智、なぞなぞ、ジョーク、駄洒落の歌であると確かめられ、コペルニクス的転回を来した。
 万葉集の時代には、歌は声に出して歌われ、その場において耳で聞いている人たちの間で楽しまれた。機知に富んだ言葉の使い方が好まれていた。ところが、文字の時代に入って目で読んで言葉を理解するようになると、すぐにそれまでの言語芸術のあり方がわからなくなってしまった。文字という記号はやがて科学的な思考を生み、文明は高度に発展した。今や機械学習の助けも得てスピーディにして快適な生活を手に入れている。現代人にとって必要な情報処理にはアップデートが欠かせないわけだが、記紀万葉の時代のものの考え方を探るためにはダウンデートが求められる。その結果得られるものは、一般には「くだらない」と評価される代物である。そこに何かの意味を見出すとするなら、多くの人類が辿ったのとは別種の地平があったという文化人類学的興味である。
 人間は言葉で考える。その根本の言葉について、まったく別の方向へと使い方を進化させていた文化が存在していた。その貴重な姿を万葉集は留めてくれている。もはやそれは「文学」という範疇では語れない。高座で話した洒落を落語家が後で解説するのを嫌がるようなもの、学術研究の対象にして高説を垂れてはお門違いになる。

(引用・参考文献)
井上2010. 井上さやか『山部赤人と叙景』新典社、平成22年。
遠藤2022. 遠藤耕太郎「不尽の雪─赤人不尽山歌の「雪は降りける」をめぐって─」『日本文学』第71号第2号、2022年2月。
小田2015. 小田勝『実用詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂本2001. 坂本信幸「赤人の富士の山の歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
鈴木2019. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」─享受と創造─」『都留文科大学研究紀要』第90号、2019年10月。都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000485
鈴木2021. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」と高橋虫麻呂の「富士の山を詠む歌」の影響関係」『都留文科大学大学院紀要』第25号、都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000758
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
廣岡2005. 廣岡義隆『萬葉のこみち』塙書房(はなわ新書)、2005年。
廣川2019. 廣川晶輝「山部赤人「不尽山を望む歌」 について」『甲南大學紀要 文学編』第169号、2019年3月。甲南大学機関リポジトリhttps://doi.org/10.14990/00003249
吉村2015. 吉村誠「研究の現状と教材化─『万葉集』山部赤人「不盡山」歌を通して─」『研究論叢 芸術・体育・教育・心理』第64巻、山口大学教育学部、2015年1月。山口大学共同リポジトリ https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/24941
※2000年以前の論考については割愛した。梶川1997.の議論や井上2010.の山部赤人関係文献目録を参照されたい。

万葉集の序詞の「鳥」が「目」を導く歌

2025年01月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集のなかに、序詞で「鳥」と言い、「目」を導いた歌が二首ある。巻十二「古今相聞往来の歌の類の下」の「物に寄せて思ひを陳ぶる歌」と巻十四「東歌」の「常陸国の相聞往来の歌十首」のなかのそれぞれ一首である。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり〔小竹之上尓来居而鳴鳥目乎安見人妻姤尓吾恋二来〕(万3093)
 小筑波をつくはの しげよ 立つ鳥の 目ゆかを見む さざらなくに〔乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左祢射良奈久尓〕(万3396)

 万3096番歌から見ていく。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり(万3093)

 一・二句の「小竹しのうへ来居きゐとり」が序詞で、「」を導いていると考えられている。四・五句は、人妻なのに私は恋したことだ、と「故に」の「に」は逆接と解されている。万葉集中の「人妻故に」三例の内、万21・1999番歌が類例である。

 紫草むらさきの にほへるいもを にくくあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
 あからひく しきたへの子を しば見れば 人妻故に 吾恋ひぬべし(万1999)
 うち日さす 宮道みやぢに逢ひし 人妻故に 玉の緒の 思ひ乱れて しそおほき(万2365)(注1)

 序詞のかかり方については諸説ある。結果、三句目の「目を安み」の意が定まらない。見るに快い(美しい)、見た目が安らかなので、見ることがたやすいので、と捉え方に差が出ている。

 ①むれの意のメにかかる序詞とする説(賀茂真淵・冠辞考(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/864336/1/22))。
 ②ささの末に巻いた葉があるのを「芽」というので、そこへ来て居る鳥の心は安かるからとする説(契沖・代匠記精撰本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979064/1/282))。
 ➂初二句は「目安し」(見た目がよい、一目見たすばらしさ、姿がよい、見にくからず)を起こす序と考えればよいとする説(北村季吟・萬葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/727?ln=ja)、土屋1977.、稲岡2006.、阿蘇2010.)。
 ➃笹の葉の上に来て鳴く鳥はありふれていて、ありふれて逢うことがしやすい人妻であるとする説(折口信夫・口訳萬葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1663261/1/61))。
 ➄「目を安み」の「目」について、鳥の名にメ(乙類)という接尾語が付く例が多い(カマメ、スズメ、ヒメ、ツバメなど)ので、メは古く鳥を意味したのではないかと考えて序詞とする説。安心した気持で逢えるので、の意(大系本)。
 ⑥「目」を網の目と捉え、羅網、鳥網の目の危険がないので心安らかなように、見ることが易しいので、の表裏の意をかけ合わせた修辞とする説(井手1957.)。
 ⑥´羅網が張られていないので小鳥たちが安心して篠の上にやってくる、その夫人に逢う機会が多かった(澤瀉1963.)。
 ⑥´´網目にかかる心配がない、見た印象がよい(集成本、伊藤1997.)。
 ⑥´´´網の目を気にしていない、人目に立つことはないと気を許して(中西1981.)。
 ➆篠の上に止まっている鳥のように、目にすることが容易であるとする説(武田1956.、新大系本)。
 ⑧「目」は人目のことで、篠の葉末にいる鳥は人目に立つことがないので、人目を安心なものと見、ひそかに思いを寄せる意を重ねたとする説(多田2009.)。

 どの説も歯切れが悪い。
 古代の人たちは鳥をよく観察し、それに基づいて言葉にして歌に表し、聞いた人もなるほどうまいことを言うねえと感心したのだと思う。コミュニケーションが成り立っているから歌としてあり、4500首余りが万葉集に収められている。
 この歌で、「鳥」が「来居て鳴く」場所は、「小竹しのの上」である。篠とも書くシノは竹の類のなかで小型のもので、笹よりは大型のものを指したようである。小鳥でも笹の上には止まることはできず、シノの上になんとか止まっていると想定しているらしい。湾曲した指を使ってシノを握っている。どこでも止まれるかといえばそうではない。指が回ってしまう細いところではかなり苦労する。飼育されている文鳥の例で考えれば、8㎜の枝にはつかまりたがらず、指が止まり木の三分の一程度を余す12㎜程度以上あるものが好まれている。シノに適用して考えれば、節間の部分では指が回ってしまい、盛り上がっているふしのところを握るようにして止まることになる。むろん、歌は写生によって成っているのではなく、相手をおもしろがらせるための機知として言葉を継いでいる。
鳥の止まり木模式図(左:細すぎて止まれない、右:ちょうど良い)
 鳥が来て止まって鳴いているのはシノのフシ(節)ということである。フシ(節)に止まれば安定しくつろげ、鳥はフシ(伏、臥)の状態に入ることができる。目を閉じて寝られるのである(注2)。だから、「目を安み」と続けている。しっかり握りつかめ、体が安定するから、ストレスなく目を休めて寝ることができる。「目を安み」の「目」は人間が鳥を見る「目」などではなく、鳥自身の「目」である。それがこの序詞のかかり方の妙である。よって「寄物陳思歌」として成り立っている。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり(万3093)
 篠の上に来て止まって鳴く鳥は、そのふしのところを握って体が安定するので目を休めてして寝るというように、相手がたとえ人妻であっても共寝をしたくなるような恋を私はしたことだ。

 万3396番歌も、同様に「鳥」の「目」を比喩として使っていると考えられる。

 小筑波をつくはの しげよ 立つ鳥の 目ゆかを見む さざらなくに(万3396)
 小筑波をつくはの山の繁茂した木々の間から一斉に飛び立っていく多数の鳥のなかの一羽のようにしか、あなたのことを見られないことになるのだろうか、共寝しなかったわけではないのに(注3)

 「目ゆか」の「ゆ」は経由を表し、手段を示すとする説が通行している。類例として次の歌があげられている。

 赤駒あかごまを 山野やまのはがし りかにて 多摩の横山 徒歩かしゆからむ(万4417)

 徒歩で、というのと、鳥の目で、というのはちょっと勝手が違う(注4)。助詞「ゆ」は本来、動作の行われるところ、経過するところを表したり、動作の起点を表す。場所の場合でも時間の場合でも同じように使っている。現代語では、ヲ、カラに当たる。

 巻向まきむくの 痛足あなしの川ゆ く水の 絶ゆることなく またかへり見む(万1100)
 ……… 白たへの 手本たもとを別れ にきびにし 家ゆもでて 緑児みどりごの 泣くをも置きて ……(万481)

 川を行く水、家から出て、の意であるが、「動作が行なわれる対象そのものを指すという性格はヨリよりも濃い。」(時代別777頁)ものである。川をこそ通って行く水、家からまでも出て、のような自己言及的、陳述副詞的な意味合いを持っている。「立つ鳥の 目ゆかを見む」という言い方は、立つ鳥の目なんかから○○○○○あなたを見ることになるのだろうか、の意であると考えられる。つまり、あなたを見ることが、異性として見ることさえかなわず、人ではない鳥として見る、それも群れを成して飛び立つうちの一羽の目からしか見ることができない、ということを言おうとしている。そういう扱いをあなたは私にされるのでしょうか、共寝をした間柄だのに、と愚痴っていると解される。そんな比喩を使っているところからすれば、相手はとても人気のある人だったのだろう。たくさんの人たちの注目を浴びている。そのなかから選ばれて自分は共寝する関係になった。なのに相手は過去のこと、なかったことにしてきた。どうでもいい有象無象にされてしまったと未練がましい歌を歌っているのである。
 そんな群鳥の居場所を小筑波をつくはとしている。ヲ(尾)にハ(羽)がツク(着)と聞こえ、鳥が密集しているとわかるのである。

 うちなびく 春さり来れば 小竹しのうれに 尾羽をはうち触れて うぐひす鳴くも(万1830)

(注)
(注1)万2365番歌も、「人妻故に」が「玉の緒の思ひ乱れて」までにかかると考えれば、ふつうなら恋しく思うはずのない人妻なのに思いが乱れる、という意とも解される。「宮道みやぢ」は「玉」砂利が敷かれているところを言い、「玉の緒」が切れたから道に散乱しているのだと譬えている。今日までのところ、そのように解した注釈書は管見に入らない。
(注2)文鳥のほか小鳥の多くはスズメ目で、三前趾足をしている。我々には膝に見えつつ逆に曲がっているところは、骨格上、かかとに当たる。その踵を落とすと足裏側の腱が引っ張られて自動的に指が閉じるため、木の枝をぎゅっと握った状態で保つことができ、枝に止まったまま安定するので眠ることができている。
 フス(伏、臥、俯)という言葉は、「うつむいた状態で、床や地面に接する意」(岩波古語辞典1156頁)で、腹ばいになること、うつぶすこと、横たわることや寝ること、を指す。眠っているとは限らないわけだが、居眠りが体勢を立て直しながら行うように落ち着かないことに比べ、伏して横たわることが身を安んずることにつながる。小鳥の場合は踵を落とした姿勢である。

 さ雄鹿をしかの 朝小野をのの 草わかみ かくろひかねて 人に知らゆな(万2267)
 むし衾 なごやがしたに せれども 妹としねば はださむしも(万524)
 家人いへびとの 待つらむものを つれもなき 荒磯ありそをまきて せる君かも(万3341)

 なお、竹類には例外的に、節間の部分が膨らんだホテイチク、ブッタンチクのような品種もある。
(注3)水島1986.は、「一首は男の歌で、一度ならず自分に許したことのある女性が、如何なる事情によるのか、共寝を拒むようになったことを、いぶかしみ、悲しく思うのであろう。」と解している。阿蘇2011.は個人的抒情歌としての理解は疑問であるとしているが、歌で歌いたいことはその内容ではなく形容である。うまいこと言えているだろうと誇示しているだけで、経験や本心とは無関係であって何ら問題ない。作者を問わずに収集している東歌には、採用の観点からして言葉遊びを重視する傾向が強くなって当然である。
(注4)「加志由加也良牟」を「徒歩かしゆからむ」と訓んで、「徒歩かし」は徒歩かちの上代東国方言であるとされている。ただし、「かしゆからむ」、足枷をつけて送致するようなことになるのだろうか、の意と解することもできる。新撰字鏡に「鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、あし加志かし、又加奈保太志かなほだし」とある。「多摩の横山」は多摩川沿いの丘陵地でアップダウンがきつく、足が棒になるほど疲れることを歌っていることに違いはなく、防人に赴任することはまるで罪を犯して流刑になるようなものだという認識があったなら、囚人の護送のようだと歌ったとした方が比喩表現としてより巧みであると考える。

(引用・参考文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第6巻』笠間書院、2010年。
阿蘇2011. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第7巻』笠間書院、2011年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釈注 六』集英社、1997年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
井手1957. 井手至「目をやすみ」『萬葉』第24号、昭和32年7月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1957(『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。)
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澤瀉1963. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第十二巻』中央公論社、昭和38年。
時代別 上代語辞典編修委員会編『時代別国語時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎『新潮日本古典集成 萬葉集 三』新潮社、昭和55年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
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水島1956. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

2025年01月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺に産屋うぶやを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたといって、トヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)
 是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に、名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは、本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺き屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)に、水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜、cormorant)という鳥の名がことさらに叫ばれており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に、「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点で、ススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。
羽を乾かす鵜
 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は、陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていて、絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は、疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとは一体全体どういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものである以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそなるほど納得の言葉遣いであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語で、ヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか〈三方沙弥〉(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。完成には至らない。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。練供養ねりくようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思ったであろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とは、ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているものと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、海辺うみへ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはら海辺うみへへの移動は何を物語るのか。海辺うみへ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として、同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「其の剣を号けて草薙剣くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋うぶやを作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「鵜川うかは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだが、それがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方は、その言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一書第一に、「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、一書第三の「屋蓋未合」もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
カワウの巣(大阪市立自然史博物館「日本の鳥の巣と卵427」展展示品)
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、和カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミには、ヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ち天之瓊あまのぬ 瓊は玉なり。此にはと云ふ。ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の記述の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得るのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けることによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、面白がることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0c9178d94e7bad106c7159a74fd78ad1参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはら海辺うみへ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もし海辺うみへではなく川辺かはへへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。川辺かはへのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは、防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。産屋を造る伝とは別に、かやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからであろう。ただし、茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考えられる。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)
 家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかになっている。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものについて、2025年1月に誤りを正した新稿である。

大伴家持の「亡妾」歌(万462)─夏六月に秋風が寒く吹く理由を中心に─

2025年01月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴家持がまだ若い頃に「妾」を亡くして詠んだとされる歌が万葉集の巻三に載る。万462番歌を皮切りに、弟の書持の「即和歌」一首を含めて万474番歌まで計十三首(長歌一首)あり、家持は深い悲嘆に暮れたと捉える見方が大勢を占めている。ここでは、そのうち最初の四首をあげる。歌い始めの最初の歌、万462番歌を詳しく読み解くためである。

  十一年己卯の夏六月みなつき大伴宿禰おほとものすくね家持やかもちの、みまかりしをみなめ悲傷かなしびて作る歌一首〔十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首〕
 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長きむ〔従今者秋風寒将吹焉如何獨長夜乎将宿〕(万462)
  おと大伴宿禰書持ふみもちの即ちこたふる歌一首〔弟大伴宿祢書持即和謌一首〕
 長きを ひとりやむと 君が言へば 過ぎにし人の おもほゆらくに〔長夜乎獨哉将宿跡君之云者過去人之所念久尓〕(万463)
  又、家持の、みぎりの上の瞿麦なでしこの花を見て作る歌一首〔又家持見砌上瞿麦花作謌一首〕
 秋さらば 見つつしのへと いもゑし 屋前やど石竹なでしこ 咲きにけるかも〔秋去者見乍思跡妹之殖之屋前乃石竹開家流香聞〕(万464)
  つきたちに移りて後に、秋風を悲嘆かなしびて家持の作る歌一首〔移朔而後悲嘆秋風家持作謌一首〕
 うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み しのひつるかも〔虚蟬之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞〕(万465)

 書持の万463番歌の一・二句目にある「長きひとりやむ」は、家持の万462番歌の四・五句目の「いかにかひとり長きむ」を受けて言い換えているだけである。亡くなった人のことが思われるねえ、と言ったところで、そもそも家持は「悲-傷亡妾作歌」を歌っているのだから当たり前のことをくり返しているだけである。兄貴、あなたが寝られないと訴えている理由がわかるよ、亡くなったあの娘のことが自然と思われるよ、と同情した、それをわざわざ歌に拵えて周囲に聞かせたというのだろうか。書持の歌の意図は理解できないし、言語芸術になっていないことになる(注1)
 最初の一首に疑問がある。題詞に、夏六月のこととされながら歌詞に「秋風」とある。大切な人を亡くしたから夏でもうすら寒い風が吹いたと感じられたのだろうとか、暦のめぐりあわせだろうと考える向きがある(注2)。個人的な感慨は思うのは勝手でも、歌に作り声に出して訴えられたら心理カウンセリングの対象としなければならない。弟の書持はそこに狂気も不自然さも感じずに「即和歌」を作っている(注3)。暦意識が根づいていてその妙を捉えた歌とするなら、書持もそれに倣っていていいはずだがそうはしていない。そして、万465番歌に至っては、「移朔而後、悲-嘆秋風」と、性懲りもなく再び「秋風」の寒いことを歌っている。「移朔」、つまり、月が改まって秋七月一日になったら「秋風寒み」と詠んでも何の不思議もない。
 そうなると、夏六月時点での万462番歌は、暦の話ではなく特別な修辞によって歌が作られていると考えなければならない(注4)。聞いている人がすぐにわかることが歌われている。相手が、そして周囲の人が理解できないことが仮に歌われたとしても、そのようなものはすぐに忘れられるから万葉集に残されることはない。
 どういう状況のもと歌われたかは題詞に明記されている。題詞は歌の設定、枠組みを示すために置かれている。
 ヲミナ○○メ(妾)のことをミナ○○ツキ(六月)に歌っている。ミはともに甲類である。ミナという言葉が歌の全編を覆う仕掛けということだろう。ミナ(ミは甲類)には蜷という言葉がある。今日、ニナと呼んでいる巻貝である。巻貝のことを連想しているのは、マク(巻、纏)という動詞を意識してのことと考えられる(注5)。共寝することをマクと言った。歌っているのは大伴さんである。オホトモなのだから、トモに寝ることに齟齬はない。共寝、つまり、纏くみなに当たるヲミナ○○メ(妾)が突然亡くなった。ミマカル(亡)という言葉も、ミ(身、ミは乙類)+マカル(罷)の意で、マカル(罷)はマク(任)と同根の言葉である。ミナ○○ツキ(六月)なのに纏いて寝る相手がいなくなって独り寝を強いられている。そのことを歌っているのである。
水槽に吸着するカワニナ
 人が亡くなっているのをネタにして駄洒落の歌を歌っている。倫理的にどうなのかと思うかもしれないが、この「をみなめ」が家持とどのような関係にあったのかについては議論がある(注6)。実際に男女の関係にあったかは推測の域を出るものではない。家持が独り寝のことを歌っているからと言って、家持が実際にこのをみなめと共寝をしていたという証拠にはならない。なにしろ家持は、一連の「亡妾」の歌の冒頭で駄洒落の歌を歌っている。考え方によっては、身分が低く名も明かされないをみなめのことを追悼するのに歌に作って歌うということは、良い供養であると思われたかも知れないのである。
 廣川2003.は宴席の場での歌だとしている。万462・463番歌は宴の晩に詠まれたものであろう。家持が、今からは秋風が寒く吹くことだろうよ、どうやって一人で長い夜を寝るつもりなのか、寝ないで宴を楽しもうよ、と歌ったのに対して書持は、長い夜を一人で寝るのか、いやいや寝ることなんてできないよ、蜷を食べていると亡ったを妾のことが自然と思い出されるもの、と答えている。楊枝のようなもので一生懸命にくるくるっと巻きながら「みなわた」(万804・1277・3295・3649・3791)(注7)を引き出していたところだったらしい。一人で寝られないとは、宴会で酒を飲んで酔っぱらい、寝そうになっている参加者を無理やり起こしていたということである。家持は最初の歌で、今、お配りしたのは蜷ですよ。宴も酣ではございますが、夜も押し詰まって参りますと六月なのに季節外れの秋風が寒く吹くことでしょうから、と言っている。亡くなった妾を弔うために、この長い夜、一人で寝るなんてことできないでしょう、いつまでも起きていて飲み明かしましょう、と盛り上げようとしていたのであった。
 家持は地口、駄洒落で歌を作り、その意図が書持にも伝わり「即和歌」し、二人とも歓喜している。ミナ(ミは甲類)のことを言っているのだね、と書持がピンと来て「即和歌」して言語芸術は成立し、万葉集はその歌を収録している。万葉歌は知的な言語ゲームの成果であった(注8)

(注)
(注1)秋風が吹いたら悲しくなるものだ、という日本的情緒(?)がこの歌で初めて表明されたのだといった感想は現在も語られるが、実証的でなく、学問の名に値しない。上野誠「『万葉集』はいかなる歌集か…日本文化+中国文明=万葉集?」(テンミニッツTV - 1話10分で学ぶ大人の教養講座)https://www.youtube.com/watch?v=M-BRU6YPc24(10:04~10:21、2024年12月25日閲覧)参照。
(注2)この天平十一年は、暦の上で六月二十四日が立秋のため、暦月と節月のずれを述べているとする見解(大濱1991.や廣岡2020.)がある。「年のうちに 春はにけり ひととせを 去年こぞとやいはむ 今年ことしとやいはむ」(古今集1)と同様だと考えるわけだが、題詞に「ふる年に春たちける日よめる」と断られている。家持にはホトトギスの歌をはじめ暦に基づいた歌があるが、その場合も題詞などに明記されている。そうしないと歌意がわからないからである。
(注3)廣川2003.は、「即和歌」とある場合、儀礼や宴席という場が存在するという。
(注4)鉄野2017.は、暦の上での立秋によって歌っているとする説を追認し、「父旅人の歌の表現や方法を踏襲し、それを露わに見せながら、一方ではそれと異なって、季節やそれによる景物の変化とともに妻の死を捉えようとする姿勢が見られる。」(8頁)という。
(注5)古典基礎語辞典には、「まく【負く】自動カ下二/他動カ下二 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。」(1103~1104頁。この項、須山名保子)とある。
(注6)この歌群については虚構論議が行われた。例えば中西1963.に、「第三者の「亡妾」であったか、全く架空であったかは不明だが、少くとも家持自身の事ではなかろうと考える。」(451頁)とある。現在、「亡妾」は実在したのか、家持との関係はいかなるものか、という事実をめぐる議論は下火となっている。例えば、鉄野2017.は、家持との間に「若子みどりご」(万467)を成しているはずとの立場から、「思うに、妻のような身近な人の死を悲しむ情は、時を経て初めて歌いうるのではないだろうか。死別の直後の悲哀は、後から振り返って自らを造形し直す以外には表現しえない。」(17頁)という。
(注7)「みなわた」は枕詞で「か黒き髪」を導いている。実体として使われている言葉ではないものの、身近な存在だったから形容するために用いられたのだろう。
(注8)歌人大伴家持について、その経歴と歌作とを結びつけて考えようとする傾向が強くなっている。しかし、そのようなことは可能なのか、また、有効なのか。現今でもドラマや舞台で活躍する俳優や、ライブや配信で人気の歌手がいる。顔、声、演技、歌唱に魅せられることがあるが、その人の真の人柄を知らないことも多い。親戚でも近所に住んでいるわけでもなく、会ったことすらないのがほとんどである。彼ら彼女らの実生活とその表現との間に強いて関連するところを探ることなど、週刊誌的、パパラッチ的、SNS的関心でしかないのではなかろうか。万葉集研究は変な方向へ向いていないだろうか。

(引用・参考文献)
有木1970. 有木節子「「亡妾歌」の真実─家持文学のアプローチとして─」『国文目白』第9号、1970年1月。
大濱1991. 大濱眞幸「大伴家持作「三年春正月一日」の歌─「新しき年の初めの初春の今日」をめぐって─」『日本古典の眺望 吉井巖先生古稀記念論集』桜楓社、平成3年。
小野寺1972. 小野寺静子「「悲傷亡妾歌」歌」『国語国文研究』第50号、北海道大学国語国文学会、昭和47年10月。
倉持・身崎2002. 倉持しのぶ・身崎寿「亡妾を悲傷しびて作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐藤1993. 佐藤隆『大伴家持作品論説』おうふう、平成5年。
鉄野2017. 鉄野昌弘「結節点としての「亡妾悲傷歌」」『萬葉』第224号、平成29年8月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2017
中西1936. 中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、昭和38年。(『万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
橋本2000. 橋本達雄『万葉集の時空』笠間書房、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。(「家持の亡妾悲傷歌─作品形成における季の展開について─」『三重大学日本語学文学』第4号、1993年5月。三重大学学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/10076/6466)
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
松田2017. 松田聡『家持歌日記の研究』塙書房、2017年。(「家持亡妾悲傷歌の構想」『国文学研究』第118巻、1996年3月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43573)
身﨑1985. 身﨑壽「「家持の表現意識─「亡妾悲傷歌」を例として─」『日本文学』第34巻第7号、日本文学協会、1985年7月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.34.7_23
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、平成22年。(「大伴家持亡妾を悲傷する歌群の特質」『広島女学院大学日本文学』第15号、2005年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/567)