古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

蘇我倉山田石川麻呂の娘、中大兄の妻の造媛について

2020年09月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大化改新後の政争において、大化五年(649)、讒言によって左大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかはまろが殺害された事件は、当時の政権の有り様を知る上で興味深いものがある。特にここでは、石川麻呂の娘で、中大兄に嫁いだみやつこひめちのいらつめ美濃津みのつこのいらつめ)が父親の後を追って自殺した点にスポットを当てて検討する。
 事件を追っていくのではなく、造媛とは誰か、なぜ名前が変わって記されるようになったのかについて見ていく。したがって、掲げる日本書紀のテキストは前後する(注1)。まず、父親の石川麻呂が斬首にされたことを聞き、造媛が、首斬りを実行した「塩」という人物の名を聞くのも嫌がるというところから見ていく。

 皇太子ひつぎのみこみめ蘇我造媛そがのみやつこひめかぞ大臣おほおみしほの為に斬らると聞きて、心をやぶりて痛みあつかふ。塩の名聞くことをにくむ。所以このゆゑに、造媛に近くつかへまつる者、塩の名はむことをみて、改めて堅塩きたしと曰ふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ。皇太子、造媛徂逝ぬと聞きて、愴然傷怛いたみて、哀泣かなしぶること極めてにへさなり。是に、野中のなかの川原かはらのふびとみつ、進みて歌を奉る。うたよみして曰はく、
 山川やまがはに 鴛鴦をし二つ居て たぐひよく たぐへる妹を たれにけむ 其一それひとつ(紀113)
 本毎もとごとに 花は咲けども なにとかも うつくし妹が また咲きぬ 其二それふたつ(紀114)
皇太子、慨然頽歎なげ褒美めて曰はく、「善きかな、悲しきかな」といふ。乃ち御琴を授けて唱はしむ。絹四匹よむら・布二十端はたむら・綿二褁ふたかます賜ふ。(孝徳紀大化五年三月是月)

 造媛の近侍の者たちは、奥方に気を使ってシホと言わずにキタシと言ったという話である。新編全集本日本書紀に、「父を殺した人の名が「塩しほ」なので、娘造媛は「塩」という言葉を忌み、「堅塩きたし」といったというのである。キタシはキタシ(堅)シホ(塩)の縮約。キタシとカタシは音通。「堅塩きたし・かたしほ」は、塩のにがりを除くために土堝に入れて焼き、固い塊となるので「堅塩」という。」(178頁)とする。
製塩土器(宮城県江ノ浜遺跡、奈良~平安時代、8~9世紀、「発掘された日本列島2017」展展示品。この薄手の曲物状の土器は、よく知られる厚手の円錐形をした製塩土器(写真下部に破片を集めてある)と併せて使われたものとされている)
 この考えについて、筆者は間違っているとは思わない(注2)が、思慮が浅いと思う。その程度のことをわざわざ後世に伝えようとするほど、上代の無文字文化のなかにある人たちの言語能力は低くない。言葉としてずっと込み入った事情を伝えているものと思う。第一に、忌む言葉として有名な斎宮忌詞に関係する点があげられる。斎宮忌詞(注3)に「涙」を「塩垂しほたれ」と言っている。延喜式に載る斎宮忌詞がいつからあるかわからないが、上の記事に、「涙」を流す→……→「塩」というつながりが感じられる。「傷心痛惋、悪塩名」という記述は、「塩」という名を聞くことはそもそもが斎宮忌詞にいう塩垂、涙を流すことを連想させるのに、さらに輪にかけて、物部二田造塩という名の人に父親が首斬られたのだから、悲しみが倍増している。造媛自身、困ったことに自分の名がミヤツコであって、物部二田造塩にあってはかばねに当たるが、悪い奴と同じ名を負っている。なぜ姓が同じぐらいで深刻になるかと言えば、カバネとはシカバネともいうように、亡骸、骨の意だからである(注4)。父親が亡くなっていて、屍の骨がおもちゃにされてしまった。物部二田造塩については、人斬り以蔵的なイメージがある。造媛にとって痛ましく辛かったのは、大化五年三月二十六日の出来事である。

 庚午[二十六日]に、山田大臣やまだのおほおみ妻子めこ及び随身者ともびと、自らわなきてみうする者おほし。穂積臣ほづみのおみくひ、大臣の伴党ともがら田口臣たぐちのおみ筑紫つくし等をかすあつめて、くびかししりへでにしばれり。是のゆふべに、木臣きのおみ麻呂まろ蘇我臣そがのおみ日向ひむか・穂積臣嚙、いくさひきゐて寺をかくむ。物部もののべの二田造ふつたのみやつこしほして、大臣のくびを斬らしむ。是に、二田塩、仍ち大刀たちを抜きて、其のししを刺し挙げて、叱咤たけ啼叫さけびて、いまし斬りつ。(孝徳紀大化五年三月)

 とんでもない話を聞かされてしまった。父親、家族、召使一家、首を括って自害している。それだけではない。当初、審問官であった穂積臣嚙は凶暴な物部二田造塩を喚び寄せている。息絶えている父親の遺体をたてて(注5)、大声をあげながら首を斬り落とした。それが律にいう斬首の刑(注6)に当たり、はじめての斬として公然と執り行われている。「叱咤啼叫」だから「咄嗟やあ」とでも言って大刀を揮っている。自分の夫が実家の父親を殺させている。指図したわけでなくても不作為にしてそうなっている。自決しているのにさらに死者に鞭打つどころか首を斬り落とさせている。自分の夫である中大兄は、乙巳の変の時に蘇我入鹿を殺させるために掛け声を発していた。「中大兄なかのおほえ子麻呂等こまろらの、入鹿いるかいきほひおそりて、便旋めぐらひて進まざるを見てのたまはく、『咄嗟やあ』とのたまふ。」(皇極紀四年六月)。心を持つまともな人であれば、とても生きてはいられない。そして三界に家はない。造媛は気が狂って父親の後を追ったのではなく、まともだから生き続けることができなかった。
 この「造媛」という人は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるが、そのうちの二番目の子であろう。最初に登場するのは、中大兄に嫁ぐときのことである。今回、皇太子中大兄に讒言して蘇我倉山田石川麻呂を殺すように仕向けた首謀者、蘇我日向、あざな身刺むざしという人物は、そのときにも登場している。蘇我蝦夷・入鹿のいわゆる蘇我本宗家に対するため、蘇我氏の別流の倉山田石川麻呂の長女を嫁に迎えたらいいのではないかという中臣鎌足の提案を受け、鎌足が媒酌人として取り決められた。ところがその「長女」は蘇我日向(身狭)に誘拐されてしまった。そこでピンチヒッターに「少女」が立っている。親孝行な娘である。話として、二回とも蘇我日向(身刺)は、中大兄と蘇我倉山田石川麻呂との間の関係を壊す役柄になっている。

 是に、中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじはかりてまをさく、「大きなる事を謀るには、たすけ有るにはかず。ふ、蘇我倉山田麻呂の長女えひめめしいれて妃として、婚姻むこしうとむつびを成さむ。しかうして後にべ説きて、ともに事を計らむをおもふ。いたはりを成すみちこれより近きは莫し」とまをす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。ひばひらかはかれるに従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きてなかだかため訖りぬ。しかるに長女えひめちぎりしやからぬすまれぬ。族は身狭臣むさのおみと謂ふ。是に由りて、倉山田臣、憂へかしこまり、仰ぎ臥して所為せむすべを知らず。少女おとひめ、父の憂ふる色を怪びて、就きて問ひて曰はく、「憂へ悔ゆることぞ」といふ。父其のゆゑぶ。少女曰はく、「願はくはな憂へたまひそ。おのれを以て奉進たてまつりたまふとも、亦復またおそからじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其のむすめたてまつる。つかへまつるに赤心きよきこころを以てして、更に忌むる無し。(皇極紀三年正月)

 結局、倉山田石川麻呂の「少女」の方が自ら進んで中大兄に嫁いでいる訳であるが、彼女の名前をきちんと記した報告書としては天智紀の皇統譜によるしかない。

 二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇子ふるひとのおほえのみこみむすめ倭姫王やまとのひめおほきみを立てて皇后きさきとす。遂によはしらみめめしいる。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘をちのいらつめと曰ふ。或本あるふみに云はく、美濃津子みのつこのいらつめといふ。ひとりひこみこふたりひめみこを生めり。其の一を大田おほたの皇女ひめみこまをす。其の二を鸕野うのの皇女ひめみこと曰す。天下あめのしたしらしむるにいたりて、飛鳥あすかの浄御原宮きよみはらのみやします。後に宮を藤原に移す。其のみたり建皇子たけるのみこと曰す。おふしにしてまこととふこと能はず。或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其の二を大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰すといふ。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女を芽淳ちぬのいらつめと曰ふ。大田皇女と娑羅羅さららの皇女ひめみことを生めりといふ。次に遠智娘のいろど有り、めひのいらつめと曰ふ。御名部みなべの皇女ひめみこ阿陪あへの皇女ひめみことを生めり。阿陪皇女、天下をしらしむるにいたりて、藤原宮にします。後に都を乃楽ならに移す。或本に云はく、姪娘をなづけて桜井さくらゐのいらつめと曰ふといふ。……(天智紀七年二月)

 嬪四人のうちの二人が石川麻呂の娘である。「遠智娘(美濃津子娘、芽淳娘)」と「姪娘(桜井娘)」である。一般的には、「美濃津子娘」は「三野津子娘」などと記されていたのを誤って写して大化五年三月条にある「造媛」のミヤツコがミノツコとなっていると考えられている。ミヤツコを「三野津子」などと表記したのが誤読されてミノツコに変じたという。筆者は、単なる誤写ではなく、意図的、作為的な改変ではないかと考える。彼女は、自分の父親を斬首した物部もののべの二田造ふたたのみやつこしほが許せない。血潮ちしほにまみれて喜んでいた奴が死んでも許せないと感じていた。きっと物部二田造塩は、血潮のことを斎宮忌詞流に、いい仕事をして「汗」をかいたと笑っていたのであろう。だからこそ、シホという言葉が忌み言葉として侍者に扱われている。ならば、後を追って死んでしまった造媛は、名前を同じミヤツコ(ヒメ)と呼んでいてはかわいそうである。浮かばれないではないか。名前を変えてあげよう。ミヤツコヒメ→ミノツコヒメ(ミ・ノ・コはともに甲類)である(注7)
 「三野津子」などと記したことによって生じた訓から生じたことを否定するつもりはないが、それだけの理由で積極的に名前を変えるかといえば、上代の言霊信仰下にあっては疑問である。大化改新前の騒動の時、「赤心」(注8)を抱いて自らをいわば犠牲にして政略結婚に応じて中大兄に嫁いだのは、嬪の筆頭にあげられている「遠智娘」としか考えようがない。そういう誠なる性根だから、父親の死にショックを受けて後を追っている。
 「遠智娘」という名がいつからあったかはわからない。女の子が何人もいて、最初の子は「長女」で、二番目の子の呼び名である。年下の子はオト(弟・娣)である。さらに三番目の子が登場してしまったので、二番目のオトを叔、オトヲヂ(叔父、伯父に対する語)と捉え直して三番目をそれに対するメヒ(姪)として定めた。すると二番目の娘は女の子だからヲヂではなくてそれに近いものとしてヲチとして落ち着かせたと推定することができる(注9)
 最初の婚姻の個所では、「長女」対「少女」という並びであった。名前などどうでもいい扱いと思われていた。より正確にいえば、呼ばれるもの、それが名前であって、どう呼ばれたかが問題なのである。結果的に、ヲチ(ノイラツメ)と呼ばれている。ヲチといえば、遠いところのヲチ(彼方)の意があり、彼岸へ逝ってしまった人であり、以後のことを示すヲチ(遠)の意がある。結婚騒動で善後策をとってくれた人であるし、元に戻って若々しくあることをいうヲチ(復若)の意があり、若い良い人を亡くしたのでそう呼んで悼んだものと思われる。つまり、死後に授けられたいみなである。イミナは忌み名の意である。近侍者はシホ(塩)をキタシ(堅塩)という忌み名で呼ぼうと取り決めていた。天皇でもないのに諱で呼ばれている。「遠智娘」という名で呼ばれることとは、忌み名の人という意味である。最初に「少女」として登場した時も、「奉以赤心、更無忌。」とある。厭うことなく寛容であった。日本書紀編纂者の通念として、彼女は「忌」の人、くだけて言えば、恨みっこなしの人として一貫していたと認識されている。最終的に恨みっこなしにはできないほど、看過できない事態に陥って、自らこの世から出て行くこととなった。自己循環的に、名前がそのものとしてから名づけられている。上代の言語論理の特徴に合致していて正しいと知れる。言葉に依って立つ意味をそれ自体に含めてしまう二重化が起こっている。
 ミヤツコ→ミノツコについては、ミヤツコはミ(御)+ヤツコ(奴)の約とされ、ミノツコは、ミ(御)+ノ(野)+ツ〈助詞〉+コ(子)、つまり、野辺送りのノ(野)の意味合い、墓守の奴の意へと転化可能である。そしてまた、後追い自殺した人の名とするのにも相当である。それも、彼女の人生の節目の原因をことごとく作った人物、蘇我日向、あざなを身刺(身狭)という人物が、ヒムカ(日向)、ムザシ(武蔵)という国の名を負っていることに対抗して、ミノ(美濃)という国の名を当てたということであろう。追号されて美濃守を賜わっていることに相当する。遠国の日向国や武蔵国ではなく、ずっと都に近い美濃国を与えられている。日向の方、つまり、蘇我日向は左遷されている。「即ち日向臣ひむかのおみ筑紫つくしの大宰帥おほみこともちのかみす。世人ひとかたりて曰はく、『これ隠流しのびながしか』といふ。」(孝徳紀大化五年三月是月)(注10)。大宰府は筑紫国にあり、古くは日向も筑紫国の一部であった。神代紀第九段一書第一に「筑紫の日向の高千穂の槵触之峯くしふるのたけ」とある。
 では、なぜ、美濃国が選ばれたか。ミヤツコを「三野津子」などと記されたのが契機となって、「三野」は美濃国の字に用いていた(注11)からそういう流れからそうなったことに違いはない。ただし、それを積極的に支持する上代人の思想がありそうである。野というのは、武蔵野というように台地のことである。それが三つあるのが「三野」である。三つ野があるとは、川が流れて間を区切っていることをいう。河岸段丘になっている。すると、川の流れは字形としてY字、または、人字である。造媛は無実の父親の死に殉ずるに準じている。漢字の国の儒教道徳に照らしてまことあっぱれな「人」であると認められる(注12)。万葉集でも、「人」という言葉は立派な人のことを指して使われることがある。つまり、ミヤツコという名を表記するに当たり、書記者は意図して「三野津子」というように記してミノツコへと改変しようとしたものと考えられる。

 …… あれきて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば …… (万892)
三野と人の関係地図
 実際の美濃国については、古代から紙が特産品として知られていた。美濃紙である。延喜式・内蔵寮式に、「年料に造るところの色紙四千六百張……毎年図書の長上一人を差し、美濃国に遣はして造らしめよ。」とある。古代の紙の需要に一番多かったのは経の書写である。蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで追討されたのは山田寺である。経の書写には色染めした紙が使われている。防虫効果を狙ったものともいわれる。斎宮忌詞に経のことを「染紙そめかみ」という。忌詞つながりでも、ミヤツコヒメ(造媛)を改めミノツコヒメ(三野津子媛)とすることに矛盾がない。
 また、美濃国の特産品にはあしぎぬもあげられる。延喜式・大蔵省式に、「蕃客に賜ふ例 大唐皇。〈銀大五百両。水織絁・美濃絁各二百疋。細絁・黄絁各三百疋。……〉。」とあって、渤海王や新羅王に渡す規定のない上等品扱いされている(注13)。唐への朝貢品とするのに、名前にあるアシギヌなる粗悪な絹のイメージは払拭されよう。なぜかアシギヌと言われて通っているが、悪くないのにアシギヌである。そんなキヌと言えば濡れ衣のことである。濡れた衣服を言うことから転じて、無実の罪を受けること、冤罪を示す言葉である。決して悪くないのに悪いように思われてしまった。蘇我倉山田石川麻呂の孝行娘を偲ぶのに、美濃はふさわしいお国柄なのである(注14)
 そして第三に、美濃国という内陸国にして塩を産する。森2009.に、可児市宮之𦚰遺跡や関市重所遺跡から、美濃式製塩土器が出土していることが記され、「付近の土場で荷揚げされた粗塩を再加熱して堅塩を製作する「二次生産地」として機能していた可能性が高い。」(12頁)とする(注15)。つまり、「堅塩きたし」の生産が、美濃国で行われていたわけである。この堅塩については、今日まで伊勢神宮に清めの塩の作り方として続いている。粗塩を三角錐の土器に詰め込み、忌火を熾して五~六日かけて焼く。堅塩は、その実体そのものが忌みを表し得るものなのである(注16)。忌みの人、造媛に聞かれないように忌詞として「堅塩きたし」と呼んでいたのは、言葉が言葉へと、これでもかと畳みかけるように返ってくる表現となっており、自己循環的説明を好んでその証明としていた上代の言語感覚に合致した言葉づかいであると知れる。
御塩焼固(日本財団「海と日本PROJECT in 三重県」伊勢市二見町の御塩殿神社の「御塩焼固みしおやきがため」https://mie.uminohi.jp/information/伊勢市二見町の御塩殿神社の「御塩焼固(みしお/)
 近年、大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは別人ではないかという意見が提出された。「遠智娘(美濃津子娘)」の皇子とされる建皇子の年齢問題を取り沙汰されている。遠智娘の子の建王(建皇子)が斉明四年(658)に八才で亡くなっているとすると、生れたのが白雉二年(651)ということになり、造媛は大化五年(649)に父親の蘇我倉山田石川麻呂の死に落胆して亡くなったはずの記述と合わないから、その母親は別人であろうというのである(注17)
 日本書紀に年齢記事には、「年○○」といった記述もあるが、ここでは「○○歳」をとりあげる。年齢をきちんと記すのはとても例外的であやしいものばかりである。「○○歳」記事ではないが、天智紀十年三月条のみ、年齢が主題になるため正確を期しているように思われるために追記した。通常は、天武天皇のような有名人でも年齢を記す習慣はなく、何年生まれかわからずに憶測が飛び交っている。

 次生蛭児。雖已三歳、脚猶不立。(神代紀第五段本文)
 次生蛭児。此児年満三歳、脚尚不立。(神代紀第五段一書第二)
 及年卌五歳、謂諸兄及子等曰、……(神武前紀)
 七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。(神武紀七十六年三月)
 至卌八歳、神日本磐余彦天皇崩。(綏靖前紀)
 天皇年十九歳、立為皇太子。(崇神前紀)
 天皇、践祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。時年百廿歳。(崇神紀六十八年十二月)
 廿四歳、因夢祥、以立為皇太子。(垂仁前紀)
 九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。(垂仁紀九十九年七月)
 六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穂宮。時年一百六歳。(景行紀六十年十一月)
 六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩。時年一百七歳。(成務紀六十年六月)
 六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚桜宮時年一百歳。(神功紀六十九年四月)
 摂政六十九年夏四月、皇太后崩。時年百歳。(応神前紀)
 卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歳。(応神紀四十一年二月)
 天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。(継体前紀)
 百済本紀云、高麗、以正月丙午、立中夫人子王。年八歳。(欽明紀七年是歳)
 令司馬達等女嶋、曰善信尼 年十一歳。(敏達紀十三年是歳)
 年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳、当于泊瀬部天皇五年十一月、天皇為大臣馬子宿禰殺。(推古前紀)
 五月、皇孫建王、年八歳薨。(斉明紀四年五月)
 百済僧常輝封卅戸。是僧寿百歳。(天武紀十四年十月)
 甲寅、常陸国貢中臣部若子。長尺六寸。其生年丙辰至於此歳、十六年也。(天智紀十年三月)

 斉明紀の建王の薨去年齢は、その示し方に殊更感がただよう。天智紀七年二月条の皇統譜の本文に、「其三曰建皇子。唖不語。」とある。唖者で言葉が喋れない。「坊や、いくつ?」と聞かれて答えられない。答えられなければわからない。わからないのに「皇孫建王、年八歳薨。」と書いてある。紀は歴史書だから「八歳」とあれば eight years old に決まっているだろうと考えるのは噺家として失格である。書いてあるのは噺である。百歳以上の天皇が大勢いるのは、噺家の口先三寸といえる。ここの「皇孫建王、年八歳薨。」も、「皇孫みまご建王たけるのみこみとし八歳やつにしてせましぬ。」と訓むべく書いてある。唖者だから答えられないのに、ヤツ(八歳)となっている。古代に八才が何かの区切りであったとは知られない。噺としてなら、建王の母親は天智紀にある「遠智娘」、「美濃津子娘」、「芽淳娘」という人であるが、それは、孝徳紀にあった「造媛みやつこひめ」と同一人物である。上に諱であると示した。その証拠を加えると、ミヤツコ(ヒメ)のミコ(御子、皇子)なのだから、差し引きヤツ(八歳)である。ミヤツコ(造)、ミコ(御子、皇子)のミ・コはともに甲類である。いわゆる精神年齢として、ヤツ(八歳)、今日の小学校二年生以上に育つことはないという噺である(注18)
 以上、「造媛」についての考証した。「遠智娘」、「美濃津子娘」、「茅渟娘」は同一人物であり、蘇我倉山田石川麻呂の娘「少女」のこと、父親思いで、「赤心」をもって生きた人であり、政略結婚をして相手の皇太子、中大兄の非道に苦しんだ。産んだ子の一人は持統天皇として即位している。今日、なお飛鳥時代から奈良時代に女帝が多かった理由が議論されるが、男であれ女であれ人間である。社会制度上どのように扱われようが、一人一人は一人の人間として生きている。紀に非業の死を遂げた造媛の記述があり、人物像が確かに描かれている。人間が生きるということを捨象して時系列に事件を並べて整理して、合理的に理解できて歴史がわかるということはなく、もしそれがあるのなら、もはや「人間の学としての歴史学」ではない。紀の編纂者の筆致から大切なことを学ぶべきだろう。

(注)
(注1)古事記の話に見られるように、先に話の顛末を言い、それはどのような事情からそうなったのか、という語り口が上代には多く行われている。歴史を時間軸に従って見るのではなく、事柄の解説のために前後して話すのである。それが話(咄・噺・譚)の醍醐味である。口頭でやりとりするのにそのほうがわかりやすいからで、無文字文化のなかに暮らした上代の人のものの考え方が窺われる。
(注2)液状のにがりを捨てずに土堝に入れて二度焼きすることでMgCl2をMgOへ変性させるのと、にがりを自然に落として塩とするのと、ほかにもいわゆる「藻塩」のヨード分のための色合いなどにより、種々の「塩」があったことは想定されている。和名抄にも、「塩 陶隠居に曰はく、塩に九種有り、白塩は人の常に食へるなりといふ。崔禹食経に云はく、石塩は一名に白塩、又、黒塩〈余廉反、之保しほ。日本紀私記に堅塩は岐多之きたしと云ふ〉有りといふ。」とある。古代における塩は大別すると二形態、シホ(塩)とキタシ(堅塩)があるようである。拙稿「角鹿の塩を呪詛忘れ」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b6c3951f1a663306d165015e34e9d389参照。
(注3)延喜式・斎宮式に、「凡そ忌詞、内七言は、仏を中子なかごひ、経を染紙そめがみと称ひ、塔を阿良良伎あららぎと称ひ、寺を瓦葺かわらふきと称ひ、僧を髪長かみながと称ひ、尼を女髪長めかみながと称ひ、いもい[斎食]を片膳かたじきと称ふ。死を奈保留なほる[治])と称ひ、病を夜須美やすみ[慰])と称ひ、なく塩垂しほたると称ひ、血を阿世あせ[汗])と称ひ、うつなづと称ひ、宍をくさひら[菜・きのこ])と称ひ、墓をつちくれと称ふ。」とある。
(注4)「姓」をカバネと読むのは、新羅で同様に社会的な地位の上下を示す際、「骨品」という語を用いていたことから、その「骨」に相当するヤマトコトバ、カバネ(骸骨)が当てられたと考えられている。ヤマトコトバのカバネについては、白川1995.に、「かばね〔屍・尸〕 もと骨をいう語であろう。やがて残骨となるものであるから、屍体をもいう。のち「しかばね」という。「ね」は「ほね」の「ね」であろう。」(241頁)とある。
(注5)なぜ横たえたまま首を斬り落とすのでは駄目なのか。おそらく、それではすでに死んでいることを認めることになるからであろう。起こし立てて生きていることにして斬首にしている。どの程度まで起こしたかについては、筆者は、原文に「宍」に通用する「完」字が使われることから、完全に、まるごと、立っている状態に持ち上げられたのではないかと考える。実際にそうしたかどうかではなく、紀の編纂者の意図としてそういう意味で書いている。医心方・巻二十二に、「録験方に云はく、妊娠にて体るるを治する方。生ける鯉魚りぎよ、長さ二尺なるもの一頭を、さながら・まろながら水二斗を用て煮て五升取り、魚を食ひ、汁を飲めといふ。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1064408/1/211を読み下した)」とある。鯉を一匹づけで煮込んでいる。それを、マロナガラ、サナガラと訓んでいる。とても興味深い訓である。起こし立てられたのは蘇我倉山田石川麻呂という人で、名前は麻呂である。ほかは氏に当たる。マロという語は、男の名に付けられることが多いが、「人」であることも指す。サナガラという訓は、今日的感覚では、まるで○○のようだ、の意へとも転じる。死んでしまっているからもはや人ではないのだが、まるで本物の人のようであると伝えたくて、このような通字の「完」字が用いられたのではないか。しかも、時の都は難波長柄豊碕宮、ナガラなのである。翻って考えるなら、本邦でのみ「完」字を「宍」字の通用させた契機、上代人の言語感性について考察の対象を広げられる糸口となり得る。本邦での通用発生のメカニズムが研究テーマに据えられる。後考を俟つ。
(注6)養老律・名例律に、「死罪二 〈絞斬二死 贖銅各二百斤〉」とある。
(注7)そもそもの最初の名とされる「造媛」という命名にしても、いつからそのように呼ばれているのか確かではない。皇極三年三月条では「少女」とのみ記されている。彼女は中大兄に嫁いだ。そこで奴婢同然に扱われていたとしたら、ミヤツコと綽名されて人々にわかりやすい。また、「物部二田造塩」という人物について、蘇我氏の一系統が石川氏であるように、物部氏の一系統の二田氏を表しているようである。それがフツタと呼ばれていたことは注目される。フツタとブツタ(仏陀)とは似て非なるものである。世の中は澄むと濁るの違いにて、真逆の性格を持つことがあるという洒落と理解できる。仏陀を大切にしていた石川麻呂は、謀反の疑いがかけられて軍を差し向けられた時、茅渟道を通って大和へ向かい、山田寺に入った。一族に正しい道を説き、仏殿を開けてご本尊に、「願はくは我、生生世世よよ君主きみを怨みじ」と誓っている。輪廻転生を思うほどに信仰心が篤い。その信仰に支えられて忠義にも篤い。すべての問題は道徳である。正しい道を求めており、石川麻呂が通った道は「茅渟道ちぬのみち」(大化五年三月)であった。その後を追った造媛(遠智女、美濃津子娘)が「或本」に「茅渟娘」とあるのは、moral のことと load のことがヤマトコトバに同じミチ(道)として用いられており、「道」字に「首」字が含まれていることを思って斬首の謂いを含めて考えた名なのであろう。
 一方のフツタ(二田)については、剣の名に、「韴霊ふつのみたま」(神武前紀戊午年六月)とあり、ものを切断する時の擬音語とされている。シホ(塩)については、血潮の意との関連を匂わせる点は上に指摘した。続日本紀に、「庭の中にして天地あめつち四方よもとを礼拝をがみ、共に塩汁しほしるすすり、ちかひて曰はく、……」(天平宝字元年七月)とあり、謀反を起こす時の盟約としている。血が流れて良いのだね、と約束しているようである。反対に、服従を誓う時には蝦夷の記事がある。「是に、綾糟あやかす等、懼然おぢかしこま恐懼かしこみて、乃ち泊瀬の中流かはなかおりゐて、三諸岳みもろのをかむかひて、水をすすりてちかひてまをさく、「やつこ蝦夷えみし、今より以後のち子子孫孫うみのこのやそつづき 古語ふること生児うみのこ八十綿連やそつづきと云ふ。いさぎよあきらけき心をて、天闕みかどつかへ奉らむ。……」(敏達紀十年閏二月)。真水で行っている。
(注8)「赤心」は、古訓にキヨキココロと訓まれている。岩崎本の朱書で少なくとも10世紀からそう訓まれている。字面は漢籍の引用である。荀子・王制に、「功名の就る所、亡を存し危を安んずるのしたがふ所は、必ず将に愉殷ゆいんなる赤心の所に於いてせんとするなり。(功名之所就、存亡安危之所墮、必将愉殷赤心之所。)」、後漢書・光武紀上に、「蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。(蕭王推赤心、置人腹中。)」とある。日本書紀編者は巧みで、血の色を思い出させる用字を採用している。
(注9)嬪の2人目である「姪娘」は、「桜井娘」とも名づけられている。名前について、「……曰遠智娘。」と「……名姪娘桜井娘。」というように書き分けられている。名づけ方の流儀、深謀の差を示すものではないか。「桜井娘」という名前の由来も検討しなければならないが、今は措く。
(注10)「隠流」については、当時の大宰府長官は菅原道真のような待遇ではなく、けっして左遷のようなものには当たらないとも論じられている。けれども、筑紫国は美濃国よりもずっと都から遠い。それどころか、シノビナガシとは、シノブ(忍・隠)ことを目途とする転勤である。問題を追及せずにこらえ、露わにして事立てることなく、ただただ事件の鎮静化をはかるものであった。言い換えれば、なかったことにしようというのである。当事者の蘇我日向が都からいなくなれば、事の真相、特に皇太子中大兄の暗愚さについては、証人喚問も参考人招致もされないから噂程度で済んで闇に葬られる。では、どうして真実がばれてしまって、「世人相謂之曰、是隠流乎。」という文言が日本書紀という公文書に残されているのか。期日が経ったから機密文書が公開されたのではなく、単に、中大兄(天智天皇)や斉明(皇極)天皇、天武・持統天皇などの世代までは、字が読めなかったからであろう。天武天皇のお達しで、本邦の正しい歴史を編纂するようにということで編まれているが、時の政権に不都合なことでも読まれる可能性はないのだから、とにかく完成させることを優先させてまとめられ、そのまま撰上される運びとなっている。その後の歴史を見ても、講書されることは古くからあり、テキスト批判が行われることが新しくあっても、政権批判の種と認められたことはない。読めていないのである。
(注11)国名のミノ(ミ・ノは甲類)には、紀には「美濃」、記では「美濃」、「三野」、万葉集では「美濃」(万1034題詞)、「三野」(万3242)と当てられている。
(注12)春秋左氏伝・文公十三年に、「子秦に人無しと謂ふ無し。(子無秦無人。)」、史記・夏本紀に、「是に於て帝尭、乃ち人を求め、更に舜を得。(於是帝尭乃求人、更得舜。)」とある。
(注13)実際には、続紀の記録に、高麗国使を含め、各国の国使に渡している。
(注14)早川2000.参照。
(注15)森2009.に、「[東海地方]海岸部で生産した堅塩を運び込まずに現地生産する理由としては、安価な粗塩を購入して現地生産した方が、堅塩の価格が有利であったり、流通ルートの問題などが想定される。」(17頁)とある。流通ルート的には、木曽川、長良川舟運の終港付近に美濃式製塩土器の大量出土遺跡があり、運べるのに一番効率的なところまで遡上しているとわかる。筆者は、塩を作るために大量の燃料材を必要とするため、森林資源のそばまで半製品を運んだとするのが合理的であろうと考える。
(注16)西宮1974.参照。
(注17)以前、建王の母親は造媛であるという考えに疑問を呈することは少なかった。大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは同一人物であると解されてきた。直木1985.、青木2003.を参照。ところが、笹川2016.は、遠智娘の子であるはずの建王の生れた年が死後になってしまうから大いに疑問であるという議論を起こしている。建王の祖母の斉明天皇が、不憫に思って亡くなった時に「不哀、傷慟極甚。詔群臣曰、萬歳千秋之後、要合葬於朕陵。」とあり、そして、歌を歌わせたり、同年十月に紀温湯へ行く途中でも「憶皇孫建王、愴爾悲泣。」してまた歌を歌わせている。それほどなのに同じ墓に入ったとされる資料は見当たらないと指摘する。そこから、日本書紀編者は、建王に関する実情を聴取できずに、適当に記事を按配したのではないかと推測している。
 日本書紀の編者は馬鹿ではない。官吏として仕事ができたかどうかということ以前に、人として真っ当であったと考える。自分の腹を痛めた子の発語に難があるなら溺愛するかもしれないが、他所に暮らしている息子のところに生れた孫に障害があるとわかった時、それはその子の母親がいけないとか、乳母のお乳の出が悪いとか、お付きの教育がなっていないとか、憤懣をぶちまけるのではないか。医心方・巻二十二には、「又[養生要集]云はく、婦の孕みて三月なるに、南に向きて小便すること得ざれ。児をして瘖瘂おしならしむといふ。」、「朱思簡食経に云はく、諸肉を食す勿れ。子をして瘖唖おふしにし、声无からしむといふ。」とある。このようなことは当時としても半分迷信であると思われていたであろうが、人々の心にあったことは否めない。その裏返しとして、過剰ともいえる六首もの駄作の歌が正史を標榜する日本書紀に記載され、諸々の非難を封じ込めようとしている。そして、そうすればするほどその正体がばれる仕掛けになっている。孫の死を本当に悲しんでいて、大挙して温泉旅行へくり出せるものだろうか。このお婆さんは対外戦争へと進軍した強者である。心臓に毛が生えている。
 歴史を考えることは人間を考えることである。倫理的にどうかもさることながら、心情的にあり得ることを視野から消し去ってきれいごとを真に受けていては困る。
 斉明天皇や中大兄は、孫(建王)や妻(造媛)の死を心底悲しんでいるようには記されていない。人は、体験した時は何が何だかわからず整理がつかない。心の整理がついて経験となり、それが自らの人生の中に位置づけられて物語となる。その過程には時間を要する。亡くなってすぐに物語化して歌にまとめられてしまうことほど空恐ろしいことはない。そこには良心のかけらもない。義父を死に追いやった自らの責めについて、「追生悔恥、哀歎難休」で済み、妻まで死に追いやったことについては、「皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。」とあって、その死を人から聞き知って歌を歌わせている。不仲で別居していたのであろうか。まるで、死者に面すると穢れるからと思って忌み避けているようである。造媛は忌みの人という主題に沿っている。
 斉明天皇の当該個所について載せる。蘇我倉山田石川麻呂が、こういう人でなしたちを相手にして抵抗する気になれず、かつての山背大兄王のようにふるまって山田寺で自決したのには無理からぬところがある。その子の造媛についてまでも、日本書紀の筆はきわめて好意的に運んでいる。共感を寄せる気持ちがあったのだろう。

 五月に、皇孫みまご建王たけるのみこみとし八歳やつにしてせましぬ。今城谷いまきのたにうへに、もがりてて収む。天皇すめらみこと、本より皇孫の有順みさをかなるを以て、器重ことにあがめたまふ。故、不忍哀あからしびしたまひ、いたまどひたまふこと極めてにへさなり。群臣まへつきみたちみことのりして曰はく、「万歳よろづとせ千秋ちあき)の後に、かならみさざきに合せはぶれ」とのたまふ。廼ち作歌うたよみして曰はく、
 今城いまきなる 小丘をむれが上に 雲だにも しるくし立たば 何か歎かむ 其一それひとつ(紀116)
 射ゆ鹿猪ししの つな川上かはへの 若草の 若くありきと はなくに 其二それふたつ(紀117)
 飛鳥川 みなぎらひつつ みづの 間も無くも 思ほゆるかも 其三それみつ(紀118)
天皇、時々に唱ひたまひて悲哭みねす。(斉明紀四年五月)
 冬十月の庚戌の朔甲子に、紀温湯きのゆいでます。天皇、皇孫建王をおもほしいでて、愴爾いた悲泣かなしびたまふ。乃ち口号くつうたして曰はく、
 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城のうちは 忘らゆましじ 其一(紀119)
 水門みなとの うしほのくだり うなくだり うしろもくれに 置きてか行かむ 其二(紀120)
 うつくしき 吾が若き子を 置きてか行かむ 其三(紀121)
秦大蔵造万里はたのおほくらのみやつこまろに詔して曰はく、「の歌を伝へて、世に忘れしむることなかれ」とのたまふ。(斉明紀四年十月)

(注18)今般の社会情勢を鑑みたとき、差別的な考えは捨てられるべきであるが、日本書紀の記述を研究するうえでのみ述べたものである。

(引用・参考文献)
青木2003. 青木和夫『白鳳・天平の時代』吉川弘文館、2003年。
笹川2016. 笹川尚紀『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
直木1985. 直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館、1985年。
西宮1974. 西宮一民「「堅塩」考─万葉集訓詁の道─」『萬葉』第83号、昭和49年2月。萬葉学会ホームページhttp://manyoug.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/manyo_083.pdf
早川2000. 早川庄八『日本古代の財政制度』名著刊行会、2000年。
森2009. 森泰通「古代美濃における堅塩の生産・流通・消費」木曽川研究協議会編『木曽川流域の自然と歴史─木曽川学論集─』同会発行、平成21年。

※本稿は、2017年7月稿を2020年9月に整理し、2023年10月にルビ化したものである。

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