古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─

2023年07月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
恭仁京遷都

 天平十二年(740)十月二十六日の東国巡行出発から十七年(745)五月十一日の平城京還都まで、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮を渡り遷った五年間は「彷徨五年」と呼ばれている。聖武天皇が何を意図して転々としていたのか、理解されるに至っていない。本稿では、天皇が平城京から旅立つにあたり、「朕縁意」と語った「所意」が何であったか、万葉集に詠まれた恭仁(久邇)京讃歌から解読する。それらの歌が歌として持つ抒情的側面により、天皇の「所意」を代弁していると考えるからである。
 恭仁宮遷都については、橘諸兄の相楽別業が近くにあり、その勢力圏へ誘導したのだとする説があり、聖武天皇の個人的な思いや藤原広嗣の乱による影響といった問題に帰して検討する向きが強い。ほかに、隋唐の複都制に倣って行われたとする説(注1)や、紫香楽の大仏建立の足がかりのためとする説(注2)、畿内豪族の都市集住や元正上皇からの政治的独立を目指したものではないかとする考え(注3)も呈されている。恭仁京、恭仁宮については、もう一つの課題として、その京域、宮域の解明が待たれ、考古学や歴史地理学のテーマに挙げられている。中国を範とした都城制の形に当てはまりにくいためもあって、発掘調査は芳しいとは言えない状況にある(注4)。いずれにせよ、聖武天皇の「所意」の解明がなければ、恭仁京遷都とは何であったかはわからない。

○関東行幸
 己卯(二十六日)に、大将軍だいしやうぐん大野おほのの朝臣あそみ東人あづまひとらにみことのりしてのたまはく、「われおもふる所有るに縁りて、今月このつきの末、しまら関東せきのひむかしかむ。其の時に非ずと雖も、事むこと能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず」とのたまふ。壬午(二十九日)、伊勢国に行幸みゆきしたまふ。(続紀・天平十二年(740)十月)
 藤原広嗣の乱が九州で起こっているけれど、思うところに従って関東へ赴くが、乱の平定に当たっている将軍は惑わされないでこれまでどおり任務を遂行してもらいたい、と言い残して旅立っている。従駕している官人は、藤原広嗣の乱と関係して「伊勢国」へと行幸しているかと思ってしまったらしい。万葉集の大伴家持の歌の題詞に記されている(注5)。後の行程を辿れば、内乱に当たって伊賀から美濃へ行ってその後還った、壬申の乱の時の天武天皇の真似をしていると知れる(注6)。敵がいるところは、近江朝の豪族たちがいた近江とではずいぶん違うが、聖武天皇の頭のなかで同等のことをしているという認識があったからそうしているのだろうと思われる。

○恭仁京の造営
 戊午(六日)に、不破ふはよりちて坂田郡さかたのこほり横川よかはに至りてとどまり宿る。是の日、右大臣うだいじんたちばなの宿禰すくね諸兄もろえ在前さきち、山背国やましろのくに相楽郡さがらかのこほり恭仁郷くにのさとを経略す。遷都に擬するを以ての故なり。(天平十二年(740)十二月)
 橘諸兄は自身の別業を拠点にして恭仁宮を整備し始めていたようである。「以遷都故也」という一文は、橘諸兄が恭仁郷を「経略」することについての説明である。「経略」という語は営み治めること、整備することと捉えられている(注7)。しかし、後文に「始作京都矣」とあるのと齟齬を来してしまう。「経略」は攻略すること、戦い奪って自国の領土とすることの意であろう。そこへ都を遷すことにしたとすれば、いかにも遷都したことにあたるからそうしたという意である。恭仁宮は平城宮と山一つ越えた至近距離にある。それまでも甕原離宮は営まれていて、平城遷都後の和銅六年に元明天皇が行幸して以来、元正天皇、聖武天皇も何度か訪れている。離宮へ骨休めに行っていたのを、その離宮を都にするということになれば人々に示しがつかない、ないしは、人々は察しがつかないから、格好をつけるために橘諸兄に先に行かせて征服したように見せかけている。壬申の乱に擬して、平城宮から一山越えて即日に恭仁宮へ行ったのではなく、はるばる関東を経由する長旅を経て辿り着いている。

○「大養徳恭仁大宮」命名
 十一月戊辰(二十一日)に、右大臣橘宿禰諸兄まをさく、「此間ここ朝廷みかどいかなる名号を以てか万代よろづよに伝へむ」とまをす。天皇、みことのりしてのたまはく、「なづけて大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみやとす」とのたまふ。(天平十三年(741)十一月)
 「大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみや」は、すでに発せられていた改字令の、「大倭国やまとのくにを改めて、大養徳国やまとのくにとす。」(天平九年(737)十二月二十七日)に則りつつ名づけている。本来、山城(山背)国に属するから、ヤマト(大養徳国)は唐や新羅と同列の国名、日本のことを指すとも考えられているが、続日本紀の用例として「大養徳・伊賀・伊勢・美濃・近江・山背等国」(天平十三年九月)などとあり、地方行政単位に使われている。「大養徳やまと」と書き記したのには、天平七年・九年の疫病流行や飢饉などは天子に責があると考え、大いに徳を養って天の望みに応えるべきであると思って改字したとされている。しかし、だからと言って、「大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみや」と号したことでどうしてそれが後世に確かに伝わる名となるのか、その肝要はわからない。おそらく、聖武天皇の「所意」と密接に関連する事柄なのだろう。

「久邇宮讃歌」

 正史たる続日本紀の記事だけからではその意の心まではわからないので、人の心を言葉にしたであろう万葉集を検討することで裏付けを取りたい。「久邇京讃歌」と呼ばれる歌は、大伴家持の一首(万1037)、田辺たなべの福麻呂さきまろの九首(万1050~1058)、境部さかひべの老麻呂おゆまろの二首(万3907~3908)の計十二首ある。題詞や左注から制作年代を測れば、境部老麻呂の歌が大伴家持の歌に先行している。内容としては、歌の数や字句の多さから田辺福麻呂の作が最も充実している。おそらく、田辺福麻呂、境部老麻呂、大伴家持の歌の順に詠まれたものであろう。田辺福麻呂の九首をもって定型化したと考えられる。そこで、まず田辺福麻呂の歌について、訓みの誤りを正して掲げる(注8)

  久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首 あはせて短歌
 あきつ神 わが皇祖すめろきの 天の下 八島のうちに 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山代やましろの 鹿背山かせやまに 宮柱 ふとき奉り 高知らす 布当ふたぎの宮は 川近み 瀬のぞ清き 山近み 鳥がとよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺をかへしじに いはほには 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いとたふと 大宮所おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)
 反歌二首
 三香みかの原 布当の野辺のへを 清みこそ 大宮所 一に云はく、「此処としめ刺し」 定めけらしも(万1051)
 山高く 川の瀬清し 百代ももよまで かむしみ行かむ 大宮所(万1052)
 わが皇祖すめろき 神のみことの 高知らす 布当ふたぎの宮は 百樹ももきなす 山はたかし 落ちたぎつ 瀬のも清し うぐひすの 来鳴く春へは いはほには 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は あまらふ 時雨しぐれをいたみ さつらふ 黄葉もみち散りつつ 八千年やちとせに れ付かしつつ 天の下 知らしめさむと 百代にも 変るましじき 大宮所(万1053)
  反歌五首
 泉川いづみがは 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮所 移ろひ行かめ(万1054)
 布当山 山並やまなみ見れば 百代にも 変るましじき 大宮所(万1055)
 娘子をとめらが 續麻うみをくといふ 鹿背かせの山 時し行ければ 都となりぬ(万1056)
 鹿背の山 木立こだちを茂み 朝去らず 来鳴きとよもす 鶯のこゑ(万1057)
 狛山こまやまに 鳴く霍公鳥ほととぎす 泉川 渡りを遠み 此処ここに通はず 一に云はく、「渡り遠みか 通はずあるらむ」(万1058)
  (右の二十一首は、田辺たなべの福麻呂さきまろの歌集の中に出づ。(万1067左注))
  讃久迩新京謌二首并短歌
 明津神吾皇之天下八嶋之中尓國者霜多雖有里者霜澤尓雖有山並之宜國跡川次之立合郷跡山代乃鹿脊山際尓宮柱太敷奉高知為布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響尓左男鹿者妻呼令響春去者岡邊裳繁尓巖者花開乎呼理痛𪫧怜布當乃原甚貴大宮處諾己曽吾大王者君之随所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜
  反謌二首
 三日原布當乃野邊清見社大宮處一云此跡標刺定異等霜
 山高来川乃湍清石百世左右神之味将徃大宮所
 吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之鶯乃来鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壮鹿乃妻呼秋者天霧合之具礼乎疾狭丹頰歴黄葉散乍八千年尓安礼衝之乍天下所知食跡百代尓母不可易大宮處
  反謌五首
 泉川徃瀬乃水之絶者許曽大宮地遷徃目
 布當山々並見者百代尓毛不可易大宮處
 𡢳嬬等之續麻繫云鹿脊之山時之徃者京師跡成宿
 鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響為鶯之音
 狛山尓鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間尓不通一云渡遠哉不通有武
 (右廿一首田邊福麿之謌集中出也)

 恭仁京を置いたあたりに「布当ふたぎ」という地名があり、「布当ふたぎの原」、「布当ふたぎの野辺」、「布当ふたぎの宮」、「布当ふたぎ山」と呼んでいる。そのフタギという音から、それは何かしら「ふたぐ」ところとして感じられたのであろう。地名の語源ではなく地名から得られた語感から、そういうところであったに違いないと想像しているのである。上代の言霊信仰下においては、コト(言)=コト(事)であるとされ、名は体を表し、名に負えば名を体現する存在であると思うように志向されていた。
 「ふたぐ」とはフタ(蓋)をして外との接触を断つのが原義である。自動詞は「ふたがる」で、ふさがること、いっぱいになることを表す。

 亦、山にしき神有り。のらかだましき鬼有り。ちまたさいぎみちふたさはに人を苦びしむ。(景行紀四十年七月)

 いっぱいになることの類義語に、タタフ(讃)という語があり、それがために題詞に「讃」という字で表されている。後述する。
 そんな「ふたぐ」ところとして人々の頭をよぎることには、言い伝えに伝えられて人々が共通の認識として抱いているアマテラスの石屋いはやごもり(石窟いはやごもり)のことがある。その近くの「あめやす河原かはら」(記上)・「天安あまのやすの河辺かはら」(神代紀第七段本文)に神々は参集してにぎわい、互いに知恵を出しあってアマテラスに出てきてもらおうと画策している。
 第一長歌に「あなおもしろ〔痛𪫧怜〕」とある。石屋隠りの時、いろいろな神がさまざまなパフォーマンスをし、神々のための余興を兼ねてアマテラスに出てきてもらおうとした。最終的にはアメノウズメがヌードダンスを披露してとてもおもしろく、一同どっと笑い、アマテラスは何ごとかと石屋の戸を少し開けて覗き見た。そのとき、タヂカラヲが引っ張り出して世界は明るさを取り戻している。この話は当時の誰もが心得ていたものであろう。
 「八島のうちに〔八嶋之中尓〕」というのも古色蒼然としている。オホヤシマクニ(「大八島国」(記上)、「大八洲国」(神代紀第四段本文))という言い方は、イザナキ・イザナミによる国生みでの表現にあらわれている。そしてまた、たくさんの洲が突き出る形でシマ(島)になっていることに通じるものである。その場合、ヤスノカハラと呼ばれ、八洲の河原のこと、八百万の神々はそれぞれの洲にいて、互いに取っ組み合いの喧嘩をすることなく済んだ「安の河原」のことであった(注9)
 「宮柱 ふとき奉り〔宮柱太敷奉〕」という言い方には疑問が呈されている。通常、「宮柱 ふときまして」のように尊敬の意を表わすものである。ところが、ここでは謙譲の意になっている(注10)。これは、「布当の宮」なるものが古くからあったとすることによる。すなわち、神社の社としてのミヤ(御屋・宮)である。地域住民の奉仕によって造られる。神々が参集したヤスノカハラにおいても同じことが行われたと想像できるから、フタギの宮は奉仕によって造られたとされたのである。そんな事情を抱えたところへこのたび新たに遷都することとなり、神社であったフタギの宮は天皇の宮城へ意味転化した。
 「聞かしたまひて〔所聞賜而〕」とあるところ、「遷都の主宰者としての天皇の姿を著しく後退させている。」(吉井1984.284頁)と思われている。また、原文に「君之随」とある個所は、「君ながら」以外にも、「君がまに」と訓む説がある(注11)。これらの考えは歌の役割について見誤っている。筆者は、「君之随」という書き方からして、「君しながら」と訓むことが期待されていると考える。「神ながら」、「皇子ながら」、「山ながら」といった例が、~の本性によって、の意を表わすところ、助詞のシを挟むことで遠慮の気持ちを入れている。絶対君主に対し、下僚の分際で君主の本性によってなどと言えるものではない。もしや君主の御本性によってのことでしょうか、といった控え目な言い回しで歌っている。誰の意見を聞いたのかは書いてないのでわからず、そしてまた、そのようなことを歌に歌う必要もない。これらの歌は、聴衆に訴えかけて皆の心がやすまるように機能したものと思われる。そういう理由でこの地へ遷都することになったのだとわかり、納得している。そして不協和音は解消した。フタギ(布当)の宮には深い謂われがあり、なるほどそれだから大宮所にするのにもってこいであるとお認めになったのだろうと述べている。これまで見逃されてきたが、きちんと歌に歌われていて、それがこの歌の要点であり、ひいては恭仁京遷都を決意した聖武天皇の「所意」そのものであったろう。
 その感想を、「さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも〔刺竹乃大宮此跡定異等霜〕」と述べている。「さす竹の」という枕詞については、「君」、「大宮」、「皇子」、「舎人とねりをとこ」、「節間ごもる」にかかるとされるものの、語義、かかり方とも不明とされている。この例のように「大宮」にかかるのは、宮を建設する場所に標識しめとして地面に竹杭を刺していたからでもあろうし、竹はヨ(乙類)というふしと節の間の空洞部分がつながっていく形で伸びていくものであり、まるで、ヨ(代、ヨは乙類)がつづくこと、天皇の御代が代々つづくことをよく表していると捉えられたからでもあろう(注12)。ために、枕詞「さす竹の」は、「君」「大宮」「皇子」などにかかるとされて使われたと考えることができる。
 フタギの宮の表現では、川→山、秋→春というように、一般的な表現とは順序が異なっている。作歌時期や場所からそうなったとする説(注13)もあるが、アマテラスの石屋隠りのことを想起すれば、「昼夜ひるよるあひかはるわきも知らず。」(神代紀第七段本文)とあるように、順序がわからなくなったことを思い出させる効果を狙ったものであろう。
 つまり、この万1050番歌は「布当の宮」の由来を語ったもので、新しく遷都された都の様子など詠ってはいないのである。反歌の二首も都に定めたことについてしか語っていない。天皇が都をこの地に定められたのは、そういう由緒によるのだと、都を褒めているのではなく都を讃えているのである。ホムとタタフの違いは、対象をそのまま賛美することと、その対象に新しい名称を付けたりして言葉でいっぱいにあふれるばかりに称賛することの違いである(注14)。ここで歌っているのはフタギという名前にまつわる逸話である。そしてそこは「久邇新京」であると名づけられてたたえられている。事情は続日本紀に明記されている。

 十一月戊辰(二十一日)に、右大臣橘宿禰諸兄まをさく、「此間ここ朝廷みかどいかなる名号を以てか万代よろづよに伝へむ」とまをす。天皇、みことのりしてのたまはく、「なづけて大養徳やまとの恭仁大宮くにのおほみやとす」とのたまふ。(天平十三年(741)十一月、再掲)

 福麻呂の歌は「久邇新京」のありさまをそのままに歌っているのではなく、「久邇」に新たに造る都には由緒があってそこを都に定めるにふさわしく、百代までもつづくであろう場所なのだと歌っている。歌の文句も「新京」の、例えば建物が軒を連ねているとか、市は人でごった返しているとかではなく、「大宮所」のこと、その場所の風光明媚なことばかり歌っている。都にされてもされなくても変わらない風景で、どちらかといえば開発などにより変わってしまうかもしれない風景である。古の「ふたぎ」の宮を歌いたいためだからで、その語義がいっぱいになるようにその名にまつわって讃えている。そこは国の始まりからしてミヤとしてあったところであり、「大養徳やまとの恭仁くにの大宮おほみや」とは「やまとの国の大宮」という意である。したがって、題詞にある「讃」はタタフと訓まれて正しい。
 第一反歌の万1051番歌では、広大な「三香みかのはら」のうち、「布当ふたぎ野辺のへ」の部分が清らかだから「大宮所」として定めたらしいよ、と言っている。「清見社」とある原文からは、清らかであることばかりか、キヨミ社という神社があるかのように思わされる。すでにミヤがあった、ないしはその意味を内包することを予感させる筆記である。「布当の野辺」が実際問題として清らかだという言い分は、自然地理においてどういうことなのかわからない。けれども、言葉の上では、言い伝えに伝えられているアマテラスの石屋隠りにまつわることを物語っていて明らかなことになっている。最終的に神々は、穢れの対象であるスサノヲのヒゲと手足の爪を切り、お祓いをして、「神やらひやらひ」ている。だから清らかなところである。当時の人たちがフタギという名の地に感じていた意味合いである。
 「三香みかの原」が「布当ふたぎ野辺のへ」に被っている。このかかり方は素直なものである。ミカとは甕(𤭖)の意である。「……𤭖みかたかり 𤭖みかはらならべて しるにもかひにも称辞たたへごとまつらむ。」(延喜式・祝詞・祈年祭)とあり、ミカノハラとは甕の中に酒などを入れて醸したり貯えたりすることを表した言葉である。当然、蓋をしてフタグことをしておく。
 第二反歌の万1052番歌では、清らかさについての後付けの説明をする歌になっている。久邇京というのだからクニ(国)のありさま、山があり川が流れていることが要件となる。そこはかつてお祓いをして清らかにしていたところである。そんな観念を支える自然環境は、山が高くて川が流れれば瀬となって速く流れるところである。実際に渓谷があって急流となっていたかどうかは別問題である。伝承されてきたスサノヲ追放の舞台として、清らかなところがイメージされている。「百代まで 神しみ行かむ 大宮所」とあるのは、伝承されてきた観念の世界において神々が行ってきた清らかなところは今日まで長く記憶されて保たれてきたように、現実の世界でもその清らかなところは今後百代経ってもそのまま続くであろうと言っており、そこはすなわち、観念世界でも現実世界でも「大宮所」であると言えるのである。
 長歌と反歌の関係としてふさわしく、互いに相補い合って一つのまとまりを示している。反歌の二首に「大宮所」がくり返されているのは、この歌群が、「大宮」の歌だからである。第一反歌の四句目に「一に云はく、「此処ここしめし」」とあるのは、長歌の「さす竹の」を承けた作風である。「大宮」歌としてのわかりやすさを追求すれば、本歌のようになるであろう。

第二長歌と反歌五首

 第二長歌以降も「大宮」歌の性格は変わらない。ただ、もう少し具体的な地勢を述べようとしている。もちろん、景を叙すつもりはなく、定型的なもの言いを当てはめているだけである。なお、長歌の「八千年尓安礼衝之乍」は、「八千年に 生れ付かしつつ」以外に、「八千に 生れ継がしつつ」と訓む説もあるものの、「衝」をツグと濁音化することには無理がある。
 反歌の一首目、万1054番歌は、「起りえない自然の変化を条件として永久不変を予祝した表現。」(吉井1984.290頁)とされている。なぜ水が絶えることが起こりえないかといえば、川の名が「泉川」だからである。イヅミとはイヅ(出)+ミ(水)の意で、イヅミガハと呼んでいる限りにおいて水は出るものと考えられていた。コト(言)=コト(事)であるとする言霊信仰の下に生きていた。言語遊戯(Sprachspiel)こそが万葉歌の真骨頂である。
 歌を歌うにあたっては、聞く人の興趣をそそるように言葉づかいに工夫が施された。言葉が空中を漂っている間、コト(言)はコト(事)であり、言葉遊びが遊ばれたのである。そうしなければ聞いて覚えるようなことはなく、誰も覚えていない歌は元からなかったものとして扱われたことであろう。  
 反歌の二首目、万1055番歌も同様である。「前歌の「川」に対し、「山」の形容を根拠に、久邇京の無窮を予祝している。」(伊藤1996.514頁)とされている。なぜそう言えるかといえば、布当山とはフタギ(塞)をモットーとする山であり、それが「山並」をもって連なっているところから考えると、まったくもって塞ぎの状態は完璧で盤石だからである。実際の地形上で反乱軍が攻めて来られないということではなく、言葉の上でそうだと言っているだけである。蓋をされてタイムカプセルとなれば百代までも変わることはないということである(注15)
 反歌の三首目、万1056番歌の四句目、「時之往者」は、「時の行ければ」と訓む説(注16)もあるが、「時し行ければ」と訓む説が正しい。助詞シは、「…し…ば」の形をとることがとても多い。岩波古語辞典は、「これによれば、「し」は確定的・積極的な肯定的判断を強調する語ではない。むしろ基本的には、不確実・不明であるとする話し手の判断を表明する語と考えられる。従って、話し手の遠慮・卑下・謙退の気持を表わすところがあり、話し手が判断をきめつけずに、ゆるくやわらげて、婉曲に控え目に述べる態度を表明する語と思われる。」(1494頁)とし、用例に、「わが背子は 物な思ほし 事しあらば(事件デモアッタラ) 火にも水にも 吾無けなくに」(万506)をあげている。
 時が移ろっていまや皇城が完成している、というように、「時」を積極的、作為的に主張しているのではなく、もしや時間などが経過したためか皇城となっている、というほどの控え目な言い方をしているのである。
 三句目までの序は実に的確である。麻を繊維として利用できるようになるためには、植物のアサを成育させ、刈り取ってきて束にして煮てから皮を剥ぎ、細く割いたものをつないで(「續む」)長いものにし、苧桶をけにて湿らせたものをつむなどによって撚りをかけて紡軸に巻き取り、それをかせに巻き上げる。そのまま放っておけば、乾燥していくと同時に撚りが安定して糸はできあがる。桛から外すと輪状にまとまっていてそれをかせといい、製品として次の工程(染めや織り)へと受け継がれる。續麻うみをを桛に懸けることは、とても手間と時間のかかる糸づくりの最後の段階である。苧續みや撚りかけほどに難しいものではないし、桛に巻き上げておけば後は自然乾燥によって糸となる。
 だから、「時し行ければ〔時之徃者〕」へとつづいている。助詞シの持つ控え目表現はここに生きてくる。時間さえ経過すれば都となるとの考えは、桛に巻き上げられたら糸が出来上がるものだという錯覚に等しい。その前段階として、栽培して刈り取り、蒸したり煮たりして皮を剥ぎ、績んでから撚りをかけていくという苦労に苦労を重ねる作業がある。都となったのには、そのような、目にすることのない前段階が控えていて、そのとき目の前でくり広げられる土木建設工事ばかりで都は完成するものではないと言っている。すなわち、フタギの宮の伝承が控えているからこそそこは都となるのだと、当時の人にとっての正論を述べている。「都と成りぬ」の助詞トは資格を表す。造成して都(のよう)にすることはできようが、都と(してふさわしく)することはできない。
 この「時」を意識した表現は、反歌の五首目に通じている。
 万1058番歌に霍公鳥が出ている。ホトトギスという語は、ほとんど時は過ぎる、の意にかけて用いられることがある(注17)。時間経過を歌う発想は、万1056番歌に予行演習されていた。時間が経過するのは当たり前のことである。だが、第一長歌で、「大宮此処と定め」の主語は現天皇の聖武である。時間が経てばどこでも皇城となるということではなく、聖武天皇が決めたから、今のその時をもって成っている。歌ではその理由について歌っている。フタギという地名の音にかこつけて、フタグ(塞)ところ、天の石屋の言い伝えによってそこは神の参集するところ、ためにミヤが造られた、だからここは新しく都とするのにふさわしいのだといい、天皇もそういうことでお決めになられたのだろうと、「らしも」により推量している。続紀・天平十三年の「大養徳やまとの恭仁くにの大宮おほみや」命名譚は、背後にある思想─古代的意味合いにおいて─を伴って人々に、少なくとも福麻呂のほか多くの宮廷社会の人に知れわたっていたということである。歌は歌い手と聞き手がともに歌意を納得、共有することで伝えられる。天皇による命名譚も、天皇が独り勝手にネーミングして広まらせたということではなく、だってそういうことだろうと、皆を納得させる力を持っていたから看過されることなく定着したのだった。
 ホトトギスという語から思い起こさせる、ほとんど時は過ぎること、最終段階だから必然だというイメージで決められてしまうことは、この歌群の全体的なモチーフにそぐわない。だから、ホトトギスは、声はすれど姿は見えず、ということにしておき、時間は経過していて期は熟していたが、自動的にそうなるのではなく、よくよく事情を悟られた聖武天皇が最終決断を下されてここが都となっているのだということにしている。そしてまた、ホトトギスが通って来てしまうと、ほとんど時は過ぎることが重なって、時間がどんどん進んで行って止まらないから、「百代にも 変るましじき」(万1053・1055)と言えなくなってしまう。そこで、霍公鳥は渡って来ないことになっている(注18)
 反歌の四首目、万1057番歌に「鹿背の山」が出ているのは前の歌を引き継ぐもので、「鶯」が出ているのは長歌にあるのを受けているとされている。あるいは、後の歌に出てくる「霍公鳥」に托卵を受ける鳥であると知られていたことも一因かもしれない。もっと積極的にそこに置かれた要因は、歌群を見渡してはじめてわかる。
 長歌と反歌は一つの歌意を相補い合って表し、全体像を織りなしてあやなすものである。万1056~1058番歌は後から付け加えられたのではないかとも考えられている(注19)が、後付けの短歌を「反歌」とすることはないであろう(注20)。すでに見てきたように長歌はフタギの宮について語っている。石屋隠りの舞台となった天の安の川原に設けられたに違いないミヤのことである。籠り隠れていたアマテラスが再び現れて世界は明るくなった。そういう位置づけとして「布当の宮」=「久邇新京」は見定められている。そのことと対応するように、地理的配置としては、大極殿から東に「布当山」はあり、フタギ(塞)が取れて、すなわち、石屋の戸が開いて朝日が降りそそぐと見てとっている。そして、南に「鹿背の山」があり、木立が茂り、朝ごとにそこからウグイスが飛来して鳴くとしている。フタギが取れて日が「鹿背の山」に差していくことを言いたいから、毎朝のことでなければならない。対して「狛山」は西に当たる。一日の単位で考えるなら、ほとんど時は過ぎる時間帯に太陽は西にある。コマヤマという名は、高麗こまのことを思い起こさせ、倭国から見て海のかなたの西方に位置している。このように東→南→西のそれぞれ水を隔てた山を順に見渡していっている。反歌の流れとしても山の配置はそのようになっている(注21)。「布当の宮」=「久邇新京」から見回している。ぐるっと首を回している。言語遊戯の音遊びにおいては、クビ(ビは甲類)を意識させる鳥に登場願いたい。だから、ウグヒス(ヒは甲類)というクビの廻れるような名の鳥が来て鳴いて大騒ぎをしている歌が歌われている。「響もす」ほどだから大極殿にいても「声」は聞こえてくる。大極殿で何をしていたかは不明であるが、儀式ばっているなら正装で臨んでいることであろう。くびのしつらえが特徴的な、はうを御召しになっているに違いあるまい。臣下も狩衣などであったろう。和名抄に、「衿 釈名に云はく、衿〈音は領、古呂毛乃久⽐ころものくび〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風寒きを禁禦する所以なりといふ。」とある。
 天皇は日の御子であり、アマテラスの末裔なのだから東→南→西の順に見渡して行くことは正しいことである。反歌は五首もあるが、みな従来の「反歌」の定義にかなうものである。
足利1973.41頁に加筆
近年の恭仁京復元案(左:山田邦和案、山田2019.130頁、右:筒井崇史案、筒井2021.274頁)
 以上が田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」の全貌である。ひたすらヤマトコトバにもとづいて歌われている。現代的視点から歌に発展性があるかないかという評価など、田辺福麻呂は意に介しはしない。万葉集の歌の良し悪しは、その歌が歌われたとき、その場において、いかに受けたかにかかっている。大養徳やまとの恭仁くにの大宮おほみやにおいて、よく心得ていて整った歌が歌われていた。

その他の恭仁京讃歌

 「久邇宮讃歌」は万葉集に他に三首ある。

  三香原みかのはらあらたしき都をたたふる歌一首 并せて短歌
 山背やましろの 久邇くにの都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉もみちばにほひ ばせる いづみの川の かみつ瀬に 打橋うちはし渡し 淀瀬よどせには 浮橋うきはし渡し ありがよひ つかへまつらむ 万代よろづよまでに(万3907)
 たたなめて 泉の川の 水脈みを絶えず 仕へまつらむ 大宮所(万3908)
  右は、十三年二月に、右馬頭みぎのうまのかみ境部さかひべの宿禰すくね老麻呂おゆまろの作なり。
  讃三香原新都謌一首并短歌
 山背乃久迩能美夜古波春佐礼播花咲乎々理秋左礼婆黄葉尓保比於婆勢流泉河乃可美都瀬尓宇知橋和多之余登瀬尓波宇枳橋和多之安里我欲比都加倍麻都良武万代麻弖尓
 楯並而伊豆美乃河波乃水緒多要受都可倍麻都良牟大宮所
  右十三年二月右馬頭境部宿祢老麿作也

  十五年癸未みづのとひつじの秋八月十六日に、内舎人うどねり大伴宿禰家持の、久邇京くにのみやこたたへて作る歌一首
 今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし(万1037)
  十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久迩京作謌一首
 今造久尓乃王都者山河之清見者宇倍所知良之

 やはり自然環境を歌っていて、新しく建設された宮都のことは歌っていない(注22)。これらの歌は、制作年次が左注や題詞に記されている。境部老麻呂の歌は、天平十三年二月の作だから前年十二月十五日の恭仁宮遷都から二か月ばかりしか経っていない。歌に、「春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉もみちばにほひ」とあるが、実経験を歌にしたものではない。「久邇」(恭仁)に都したのは、神々が参集したところ、水を堰き止めて塞ぐことをしたフタギの宮地、ないしは、その故地であると認められたからである。すべての神さまが集まっているのだから、春に花を咲かせる神もいれば秋に木の葉を黄葉させる神もいたに違いあるまい。当時の人はヤマトコトバで考えたのだから、ヤマトコトバで考究することで彼らの観念に近づくことができる。
 「三香原」を周回するように「泉の川」、今日の木津川が流れている。それを「帯ばせる」と形容している(注23)。川の流路が変化して、台地上に設けられた新都を横切ったりする恐れはなかったものと考えられる。ミカノハラという言葉自体、そのことを表わしている。甕の腹はでっぷりと太っていて侵食することはないと受け取れる。水は周りを流れるか、中に貯えられている。すなわち、水に浸かることはなく、また、地下水の豊富さが窺われる土地柄ということになる。実際そうであったろうけれど、必ずしも実状を反映している必要はない。すべては言葉遊びである。
 この歌は遷都間もなく歌われている。従来からの国の境界に従って「山背やましろの 久邇の都」と歌い出している。「三香原」は古代の行政区分においてヤマシロ(山背、山城)にある。山のシロ(代)、代わりのものとして「三香原」はある。山の代わりとしてあるから、川はその周りをまるで帯になるようにぐるりとめぐっていると言えるわけである。どんなに「水脈みを」があろうと「久邇の都」に洪水は及ばない。
 およそ九か月後、天平十三年十一月になって「大養徳やまとの恭仁くにの大宮おほみや」と名づけられている。天平九年十二月に、ヤマト(大和)を「大養徳」と好字に改めている。大いなる徳を養うという意味からの用字にした。大いなる徳を養う人物は聖武天皇自身である。聖武天皇は宣命に自らの徳の至らなさを嘆いているから、大いなる徳を養おうと実践していたようである。天皇がいるところは宮であり、わけても聖武自身がいるところは「大養徳」の国でなければならない。つまり、「近江大津宮」などと地方名を冠して宮を名づけるのと同じように「山背やましろ久邇宮くにのみや」などと呼ばれることを良しとしていないのである。
 橘諸兄と聖武天皇の、「此間朝廷、以何名号、伝於万代」→「号為大養徳恭仁大宮也」という問答は、根拠も結果も確かなものであった。ヤマトのクニのオホミヤと一般名称化してしまえば、万代まで伝えられるに決まっている。恭仁宮は、天皇が大いなる徳を養うことで、大いなる徳をもって人民を養う、そんな国の首都、大いなる宮なのである。やがて紫香楽に大仏を建立しようとしたのも、「大養徳」の実践であったようである。
 大伴家持の歌は、天平十五年八月の作である。遷都して三年近く経っているが、まだ「今造る」といい、「山川」の有様を歌っている。安の河原に当たるところが国都であるのはふさわしい、すばらしいと、言葉遊びに遊んでいる。「今」とは「神代」の対概念なのである。

おわりに

 古代史研究においては、遷る都の様子を含めて、文献史学と考古学を車の両輪として理解が進んでいると思われている。平城京、平城宮のように、八世紀に都が置かれてその後捨てられ、発掘すると木簡などの資料も多数あらわになり、続日本紀や正倉院文書などの資料に書いてあることと整合するところが多く見られ、おもしろいと思われている。しかし、仮に我々が認知的な安定に至ることをおもしろいことだと思っているとしたら、奈良時代から何かを学んでいるのではなく、現代を奈良時代に投影しているだけなのではなかろうか。歴史学自身が端から持つ限界のようである。
 本稿では、恭仁京遷都について、当事者である聖武天皇の「所意」に迫ろうとした。万葉集の歌から間接的に知り得たに過ぎないが、当時の人々が頭の中で考えていたことは、現代におもしろいと思われていることとはおよそ異なる。言い伝えられていた伝承の世界を現実に反映させようとしていたのであった。そうでなくてどうして宮都を歌うのに自然環境ばかり述べ立てるのだろうか。歴史学では、首都を置くことの意義が説かれており、それはおおむね妥当と思われる。すなわち、田舎と都会は違うのだと。ところが、遷都したての華々しくあって然るべき久邇京讃歌に人工物はとり上げられず、自然のさまばかりを気にかけている。この矛盾の原因は、古代に生きていた人の頭の中にある。彼らが日々何を思いながら生きていたか、そのことを知る以上にするべき研究など本当のところありはしない。

(注)
(注1)瀧川1967.。
(注2)瀧浪1991.。
(注3)仁藤2011.。
(注4)京都府教育委員会により発掘調査が続けられている。
(注5)次のとおりである。

  十二年庚辰の冬十月に、大宰少弐だざいのせうに藤原朝臣広嗣ひろつぐの謀反していくさおこせるに依りて、伊勢国に幸す時、河口行宮かはぐちのかりみやにして内舎人うどねり大伴宿祢家持の作る歌一首
 河口の 野辺のへいほりて 夜のれば 妹が手本たもとし 思ほゆるかも(万1029)
  十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作謌一首
 河口之野邊尓廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨

(注6)瀧浪1991.。
(注7)新大系本続日本紀に「経も略も営み治める意。整備すること。」(382頁)と注されている。
(注8)また、本稿では、原文にかかわらず、歌の訓読文においてはオホキミは「大君」、スメロキは「皇祖」と記した。拙稿「田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6061c8a0f4f99107e95f4892bf48a868参照。
(注9)神代の説話(神話)の舞台は、同じようなところを堂々巡りしている。設定に一貫性を持っていたということである。
(注10)塩沢2010.に、「太敷き奉り」が「天人感応」の理念に従うとする説がある。塩沢氏は、「君之随所聞賜而」について、臣下の進言を聞き入れて都とを定めるという叙述は文選の西都賦、東都賦、西京賦に登場しているとし、さらに、「久邇宮讃歌」は「六合」の考え方を取り入れて、シンメトリックな調和の世界を歌ったものではないかとも述べている。筆者はとらない。
(注11)諸説については下田2005.参照。「君がまに」は「君がまにまに」の約であるという。多くの注釈書で、その「君」は橘諸兄のことを指すとしている。「わご大君は 君がまに 聞かしたまひて」で、聖武天皇は大君であられるままに臣下の橘諸兄の言葉をお聞きあそばして、の意であるといい、歴史的事実として聖武天皇が橘諸兄の言うことを聞き入れて遷都の地を決定したことを物語っていると説明している。しかし、歌のなかで、オホキミは天皇、キミは大臣というように立て続けに表示することがあるのか疑問である。歌が散文的説明に堕していることにならないか。
(注12)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注13)清水1980.146頁。
(注14)ホムとタタフの微妙な使い分けは用例に確認できる。

 因りて蜻蛉あきづめて、此のところなづけて蜻蛉野あきづのとす。(雄略紀四年八月)
 時に、勅して日臣命ひのおみのみことめてのたまはく、「いましいさをしさありてまたいさみあり。また能くみちびきいさをし有り。是を以て、汝が名を改めて道臣みちのおみとす」とのたまふ。(神武前紀戊午年六月)
 時に多遅たぢの花、井の中に有り。因りて太子ひつぎのみこみなとす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。かれ多遅比たぢひの瑞歯別みつはわけの天皇すめらみことたたまをす。(反正前紀)
 故、其の名をたたへて、上宮かみつみやの厩戸うまやとの豊聡耳とよとみみの太子ひつぎのみこと謂す。(推古紀元年)

 第1例のホムはアキヅをほめている。アキヅノをほめているのではない。第2例はヒノオミをほめている。改名してミチノオミとしたとき、ミチノオミとたたえたということになる。第3・4例は、その人たちに長い名前をつけてたたえている。対象に名を充満させることがタタフの意である。雑駁に言えば、よしよしと相手を認めるのがホムであり、新たに名前をつけて讃美するのがタタフである。
 万葉集で「讃」字が使われるのは、地名(「讃岐」)の例を除き、すでにあげた「久邇宮讃歌」とされる3歌群の題詞(万1050~、1037・3907~3908)に偏って現れている。天平十三年十一月記事にあるように恭仁京と名づけたたえたことの反映として万葉集でもそう使われている。それ以外では、万338~350番歌の前にある題詞のみである。

  大宰帥大伴卿讃酒歌十三首

 「大宰帥大伴卿の酒をたたふる歌十三首」と訓むのが正しいであろう。酒を前にして、よしよし、いい子だ、とほめているのではなく、十三首もの歌を作り、言葉を弄して酒のことをほめそやしているのだからタタフの意に当たる。そのうちの一首では、「酒の名を ひじりおほせし いにしへの 大き聖の ことのよろしさ」(万339)と名づけてもいる。なお、「讃」字をタタフと訓むことに今日さして抵抗を感じないが、言葉をもって讃頌する意味でタタフと使われる例が少なかったのか、用例は多くない。名義抄では「頌」にのみタタフという訓がある。
(注15)評者に「予祝」と言われるが、時間的に今後ともそうあることをあらかじめ祝うという考えから歌に詠まれているのではない。コト(言)=コト(事)であるとすると、言葉としてそうであることはこれからもそうであろうから、事柄としてもそうであろうと言っている。期待を込めて願っているのではなく、論理的にそういうことになる、Q.E.D.と述べている。
(注16)上野2005.は、「時の往ければ」と訓み、この歌は「序に続く部分との大きな落差がおもしろいのである。そんな辺鄙な山でも、時が過ぎれば都になったというのである。」(236頁)としているが、どこでも都というわけではない。
(注17)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c341f72de9b0f0f693a7f885e4fd3a09ほか参照。ホトトギスを「時鳥」と記すこととの関連は不明。
(注18)芳賀1986.に、「泉川の川幅の広さを述べ、その大きな景をも都の中に取りこんだ天皇の偉大さに対する讃美の念を余情とするものだろう。」(188頁)とある。このような解釈では、第五反歌は反歌とは見なされないだろう。
(注19)山崎1986.に、「新都の南西部の鹿背山、西部の狛山の愛すべき山容が泉川をはさんで相対し、川の流れも鳥の声も共に澄みとほる風趣を、福麻呂はさながらに新都への讃歌として感じたからであらう。」(251頁)として、捨てがたい風趣を三首の反歌として付け加えたのだとしている。伊藤1996.は、第五反歌は「残念なことに通って来ないという歌になってしまって、讃美にならない」けれども、「ここ鹿背山で一緒に鳴いてくれればよいのにと言った」(515頁)とするなら一応は通じるとしている。遠藤2004.は、「第三~第五反歌は、讃美の対象を京域「全体」に拡大させることによって、京域の広大さをも讃え(同時に帝業の偉大さのより強い讃美でもある)、それによって新京讃美の念が一層強いことを示すことによって新京讃歌全体の閉じ目とする。」(73頁)としている。
(注20)編纂者の誤解などから紛れこむことはありえようが、その場合、左注に断り書きが付されるケースも多いようである。精神史的傾向として、よくわからないことを断言してかかるようなことは少なかった時代だったと言えそうである。
(注21)中国の天子南面の観念は、天皇は日の御子に当たるから受け入れられ易かったと考えられる。けれども、この第二長歌の反歌の発想は中国思想によるものではない。なぜなら、天子が南面すると臣下は北面してしまうからである。天皇と臣下が同じ視線で考えられるものでなければ、歌意に共感、共有は得られず、歌として歌われない。日の道をたどって東→南→西へと目で追っている。
(注22)だからといって、花井2001.の、「自然の相が不変であるごとく都が永遠であることが予祝される。」(二〇頁)、渡部2001.の、「そこは今造られた宮であり、過去を持たない。」(9頁)とするのは思い込みである。
(注23)川について「帯ばせる」、「帯にせる」とする形容には、「御笠みかさの山の」(万1102)、「みもろの神の」(万1770・3227)、「神なび山の」(万3266)、「その立山たちやまに」(万4000)といった例が見られる。標高が高い山の周りを川が帯のようにぐるりとめぐっているという表現である。

(引用・参考文献)
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