古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略紀の埴輪譚について―田辺史伯孫の土馬の逸話―

2020年04月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略紀に、馬を埴輪の馬と取り換えた話が載る。

 秋七月の壬辰の朔(つきたちのひ)に、河内国(かふちのくに)、言(まを)さく、「飛鳥戸郡(あすかべのこほり)の人田辺史伯孫(たなべのふびとはくそん)が女(むすめ)は、古市郡(ふるいちのこほり)の人書首加竜(ふみのおびとかりょう)が妻(め)なり。伯孫、女、児(をのこ)産(うまはり)せりと聞きて、往(ゆ)きて聟(むこ)の家を賀(よろこ)びて、月夜(つくよ)に還りぬ。蓬蔂丘(いちびこのをか)の誉田陵(ほむたのみさざき)の下(もと)に、蓬蔂、此(ここ)には伊致寐姑(いちびこ)と云ふ。赤駿(あかうま)に騎(の)れる者(ひと)に逢ふ。其の馬、時に濩略(くわくりゃく)として竜翥(りょうしょ)し、欻(くつ)に聳擢(しょうたく)して鴻(こう)驚(きゃう)し、異体は■(山冠に逢)生し、殊相(しゅさう)は逸発(いつはつ)す。伯孫、就(ちかつ)きて視て、心に欲(ほり)す。乃ち乗れる驄馬(みだらをのうま)に鞭(むちう)ちて、頭(かしら)を斉(ひと)しくし轡(くち)を並ぶ。爾(しかう)して乃ち、赤駿(あかうま)、超攄(てうちょ)して埃塵(あいじん)を絶(ぜっ)し、駆騖(くぶ)して滅没(めつぼつ)するより迅(じん)なり。是(ここ)に、驄馬、後(おく)れて怠足(おそ)くして、復(また)追ふべからず。其の駿(ときうま)に乗れる者(ひと)、伯孫が所欲(ねがひ)を知りて、仍りて停(とど)めて馬を換へて、相(あひ)辞(さ)りて取別(わかれは)てぬ。伯孫、駿を得て甚だ歓び、驟(をどら)して厩に入る。鞍を解(おろ)して馬に秣(まぐさか)ひて眠(ね)ぬ。其の明旦(くるつあした)に、赤駿、変りて土馬(はにま)に為(な)れり。伯孫、心に異(あやし)びて、還(かへ)りて誉田陵を覓(もと)むるに、乃ち驄馬の土馬の間(なか)に在るを見る。取(よ)りて代(か)へて換(かは)りし土馬を置く」とまをす。(雄略紀九年七月)

 この話は、馬形埴輪の起源や馬の記述における文学的な表現としてよく知られている。しかし、説話を「読む」という姿勢で解説されたことはない。今日いうところの「文学」なるものが古代からあったか疑問でもある。
 「河内国言」のように、それぞれの国が中央にそれぞれの国の状況を報告している記事として、日本書紀に「○○国言」の例は15例ある。その最初の記事である。「国」が報告するとは、地方ニュースとして珍しいから報告し、それを日本書紀にとり上げたということになる。犬が人に噛みついてもニュースにはならないが、人が犬に噛みつくとニュースになる。そういう異変譚として堂々と載せられている。登場人物として、飛鳥戸郡の人である田辺史伯孫、ならびにその娘、古市郡の人である書首加竜が出ている。名前がハクソン、カリョウと音読みしていて、渡来系の人々であるとわかる。字(漢字)の読み書きができて、「史」、「書首」に就いている。
 伯孫は、孫が生まれたというのでお祝いに出掛けていて、帰るのが夜になって月明かりのなか馬を使っている。途中、蓬蔂丘の誉田陵のところで赤馬に出会い、その馬が駿馬だったので欲しくなったら察してくれて、馬を交換した。喜んで赤馬を連れ帰って鞍を下ろして厩に入れ、飼葉を与えて寝た。よく朝起きてみると、赤馬は埴輪の馬になっていた。不思議に思って誉田陵を探してみると、埴輪の馬のなかに驄馬はいたので、取り替えて埴輪を置いた、というのである。
 文中、文選・赭白馬賦に、「異体峰生、殊相逸発」、「欻聳擢以鴻驚、時濩略而竜翥」、「超攄絶夫塵轍、駆騖迅於滅没」とあるのを使って文飾したと考えられている。それを除いて文章を組み立てたのが事の次第であろう(注1)

 伯孫、女、児(をのこ)産(うまはり)せりと聞きて、往(ゆ)きて聟(むこ)の家を賀(よろこ)びて、月夜(つくよ)に還りぬ。蓬蔂丘(いちびこのをか)の誉田陵(ほむたのみさざき)の下(もと)に、蓬蔂、此(ここ)には伊致寐姑(いちびこ)と云ふ。赤駿(あかうま)に騎(の)れる者(ひと)に逢ふ。其の馬[ニ]……伯孫、就(ちかつ)きて視て、心に欲(ほり)す。乃ち乗れる驄馬(みだらをのうま)に鞭(むちう)ちて、頭(かしら)を斉(ひと)しくし轡(くち)を並ぶ。爾(しかう)して乃ち、赤駿(あかうま)……に、驄馬、後(おく)れて怠足(おそ)くして、復(また)追ふべからず。其の駿(ときうま)に乗れる者(ひと)、伯孫が所欲(ねがひ)を知りて、仍りて停(とど)めて馬を換へて、相(あひ)辞(さ)りて取別(わかれは)てぬ。伯孫、駿を得て甚だ歓び、驟(をどら)して厩に入る。鞍を解(おろ)して馬に秣(まぐさか)ひて眠(ね)ぬ。其の明旦(くるつあした)に、赤駿、変りて土馬(はにま)に為(な)れり。伯孫、心に異(あやし)びて、還(かへ)りて誉田陵を覓(もと)むるに、乃ち驄馬の土馬の間(なか)に在るを見る。取(よ)りて代(か)へて換(かは)りし土馬を置く。

 話の主人公は「田辺史伯孫」である。史とはフビト、フミ(文)+ヒト(人)の約で、書記官である。だから、ハクソンという音読みの名前を負っている。そして、伯という字は、伯父や伯兄と使うように、いちばん年長のものを指す。いま、この伯孫という人は、初孫の誕生を賀するために娘婿の家を訪れ、その帰り道に不思議な経験をしている。
左:驄馬、右:赤馬(石山寺縁起、狩野晏川・山名義海模、明治時代、原本は明応6年(1497)、東京国立博物館研究情報アーカイブズ、左:https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055245 、右:https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055301をそれぞれトリミング)(注2)
 一説に、「当時の馬の所持や利用頻度など、時代設定はともかく、田辺氏は親戚の家に馬で出かけるほど気軽に乗りこなすことができ、自宅に厩もあったことがわかります。」(注3)とし、田辺史氏の上流階級的なあり様を示すものとされている。しかし、この奇妙な記述が、田辺史氏のことを言及するために示されているとするのは、少し筋違いなのではなかろうか。それはまた、誉田陵という古墳に馬形埴輪がどのように並べられていたかを示したくて書いてあるものでもないであろう(注4)。不思議なことがありました、と河内国から報告が上がっている。その不思議なことそのことに関して注意を向けるべきであろう。
 初孫なのである。岩波古語辞典に、「ハツ(初)は、起源的にはハツハツ(端端)などのハツと同じく、ちらっとその端だけを示す意が根本。多く、その季節の最初にちらっと現われた自然の現象にいうのが古い用法。「初雁」「初草」「初霜」「初花」など。」(181頁)とある。上代の人は、初瀬という地名を馬の馳せることと連動して捉えていた(注5)。話は初孫ということで導入されているから、ハッとした動きをする馳せる馬が登場するのは、話として自然の成り行きである。だから、赤い駿馬に出会うことになっている。すると、どのくらい馳せているかを表現しなければならず、自分にも馬がいないと比較対照できない。そこで、驄馬に乗ったことにしている。
 そして、伯孫は、赤い駿馬を連れて帰り、厩へ入れている。「驟(をどら)して」とあるから、馬は踊るようにギャロップしていたということであろう。その際、伯孫は馬に乗っていたか。それはあり得ない。厩には屋根があるから伯孫の頭がぶつかってしまう。すなわち、伯孫は、「駿(ときうま)」を曳いている。そして、乗馬用の鞍を下ろして飼葉を与えて寝ている。翌朝、厩に見たいと期待される馬の姿は、駿馬の裸馬のはずである。ところが、鞍を着けた形の「土馬(はにま)」になっていた(注6)。これは異なことである。駿馬が埴輪に変わっていることもそうであるが、どうやって鞍を自分で着けることができたのか(注7)。何か夢でも見たのであろうか。夢であるなら駿馬を曳いてきたその誉田陵まで遡って答えを求めることにしよう。そう思って探していると、驄馬は案の定、誉田陵に、彼が「土馬」と言っている馬形埴輪群のなかにいた。そして話は“解決”している。
 話の解決とはどういうことか。話を聞いた人が腑に落ちて、なるほどと納得して、理解が行き届くということである。何を皆は納得したのか。ハクソンという人の話で、漢字で書くと伯孫である。名前が初孫の意味になっている。話は初孫のお祝いに行った話である。そして、ハッと馳せる馬が出てきて、連れていた馬と交換してそれを曳いている。馬を曳くのは馬子(まご)である。孫の顔を見て、馬子になって帰っている。祝宴で酒を飲んで帰るとき、飲酒運転は危険だから馬にまたがることはない。そもそも行きの行程でも、伯孫は馬に乗って行ったとは考えにくい。田辺史伯孫は文官で、大臣や将軍のような大した地位にはない。今日のように大衆が乗用車を買ったり維持したりできる時代とは異なる。初孫の誕生パーティに呼ばれて出掛けているのだから、お土産をたくさん持って行ったであろう。荷物を運ぶために駄馬を曳いて行ったと考えられる。
 帰り途は、空になった駄馬をただ曳いて帰ってきた。浮かれ過ぎていたから、生きている馬と埴輪の馬とを「紛(まが)ふ」ことになった。マガフは、マ(目)+カフ(交)の合成とされるが、マ(馬)+カフ(交)こととなっている。厩に入れてほどこしたのは秣(まぐさ)で、飼葉(かひば)とも言う。馬をカフ(飼)ための飼料である。マ(馬)+カフ(飼)ことになっている。酔っぱらって呂律が回らなければ、マゴウと音便化していてもおかしくない。マゴウカタナシと言っている。やはりマゴの話とわかる。
 発音が少々おかしいのは、酔っぱらっているせいばかりでもないであろう。なにしろ、登場人物はハクソン(伯孫)という渡来系の人である。日本語を学んで書記官として採用されていたとしても、どこか本国の癖が残ってしまう。それは、地方から上京してから何年も、イントネーションにお国訛りの抜けないでいる人を見てもわかる。ましてや、中国語や朝鮮語を話していた人が渡来してきてヤマトコトバをどんなに理解しても、なお独特な発音の残る人は多かったことであろう。ジャパニッシュと呼ばれる英語発音に、〔l〕と〔r〕の使い分けが難しいのと同じである。だからこそ、「土馬(はにま)」などという珍語が用いられていると考える。ハニワ(埴輪)のはずがハニマになっている。形象埴輪に家形や武人像など各種見られるが、ハニヘ(土家)、ハニト(土人)などという名を文献に見出すことができない。ハニマ(土馬)という言葉も、雄略紀記事以降、ついぞ見られるものではない(注8)
 舞台は「蓬蔂丘(いちびこのをか)の誉田陵(ほむたのみさざき)の下(もと)」である。イチビコはキイチゴのことである。果実酒づくりに用いられた(注9)。酔っぱらいを表すのに持ってこいの地名である。誉田陵は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、すなわち、応神天皇の陵墓である。ホムタという名の由来は、日本書紀に記されている。

 初め天皇、在孕(はらま)れたまひて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)、三韓(みつのからくに)に授けたまへり。既に産(あ)れませるときに、宍(しし)、腕(ただむき)の上に生(お)ひたり。其の形、鞆(ほむた)の如し。是、皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。肖、此には阿叡(あえ)と云ふ。故、其の名(みな)を称へて誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と謂(まを)す。上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆(とも)を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。(応神前紀)

 弓の使用時の防具として鞆(ほむた)というものがあり、それはまた、トモとも言うという。トモという言葉は、「鵜飼が伴」(記14)とあるように、常に一緒にいて寄り添う者の意である。鵜飼部が主人で鵜が従者ではなく、鵜が主役である。鵜飼部は飼っている鵜のそばにいて、鵜が捕まえた魚を手に入れるという仕掛けになっている。鵜縄(鵜綱)を使って鵜を曳く様は、馬子が手綱を使って馬で曳くのに相同である。だから、わざわざ誉田陵のところが持ち出されている。
 そして、それは、「誉田陵の下(もと)」であると断っている。誉田陵は古墳だから土が盛られて丘のようになっている。「蓬蔂丘の誉田陵の下」というからには、蓬蔂丘がその地域全域の総称で、そのなかに誉田陵があるものと考えられる。現在比定されている誉田御廟山古墳のように、周囲の古墳群が丘形状であると認められるというのであろう。古市古墳群のなかで一番大きなのが誉田御廟山古墳で、二番目に大きなのが仲津山陵とされている仲津山古墳であり、そのほかにもいくつも古墳を有するあたりのことを蓬蔂丘と呼んでいると推測される。桜餅で有名な道明寺から進んだところである。つまり、蓬蔂丘において、誉田陵と他の古墳とに挟まれて窪んでいるところ、そこを「下(もと)」と言っている。なぜなら、山裾と山裾の交わるところのことを、「山の交(かひ)」(記91)のようにカヒ(ヒは甲類、交・峡・間)というからである。山の間(ま)の峡(かひ)と言い及んでいて、マ(間)+カフ(交)ことになっている。ヤマトコトバは言葉だけで膨大な情報を表わしている。
 それは、自分の馬である「驄馬」が、「乃見驄馬在於土馬之間」と決着しているところからもわかる。この個所は、前田本に、「間」を「なか」と訓んでいる。馬形埴輪の間(あいだ)に驄馬が自らたたずんでいたのではなかろう。よく語っている訓の意味をつかむべきである。
 日本書紀において、「間」をナカと訓む例は以下にも見える。

 一(ひとり)の老公(おきな)と老婆(おみな)と有りて、中間(なか)に一の少女(をとめ)を置(す)ゑて、撫(かきな)でつつ哭く。(神代紀第八段本文)
 俄(しばらく)ありて鮪臣来りて、太子と影媛との間(なか)に排(おしはな)ちて立てり。(武烈前紀)

 これらは、二者のあいだに入っていることを指している。古典基礎語辞典に、「なか ……端ではないところが原義。二つのものに挟まれた空間。三つに区分したときの中間。多くのものが並び存在する場所の、端ではない所。まん中でなくてもよい。」(867頁、この項、白井清子)とある。あいだに入っているだけだから自由に移動可能かと言えば、そうではない。必ず二者のあいだにいるのである。「少女」は怖くてそこから身動きすることはないし、「鮪臣」は割って入って関係を断とうとしているから、太子が動けばそれに応じて動いてけっして影媛と接触させないようにしている。
 隊列をなしている(注10)ような馬形埴輪、「土馬」の配置の2頭の「間(なか)」に「驄馬」がいたとして、そこから離れない理由は1つしかない。つながれていたのである。読み返してみると、「仍停換換、相辞取別。」とあり、どうやって停止させたかと言えば、手綱を杭につないだからである。埴輪が杭になるかと言えば、埴輪は半分埋めて立っているのだから、十分につないでおくことができる。一般に、土に埋めるところを輪状に整形しているからハニワというのであると考えられている。言葉の概念におけるハニワの本質は、その輪の部分に依っている。話の作者は、発音が苦手な渡来人、伯孫が言っているハニマというのはハニワのことであると面白がらせるために、このような言い回しを行なっている。聞く人は話として当意即妙であると思い、腑に落ちて笑顔になれるから、他の人へと伝えていくことになる。無文字時代の言葉は、人が話して人が聞いて伝わっていく。話(咄・噺・譚)は、人が話して伝えていた限りにおいて存立していた。ヒトヒト感染するウイルスが、接触を絶たれたら生き続けられないのと同じことである(注11)
「乃見驄馬在於土馬之間」(九州国立博物館の九博界隈ブログ「日本神話×沖ノ島展(7)-埴輪の馬」http://kyuhaku.jugem.jp/?month=201702)(注12)
 以上、雄略紀の埴輪にまつわる不思議譚について、ヤマトコトバによってその内容を検証した。マゴ(孫・馬子)にまつわって渡来系の人たちの発音をからめた笑い話であった。そして、馬は大陸にたくさんいるが、馬形埴輪は大陸にはないものであることを言外に語っている。

(注)
(注1)日本書紀には漢籍からの引用を多く含む箇所でも古訓が施されており、この個所でも行なわれている。ただし、大系本補注に、「訓法には種々のものがある。釈紀、秘訓には、ホヌケタユルアヒタチリタエラニミエ、ハシリサイタツトイカタチホルモカニシテウセヌとある。前本・宮本の左傍訓にはコエノヒテキヌケタユルチリクモチニミエ、ハシリサイタツトキカタチ保ルモカニシテウセヌとある。右傍訓はコエノヒテヌケテタエタルコトクモノミチチリノミチニミエ、ハシル光ノ章ナルコト保流母可尓シテウセヌとある。これらの訓はここの漢字一字一字を訓んだもので、全体の意味をまとめて把握するように訓めていない。」((三)357~358頁)とあるとおり、定まったものではない。他の日本書紀のようにヤマトコトバがあって漢籍を当てがったのではなく、単に漢籍を入れ込んだ個所として見るのが妥当であろう。伝本にあまりにも多様な付訓が行われているばかりでなく、登場人物の名からして、伯孫(ハクソン)、加竜(カリョウ)という音読み名だからである。したがって、この赭白馬賦からの引用部分については、筆者が日頃からしている「我らが訓読文化」の主張からは一歩引き、漢文調の読み方をした。ヤマトの人には漢文調ではわからないが、わからないことが伯孫や加竜にはわかるというのがここの個所の面白味だからである。「文選正文3」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/901414/27)参照。
 しかし、だからといって、丹羽1997.に、「「赤駿」は漢語としてはみられないので、『書紀』編者の造った語と考えられる。」(48頁)ことはそのとおりであろうが、「大系は埴輪の色からだろうとするが、田辺家伝では後に土馬になる馬の色は記されていないので、『書紀』編者の雄略紀伝承の形成のあり方において捉えるべきものと考える。当該伝承は主に漢籍表現の摂取により田辺家伝とかけ離れた立体感のある伝承に高められている。「赭白馬賦」のきらびやかな馬の表現と共に、二頭の馬の毛色もまた漢文学の背景をもたせたものと考えたい。」(51頁)とすることには無理がある。口頭伝承に伝えられないからである。筆者は、紀の説話は、田辺家伝に先んじて成っていると考える。
(注2)馬の色や模様から、その馬の能力、騎馬用に適するかどうかを定めることはできない。右側の赤馬は、他の馬から遅れをとって追いかけているところである。鞍は駄馬用の荷鞍である。それに人が跨って必死についていこうとしている。馬は生産段階において、足が速ければ乗馬用に、遅ければ駄馬用に扱われた。
(注3)柏原市HP「田辺廃寺」(http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2019082000011/?doc_id=11425)。
(注4)水野1983.に「応神天皇陵の何処に馬形埴輪―土馬が配されていたのであろうか。」(25頁)とある。
(注5)拙稿「枕詞「隠(こも)りくの」と泊瀬(長谷)の伝えるところ」参照。
(注6)平城京跡などで出土するものに、「土馬(どば)」と呼ばれるものがある。馬の形をした土製品で、道路の脇の溝や運河から見つかっており、水に関わる祭りと関係があろうと考えられている。これは、雄略紀の伯孫の逸話とは無関係である。馬形埴輪であると考えられる紀に記載の「土馬(はにま)」と、今日名づけられている「土馬(どば)」は、モノが違い、出土場所も違う。水野1983.のように、両者を歴史的に連続的に考えることはできない。
左から土馬(どば)、墨書人面土器、竈のミニチュア(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館HP、http://www.kashikoken.jp/museum/permanent/asuka-nara/asuka-nara.html)
(注7)馬形埴輪に、裸馬の例は非常に稀で、ほとんど鞍を着けている。
(注8)韓国語に、日本語のワは mwa と発声されるようである。「埴田(はにた)」(崇神紀六十二年七月)は、粘土質の田のことかとされている。田形埴輪ではない。
(注9)青森の三内丸山遺跡、大館の池内遺跡、諏訪の井戸尻遺跡などから、大量のキイチゴ、ニワトコ、サルナシ、ヤマブドウの種子が見つかり、は果実酒づくりをした残骸だと考えられている。
(注10)島田1929.に、「挿話の主体をなす土物の配列が少なくとも雄略紀以前には多少なりとも存在するものゝあつた事実を立脚として作成せられたものであることは疑ふことが出来ない。」(85頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注11)呼吸器に取りつく新型コロナウイルス(COVID-19)が2020年にヒトに蔓延しているが、人が言葉をこれほど話し、喋り、歌わない動物であったならば、勢力を広げることはなかったであろう。すなわち、音声言語の病とも言えるのである。密に接してしきりに声をあげる哺乳類としては、ほかにコウモリがいる。
(注12)ただし、つながれていない。けれども、このイラストの驄馬の左側には左腕をあげている人物埴輪があり、あるいは、手綱を曳いている様を表しているのかもしれない。九博の思慮深さには恐れ多いものがある。
トーハクくんと馬形埴輪(東博展示品等)

(引用文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
島田1929. 島田貞彦「埴輪土物の配置に就いて」『史林』第14巻第4号、1929年10月。京都大学学術情報リポジトリ http://hdl.handle.net/2433/247690
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
丹羽1997. 丹羽晃子「雄略紀「驄馬」伝承と「みだらをの馬」について」『国文学研究』早稲田大学国文学会、123巻、1997年10月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43638
水野1983. 水野正好「馬・馬・馬─その語りの考古学─」『文化財学報 第二集』奈良大学文学部文化財学科、1983年3月。奈良大学リポジトリAN0000711X-19830300-1004

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