(注)
(注1)原文に句読点、返り点を付すと次のようになる。
又此之御世、大毘古命者、遣二高志道一、其子建沼河別命者、遣二東方十二道一而、令レ和二‐平其麻都漏波奴 自レ麻下五字以レ音 人等一。又日子坐王者、遣二旦波国一、令殺二玖賀耳之御笠一。此、人名者也。玖賀二字以レ音。故、大毘古命、罷二‐往於高志国一之時、服二腰裳一少女、立二山代之幣羅坂一而、歌曰、美麻紀伊理毘古波夜美麻紀伊理毘古波夜意能賀袁袁奴須美斯勢牟登斯理都斗用伊由岐多賀比麻幣都斗用伊由岐多賀比宇迦迦波久斯良爾登美麻紀伊理毘古波夜。於レ是、大毘古命、思レ怪、返レ馬、問二其少女一曰、汝所レ謂之言、何言。爾、少女答曰、吾、勿レ言、唯為レ詠レ歌耳。既不レ見二其所如一而、忽失。(崇神記)
十年秋七月丙戌朔己酉、詔二群卿一曰、導レ民之本、在二於教化一也。今既礼二神祇一、災害皆耗。然遠荒人等、猶不レ受二正朔一、是未レ習二王化一耳。其選二群卿一、遣二于四方一、令レ知二朕憲一。九月丙戌朔甲午、以二大彦命一遣二北陸一、武渟川別遣二東海一、吉備津彦遣二西道一、丹波道主命遣二丹波一。因以詔之曰、若有二不レ受レ教者一、乃挙レ兵伐之。既而共授二印綬一為二将軍一。壬子、大彦命到二於和珥坂上一。時有二少女一、歌之曰、一云、大彦命到二山背平坂一、時道側有二童女一歌之曰、瀰磨紀異利寐胡播揶飫迺餓鳥塢志齊務苔農殊末句志羅珥比売那素寐殊望。一云、於朋耆妬庸利于介伽卑氐許呂佐務苔須羅句塢志羅珥比売那素寐須望。於レ是、大彦命異之、問二童女一曰、汝言何辞。対曰、勿レ言也、唯歌耳。乃重詠二先歌一、忽不レ見矣。(崇神紀)
(注2)本居宣長・古事記伝に、「凡て歌は、直に云フ常の言の比に非ず、意をこめて、物を人に喩すわざにしあれば、常の言の比に、おほよそに勿聴賜ひそ、心とゞめ賜へとの答ヘなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/30)とある。新編全集本日本書紀には、「言葉で直叙したのではなく歌謡で諷刺したのだ、の意。」(279頁)と解し、中国史書の五行志に多くみえる「童謡」を引き合いに出している。もちろん、言葉で諷刺することも歌謡で直叙することも可能であるのが口頭言語である。
(注3)ブッポーソー(仏法僧)やテッペンカケタカ(天辺翔けたか)と聞きなした場合は言葉になる。鳥の声でも人の言葉にしたがるなか、人の言葉としか言えそうにないものを言葉ではないと強弁している。あやしいことである。
(注4)この歌をワザウタとして解釈を進めようとする論考は大脇2020.、烏谷2021.に見られるように今日まで疑義を挟まずに行われている。中国の史書との関係を突破口にして、わからないことはすべて漢籍を検索すればわかったことになると信じられているらしい。
ワザウタ(童謡・謡歌)と明示される歌謡は、皇極紀に5首、斉明紀に1首、天智紀に5首見られる。「時に、童謡有りて曰く、」(紀107)、「時に、謡歌三首有り。」(紀109・110・111)、「童謡有りて曰く、」(紀122)、「五月に、童謡して曰く、」(紀124)、「童謡して云はく、」(紀125)、「時に、童謡して曰く、」(紀126・127・128)などとある。「時」局に即した歌で、「有」るものとして記されている。誰か特定の人が歌ったものではなく、その時の集合意識の反映、表明としてあらわれている。崇神記紀において「少女」が歌ったとするものについて、たとえ姿を消したからといって、また、それが悪い前兆を示すものであるからといってワザウタであると決めてかかり、一般的なワザウタの概念からすればこうなると、外堀からこの歌を理解しようとするのは姿勢からして筋違いである。ワザウタ的な性質が仮にあったとしても、読み手、聞き手に演繹的思考を求めていないからワザウタと記されていない。皇極・斉明・天智紀とは筆録者が違うからワザウタと書いてないと仮定するにしても、書いていないという事実に背を向けたり、「少女」と書いてあるものを「巫女」(上代語にミコとは呼ばない)と読み替えて平気でいられる神経は、古代的心性とは通じ合わないものであろう。記されているそのままの現場感を大切に“臨場”する必要がある。
(注5)紀には、「勿レ言也。唯歌耳。」と答え、さらに、「乃重詠二先歌一、」と続いている。新釈全訳日本書紀に、「口にした(「言」)のはどのような意図を持ったことば(「辞」)かと問われたのに対し、なにも言っていません、ただ歌を歌っただけですと答えた。「勿言也」は、古訓にモノモイハズとあるとおり、「勿」は打消し。『古事記』にも、「少女答曰、吾勿言、唯為詠歌耳」とおなじ表現がある。歌が個人の私的な感情や意図を表現するためのものではなく、集団的に共有されるものであったことを踏まえたやりとり。『通釈』や新編全集が歌を以て諷刺したのだとするのはあたらない。」(391頁)と解している。諷刺説への批判にはなっても、この論法には自己矛盾がある。集団的に共有される歌を少女が歌ったというなら、集団に属している大彦命がそれを聞いて理解できないことの説明がつかない。ハミングを聞いているのではなく、歌詞のある歌を聞いていて、その意味がわからないから問いかけている。
少女(童女)の回答後、さらに「重詠二先歌一」ところは暗示的である。先ほど諳んじた歌をもう一度「詠」ずるばかりか、それよりも以前からずっと同じことを歌い続けていて、大彦命が耳にしたのはそのn回目とn+1回目(nは自然数)というにすぎないかもしれないのである。
なお、記にある「唯為詠歌耳」については、「唯、歌を詠しつらくのみ。」(相磯1962.87頁)、「ただ歌を詠みつるにこそ。」(倉野1963.103頁)、「ただ歌よみしつらくのみ」(尾崎1966.352頁)、「唯歌を詠めつらくのみ」(尾崎1972.146頁)、「唯歌詠みしつる耳」(土橋1972.104頁)、「唯歌を詠みつるにこそ」(山路1973.57頁)、「唯歌を詠みつるのみ」(全集本古事記188頁)、「唯詠歌を為へるにこそ。」(倉野1978.301頁)、「唯歌詠ひつるにこそ」(西郷2005.262頁)、「ただ歌を詠へるにこそ」(西宮1979.138頁)、「唯為歌詠ひつるに
(注1)原文に句読点、返り点を付すと次のようになる。
又此之御世、大毘古命者、遣二高志道一、其子建沼河別命者、遣二東方十二道一而、令レ和二‐平其麻都漏波奴 自レ麻下五字以レ音 人等一。又日子坐王者、遣二旦波国一、令殺二玖賀耳之御笠一。此、人名者也。玖賀二字以レ音。故、大毘古命、罷二‐往於高志国一之時、服二腰裳一少女、立二山代之幣羅坂一而、歌曰、美麻紀伊理毘古波夜美麻紀伊理毘古波夜意能賀袁袁奴須美斯勢牟登斯理都斗用伊由岐多賀比麻幣都斗用伊由岐多賀比宇迦迦波久斯良爾登美麻紀伊理毘古波夜。於レ是、大毘古命、思レ怪、返レ馬、問二其少女一曰、汝所レ謂之言、何言。爾、少女答曰、吾、勿レ言、唯為レ詠レ歌耳。既不レ見二其所如一而、忽失。(崇神記)
十年秋七月丙戌朔己酉、詔二群卿一曰、導レ民之本、在二於教化一也。今既礼二神祇一、災害皆耗。然遠荒人等、猶不レ受二正朔一、是未レ習二王化一耳。其選二群卿一、遣二于四方一、令レ知二朕憲一。九月丙戌朔甲午、以二大彦命一遣二北陸一、武渟川別遣二東海一、吉備津彦遣二西道一、丹波道主命遣二丹波一。因以詔之曰、若有二不レ受レ教者一、乃挙レ兵伐之。既而共授二印綬一為二将軍一。壬子、大彦命到二於和珥坂上一。時有二少女一、歌之曰、一云、大彦命到二山背平坂一、時道側有二童女一歌之曰、瀰磨紀異利寐胡播揶飫迺餓鳥塢志齊務苔農殊末句志羅珥比売那素寐殊望。一云、於朋耆妬庸利于介伽卑氐許呂佐務苔須羅句塢志羅珥比売那素寐須望。於レ是、大彦命異之、問二童女一曰、汝言何辞。対曰、勿レ言也、唯歌耳。乃重詠二先歌一、忽不レ見矣。(崇神紀)
(注2)本居宣長・古事記伝に、「凡て歌は、直に云フ常の言の比に非ず、意をこめて、物を人に喩すわざにしあれば、常の言の比に、おほよそに勿聴賜ひそ、心とゞめ賜へとの答ヘなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/30)とある。新編全集本日本書紀には、「言葉で直叙したのではなく歌謡で諷刺したのだ、の意。」(279頁)と解し、中国史書の五行志に多くみえる「童謡」を引き合いに出している。もちろん、言葉で諷刺することも歌謡で直叙することも可能であるのが口頭言語である。
(注3)ブッポーソー(仏法僧)やテッペンカケタカ(天辺翔けたか)と聞きなした場合は言葉になる。鳥の声でも人の言葉にしたがるなか、人の言葉としか言えそうにないものを言葉ではないと強弁している。あやしいことである。
(注4)この歌をワザウタとして解釈を進めようとする論考は大脇2020.、烏谷2021.に見られるように今日まで疑義を挟まずに行われている。中国の史書との関係を突破口にして、わからないことはすべて漢籍を検索すればわかったことになると信じられているらしい。
ワザウタ(童謡・謡歌)と明示される歌謡は、皇極紀に5首、斉明紀に1首、天智紀に5首見られる。「時に、童謡有りて曰く、」(紀107)、「時に、謡歌三首有り。」(紀109・110・111)、「童謡有りて曰く、」(紀122)、「五月に、童謡して曰く、」(紀124)、「童謡して云はく、」(紀125)、「時に、童謡して曰く、」(紀126・127・128)などとある。「時」局に即した歌で、「有」るものとして記されている。誰か特定の人が歌ったものではなく、その時の集合意識の反映、表明としてあらわれている。崇神記紀において「少女」が歌ったとするものについて、たとえ姿を消したからといって、また、それが悪い前兆を示すものであるからといってワザウタであると決めてかかり、一般的なワザウタの概念からすればこうなると、外堀からこの歌を理解しようとするのは姿勢からして筋違いである。ワザウタ的な性質が仮にあったとしても、読み手、聞き手に演繹的思考を求めていないからワザウタと記されていない。皇極・斉明・天智紀とは筆録者が違うからワザウタと書いてないと仮定するにしても、書いていないという事実に背を向けたり、「少女」と書いてあるものを「巫女」(上代語にミコとは呼ばない)と読み替えて平気でいられる神経は、古代的心性とは通じ合わないものであろう。記されているそのままの現場感を大切に“臨場”する必要がある。
(注5)紀には、「勿レ言也。唯歌耳。」と答え、さらに、「乃重詠二先歌一、」と続いている。新釈全訳日本書紀に、「口にした(「言」)のはどのような意図を持ったことば(「辞」)かと問われたのに対し、なにも言っていません、ただ歌を歌っただけですと答えた。「勿言也」は、古訓にモノモイハズとあるとおり、「勿」は打消し。『古事記』にも、「少女答曰、吾勿言、唯為詠歌耳」とおなじ表現がある。歌が個人の私的な感情や意図を表現するためのものではなく、集団的に共有されるものであったことを踏まえたやりとり。『通釈』や新編全集が歌を以て諷刺したのだとするのはあたらない。」(391頁)と解している。諷刺説への批判にはなっても、この論法には自己矛盾がある。集団的に共有される歌を少女が歌ったというなら、集団に属している大彦命がそれを聞いて理解できないことの説明がつかない。ハミングを聞いているのではなく、歌詞のある歌を聞いていて、その意味がわからないから問いかけている。
少女(童女)の回答後、さらに「重詠二先歌一」ところは暗示的である。先ほど諳んじた歌をもう一度「詠」ずるばかりか、それよりも以前からずっと同じことを歌い続けていて、大彦命が耳にしたのはそのn回目とn+1回目(nは自然数)というにすぎないかもしれないのである。
なお、記にある「唯為詠歌耳」については、「唯、歌を詠しつらくのみ。」(相磯1962.87頁)、「ただ歌を詠みつるにこそ。」(倉野1963.103頁)、「ただ歌よみしつらくのみ」(尾崎1966.352頁)、「唯歌を詠めつらくのみ」(尾崎1972.146頁)、「唯歌詠みしつる耳」(土橋1972.104頁)、「唯歌を詠みつるにこそ」(山路1973.57頁)、「唯歌を詠みつるのみ」(全集本古事記188頁)、「唯詠歌を為へるにこそ。」(倉野1978.301頁)、「唯歌詠ひつるにこそ」(西郷2005.262頁)、「ただ歌を詠へるにこそ」(西宮1979.138頁)、「唯為歌詠ひつるに