古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

崇神記紀の、謀反を告げる少女の歌を含む説話について 其の二

2022年06月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(注)
(注1)原文に句読点、返り点を付すと次のようになる。

 又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令‐平其麻都漏波奴麻下五字以人等。又日子坐王者、遣旦波国、令殺玖賀耳之御笠此、人名者也。玖賀二字以音。故、大毘古命、罷‐往於高志国之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而、歌曰、美麻紀伊理毘古波夜美麻紀伊理毘古波夜意能賀袁袁奴須美斯勢牟登斯理都斗用伊由岐多賀比麻幣都斗用伊由岐多賀比宇迦迦波久斯良爾登美麻紀伊理毘古波夜。於是、大毘古命、思怪、返馬、問其少女曰、汝所謂之言、何言。爾、少女答曰、吾、勿言、唯為歌耳。既不其所如而、忽失。(崇神記)
 十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰、導民之本、在於教化也。今既礼神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不正朔、是未王化耳。其選群卿、遣于四方、令朕憲。九月丙戌朔甲午、以大彦命北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰、若有教者、乃挙兵伐之。既而共授印綬将軍。壬子、大彦命到於和珥坂上。時有少女、歌之曰、一云、大彦命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、瀰磨紀異利寐胡播揶飫迺餓鳥塢志齊務苔農殊末句志羅珥比売那素寐殊望。一云、於朋耆妬庸利于介伽卑氐許呂佐務苔須羅句塢志羅珥比売那素寐須望。是、大彦命異之、問童女曰、汝言何辞。対曰、勿言也、唯歌耳。乃重詠先歌、忽不見矣。(崇神紀)

(注2)本居宣長・古事記伝に、「凡て歌は、タヾに云常の言のナミに非ず、意をこめて、物を人にサトすわざにしあれば、タヾの言のナミに、おほよそにキヽ賜ひそ、心とゞめ賜へとの答なるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/30)とある。新編全集本日本書紀には、「言葉で直叙したのではなく歌謡で諷刺したのだ、の意。」(279頁)と解し、中国史書の五行志に多くみえる「童謡」を引き合いに出している。もちろん、言葉で諷刺することも歌謡で直叙することも可能であるのが口頭言語である。
(注3)ブッポーソー(仏法僧)やテッペンカケタカ(天辺翔けたか)と聞きなした場合は言葉になる。鳥の声でも人の言葉にしたがるなか、人の言葉としか言えそうにないものを言葉ではないと強弁している。あやしいことである。
(注4)この歌をワザウタとして解釈を進めようとする論考は大脇2020.、烏谷2021.に見られるように今日まで疑義を挟まずに行われている。中国の史書との関係を突破口にして、わからないことはすべて漢籍を検索すればわかったことになると信じられているらしい。
 ワザウタ(童謡・謡歌)と明示される歌謡は、皇極紀に5首、斉明紀に1首、天智紀に5首見られる。「時に、童謡わざうた有りて曰く、」(紀107)、「時に、謡歌わざうた三首みうた有り。」(紀109・110・111)、「童謡有りて曰く、」(紀122)、「五月に、童謡して曰く、」(紀124)、「童謡して云はく、」(紀125)、「時に、童謡して曰く、」(紀126・127・128)などとある。「時」局に即した歌で、「有」るものとして記されている。誰か特定の人が歌ったものではなく、その時の集合意識の反映、表明としてあらわれている。崇神記紀において「少女」が歌ったとするものについて、たとえ姿を消したからといって、また、それが悪い前兆を示すものであるからといってワザウタであると決めてかかり、一般的なワザウタの概念からすればこうなると、外堀からこの歌を理解しようとするのは姿勢からして筋違いである。ワザウタ的な性質が仮にあったとしても、読み手、聞き手に演繹的思考を求めていないからワザウタと記されていない。皇極・斉明・天智紀とは筆録者が違うからワザウタと書いてないと仮定するにしても、書いていないという事実に背を向けたり、「少女をとめ」と書いてあるものを「巫女かむなぎ」(上代語にミコとは呼ばない)と読み替えて平気でいられる神経は、古代的心性とは通じ合わないものであろう。記されているそのままの現場感を大切に“臨場”する必要がある。
(注5)紀には、「勿言也。唯歌耳。」と答え、さらに、「乃重詠先歌、」と続いている。新釈全訳日本書紀に、「口にした(「言」)のはどのような意図を持ったことば(「辞」)かと問われたのに対し、なにも言っていません、ただ歌を歌っただけですと答えた。「勿言也」は、古訓にモノモイハズとあるとおり、「勿」は打消し。『古事記』にも、「少女答曰、吾勿言、唯為詠歌耳」とおなじ表現がある。歌が個人の私的な感情や意図を表現するためのものではなく、集団的に共有されるものであったことを踏まえたやりとり。『通釈』や新編全集が歌を以て諷刺したのだとするのはあたらない。」(391頁)と解している。諷刺説への批判にはなっても、この論法には自己矛盾がある。集団的に共有される歌を少女が歌ったというなら、集団に属している大彦命がそれを聞いて理解できないことの説明がつかない。ハミングを聞いているのではなく、歌詞のある歌を聞いていて、その意味がわからないから問いかけている。
 少女(童女)の回答後、さらに「重詠先歌」ところは暗示的である。先ほど諳んじた歌をもう一度「詠」ずるばかりか、それよりも以前からずっと同じことを歌い続けていて、大彦命が耳にしたのはそのn回目とn+1回目(nは自然数)というにすぎないかもしれないのである。
 なお、記にある「唯為詠歌耳」については、「唯、歌をよみしつらくのみ。」(相磯1962.87頁)、「ただ歌をみつるにこそ。」(倉野1963.103頁)、「ただ歌よみしつらくのみ」(尾崎1966.352頁)、「唯歌をながめつらくのみ」(尾崎1972.146頁)、「ただうたみしつるのみ」(土橋1972.104頁)、「ただ歌をみつるにこそ」(山路1973.57頁)、「ただ歌をみつるのみ」(全集本古事記188頁)、「ただ詠歌うたうたへるにこそ。」(倉野1978.301頁)、「唯歌詠うたひつるにこそ」(西郷2005.262頁)、「ただ歌をうたへるにこそ」(西宮1979.138頁)、「ただ為歌詠うたひつるにこそ」(思想大系本古事記153頁)「ただ詠歌うたよみせり」(新編全集本古事記189頁)、「ただ歌詠うたひつらくのみ」(新校古事記84頁)、「ただ歌詠うたひつらくのみ」(多田2020.308頁)といった訓み方も提示されている。
(注6)記34歌謡は「哭為歌曰」というつづきであり、「詠」字を伴わない。これまでも、必ずしもウタヨミシテと訓まれているわけではない。「みねかしつつ歌ひたまはく、」(次田1924.409頁)、「きまして歌ひたまひしく、」(倉野1963.128頁)、「みねなかして歌曰うたひたまはく、」(全集本古事記228頁)、「哭きて為歌うたひましていはく、」(思想大系本古事記191頁)、「哭きて歌曰うたひたまはく、」(次田1980.167頁)、「哭為みねなかしつつ歌曰うたひたまひしく、」(西郷2006.141頁)とある。
 毎回同じ類型化した葬送歌ではなく、その地の「なづき田」にふさわしい歌を作っているものである。したがって、ウタヨミという訓みはふさわしくない。筆者は、「哭き歌はして曰く、」、「哭き歌はむとして曰く、」などと訓み、むせび哭く声が歌になって言うには、哭いてもなお歌おうとして言っていることには、の意ととるのがよいと考える。
(注7)白川1995.に、「よむ〔数(數)・詠・読(讀)〕 四段。数を数えることを原義とする。」(794頁)とある。拙稿「「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」参照。ウタヨミする例としては、紀7~14歌謡、記9~14歌謡と目されている来目歌(久米歌)の例が確かなものとされている。拙稿「久米歌(来目歌)について」参照。
(注8)西宮1979.に、「短いスカート風のもの(「裳」は今のロングスカート風)を着るとは、少女が神女であることをにおわす。」(137頁)、中西2007.に、「普通の裳のほかに装飾を上につけている異様な出立いでたちは、巫女の服装である」(85頁)、大脇2020.に、「「裳」は「守護する者」の特徴として使用されていると考え」、「『記』の筆録者は、少女に「腰裳」という衣裳を着けさせることで守護する神的女性たらしめているものと考える。」(26頁)、烏谷2021.に、「裳は女性に依り憑く神の力の発動と関わるようである。」(4頁)、「裳は霊力の所在と関わっていたようである。」(5頁)などとあるが、「裳」が神官や巫女に限られる衣裳、ないしはそれを真似たコスプレ衣裳だったという資料は見られない。関根1974.に、裳・裙は、「今日のスカートに相当するものであるが、……正倉院に伝える裳については、……今日のスカートに比べると、非常に長大なものであったことが知られる。」(136~138頁)とある。ここで「腰裳」と言っているところから、スカートにしてウエストばかりを意識させるもの、つまり、ミニスカートのことで、長大であるはずの裳を着けているか着けていないか疑念を抱かせるが確かに着けているものだからそう呼んで的確であったということと考える。大久保1981.も、「ロングスカート風の裳に対し、ミニスカート風の短い裳かという。」としつつ、「少女が神女であることを示すものであろう。」(65頁)としている。現代人は、自分たちにとってよくわからないと、なにかと祭祀に関係づけてわかった気になろうとする傾向がある。
(注9)西郷2005.に、タケハニヤスを討伐するのに「ワニ[丸邇、和珥]臣をつかわしたのでワニ[丸邇、和珥]坂が出てくるのか、それとも逆にワニ坂だからワニ氏が出てくるのか。いやそうではなく、タケハニ・・ヤスを撃とうとするからこそワニ氏とワニ坂が喚起されてきたのだと思う。……ワニはハニの転であったが、両語の関係性は当時忘れられることなくなお生き続けていただろう。」(267頁)とする説があり、佐佐木1995.も賛同している。筆者は与しない。土器を作るためハニ(埴)を細かく粉砕するのにワニ(鰐)が噛むような踏み臼が用いられるようになったと伝えていると考える。拙稿「「稲羽の素菟」論」参照。
(注10)類例の、「吾欲従母於根国只為泣耳」(神代紀第五段一書第六)は、「は母に根国ねのくにに従はむと欲ひ、ただに泣くのみ。」と訓むことができる。
(注11)白川1995.に、「こと〔殊・異・別〕 一般とは異なるもの、特殊なことをいう。「こと」「こと」と同源の語で、それらもみな具体的なものとして一般からはなれ、それぞれ特殊な形態をとったものに外ならない。」(330頁)とある。
(注12)半世紀前の報道では、犬が人に噛みついてもニュースにはならなかったが、人が犬に噛みついたらニュースになると言われていた。殺人事件がローカルニュースにしかならなかった時代のことである。民法テレビの著名なリポーターの方が使う「事件です!」というせりふは、言い当てて然りなるものである。
(注13)釈日本紀に、「為比比奈遊也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/444)とあり、雛遊びのこととし、四道将軍の派遣を児女の遊戯に喩えたものと解する説がある。
(注14)谷口2008.は、他の説との比較から「諷刺的であるという点において理解し得る見方である。自分の命が狙われているのに、守護するべき将兵を皆各地に派遣してしまっていて、周りにいるのは姫ばかり、という忠告・暗示だと見れば、歌そのものが物語の状況を説いているということになる。」(298頁)としている。大脇2020.は、「整合性がとれていなくてもよいのではないだろうか。一見不可解であるからこそ「歌怪」なのである。そしてその真意を理解できるからこそ[歌の意を解いた倭迹々日百襲姫命は]「聡明叡智、能識未然」と評価されるといえよう。」(35頁、漢字の旧字体は改めた)と開き直っている。
(注15)養老令・公式令の「其三関国。各給関契二枚。」についての解説となる令集解に、「古記云。問。三関国各給契二枚。未知。契状。答。木契也」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570182/16、句点を付した)とある。田良島2011.参照。
(注16)縦挽鋸が開発されていなかったからかどうかといった技術史的な問題はさておき、実際問題として木目に沿って楔を打って割り取る方法で材は得られていた。資源に豊かであれば簡便な方法がとられて十分である。
木目に沿って鑿を入れる(春日権現験記模本、板橋貫雄写、明治3年、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287489/8をトリミング)
(注17)結果的に先学の推測には当たっているところがある。

(引用文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註解』有精堂出版、昭和37年。
居駒2019. 居駒永幸「崇神・仲哀記の歌と散文─表現空間の解読と注釈─」『人文科学論集』第65輯、明治大学経営学部人文科学研究室、2019年3月。
大久保1981. 大久保正『古事記歌謡』講談社(講談社学術文庫)、昭和56年。
大脇2020. 大脇由紀子「崇神天皇条に出現した少女─古事記と日本書紀との比較から─」『中京大学文学会論叢』第6号、2020年3月。中京大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1217/00017840/
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
尾崎1972. 尾崎知光編『全注 古事記』桜楓社、昭和47年。
烏谷2021. 烏谷知子「崇神記紀の謀反を告げる歌謡の機能と崇神天皇像」『学苑』第963号、昭和女子大学、2021年1月。
倉野1963. 倉野憲司校注『古事記』岩波書店(岩波文庫)、1963年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐佐木1995. 佐佐木隆『伝承と言語─上代の説話から─』ひつじ書房、1995年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
全集本古事記 荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳『日本古典文学全集1 古事記 上代歌謡』小学館、昭和48年。
関根1974. 関根真隆『奈良朝服飾の研究 本文編』吉川弘文館、昭和49年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅰ』花鳥社、2020年。
谷口2008. 谷口雅博『古事記の表現と文脈』おうふう、平成20年。
田良島2011. 田良島哲「郵政資料館所蔵の寛文三年固関木契」『郵政資料館研究紀要』第2号、平成23年3月。https://www.postalmuseum.jp/publication/research/2.html
次田1924. 次田潤『古事記新講』明治書院、大正13年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918074
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
中西2007. 中西進『中西進著作集2 古事記をよむ二』四季社、平成19年。(角川書店、1986年刊)
中村2009. 中村啓信訳注『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸文庫(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1979. 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。

※本稿は2020年5月稿「崇神記、記22「御真木入日子はや」歌謡の場面設定と問答解釈について」に「ひめなそび」の項を加え、居駒永幸氏・大脇由紀子氏・烏谷知子氏の論文や多田一臣氏の著作を新たに参照して大幅に加筆したものである。

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