古事記上巻の“本文”の冒頭、「天地初発」については、これまで何と訓んだらいいか、定説を得るに至っていない。「天地初発之時」とあって、「アメツチノ……トキニ」と訓むのであろうと定まっているが、「初発」について要領を得ていない、これまで行われてきた訓みをあげる。
A ヒラクル(兼永筆本、前田本、曼殊院本、猪熊本、内閣本、梵舜本)
B ハジメテヒラクル(寛永版本、延佳本、賀茂真淵・古事記神代、田中1887.、中村2009.)
C ハジメテヒラケシ(道果本、道祥本、春瑜本、富士谷御杖・古事記燈、古典全書本、倉野1963.、次田1977.、西郷2005.)
D ハジメノ(本居宣長・古事記伝、古典全集本、次田1924.、藤村1929.、中島1930.、山田1940.、幸田1943.、武田1943.、尾崎1966.)
E ハジメテオコリシ(澤瀉1945.、武谷1967.、思想大系本、古典集成本、新校古事記)
F ハジメオコリシ(尾崎1982.)
G ハジメテオコル(原口1965.)
H ハジメテオコレル(賀古1957.)
I オコリハジムル(石井1944.)
J ハジマリオコル(石井1944.)
K ハジマル(菅野2017.)
L ハジメテアラハレシ(新編全集本)
古訓に「発」字をヒラクとする傍訓があった。天地開闢のことを言っているのだから、ヒラクで良いのだろうと思われていた。その状況を一気に展開させたのは本居宣長である。「ひがこと」だと言うのである。
○初発之時は、波自米能登伎と訓べし、万葉二……に、天地之初時之云々、十……に、乾坤之初時従云々、書紀孝徳御巻に、与二天地之初一云々などある、これら天地乃波自米と云る古言の拠なり、此に発字を連ねて書るも、たゞ初の意なり、【字書に発は起也と注せり、】事の初を起りとも云、又俗に初発と云も、古より波自米と云に、此二字を用ひなれたるより出たるなるべし、【初発を、ハジメテヒラクルと訓るはひがことなり、其はいはゆる開闢の意に思ひ混へつる物ぞ、抑天地のひらくと云は、漢籍言にして、此間の古言に非ず、上代には、戸などをこそひらくとはいへ、其余は花などもさくとのみ云て、上代にはひらくとは云ざりき、されば万葉の歌などにも、天地のわかれし時とよめるはあれども、ひらけし時とよめるは、一つも無きをや、】さて如此天地之初発と云るは、たゞ先此世【仏書に世界と云て、俗人も常に然いふなり、】の初を、おほかたに云る文にして、此処は必しも天と地との成れるを指て云るには非ず、天と地との成れる初は、次の文にあればなり、(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/75、漢字の旧字体は改めた)
「初発」をハジメと訓む宣長説に対して、現代の研究者は批判をくり返しながら別の訓みを呈示している。文字に「初発」とあるのだから、「発」を無視するかに思える訓みに疑問が持たれたのである。批判するとき舌鋒は鋭い。
中村1975.には、「宣長自身の説、いわば「初発」を「ハジメ」と古言でならば訓みうるというその証拠は、何一つ呈示しないという徹底ぶりなのである。発揚蹈厲之已蚤(史記、巻二十四楽書二)の注に
正義曰、発、初也。
とあるに従えば、「初」と「発」は同一義を有する故に、二字を重ねて連文として捉えられるものであり、「初発」を「ハジメ」と訓むことを可能とするのであるが、宣長は漢籍をもっても訓詁注釈を敢えて撰ばなかったと考えられる。「天地初発之時」は純粋な漢文であるにもかかわらず、である。」(30頁)とある。
ところが、中村氏が呈示している訓みは新訓ではなく、ハジメテヒラクルである。決定打になっていない。ほかに試みられているものも、どれも落ち着きがない訓みである。“古事記学”において難問中の難問とされている。菅野1995.は、「「天地初発之時」をどう訓むかは、単に「訓む」ということにとどまらず、筆録者が、天地のハジマリをどう把え、どう思考し、それをどう読者に伝えようとしているかという問題に行き着くのである。」(105頁)とする。逆に言えば、その時代の常識とされるものの下にただ訓めば、当時の人なら誰もがわかるように、太安万侶は書記を適切にすべく腐心していたということである。当時の言語活動は基本的に無文字状態にあり、声にリサイトしたときに読み上げた人も周りで聞いた人も、そうだそうだと得心することでしか言語たり得なかったからである。
この難問に対して、別の見方をした人はすでにいる。
一人は音読みも可能かもしれないという説である。
三矢1925.に、「之をテンチシヨホツと音読して、意義は通ずべし。さては悪しかるべきか。」(8頁、漢字の旧字体は改めた)とある(注1)。ただ、「古事記の中に音読すべき漢語ありとは覚えず。」(9頁)といい、ハジメと訓む宣長の説明は「やゝ想像説のみと言はるべけれど、我はなほ記伝の説に従はむと欲す。」(11頁)としている。僧侶の読経ではないから、有難いだけで内容がわからないで済ますとは考えられないものである。
もう一人は、考えすぎるのはやめようという説である。
吉井1992.に示唆的な指摘がある。「古事記の「発」の字は出発、発生、出現の意に使用されているので、天地発生の意味で「天地ノハジメテオコリシ」とよむことは可能であるが、「天地初発」を序文の「乾坤初分」と同一視することはできないのである。……この表現は日本書紀の各伝承にみえる「天地初判」や「天地混成」などとあらわされる天地分離型や混沌型の創成伝承と異なって、天地創成のあり方にきわめて具体性を欠く表現となっていることに気づかざるをえない。それは単に天地創成をいうにすぎないといえる。だが、私は実はここに古事記の意図をよみとるべきではないかと思う。この曖昧といえる表現は、かえって古事記のとりえた一つの立場ではなかったか。古事記において天地創成の具体的なあり方は重要ではなかった。ただ神話的叙述を始めるにあたっては、天地創成より説き始める必要があった。そこでこのように、どのようにでも解釈しうる曖昧な表現を敢えて冒頭に立てて、曖昧なるが故に解釈の多様性を残しつつ、さらに重要なる「高天原」と「別天神五柱」の設定に重点を移したのではなかったか。」(11頁)
筆者は、この議論の結論(注2)にではなく、着眼点に刮目する。「天地初発」は曖昧な表現なのである。ならば曖昧なものとして受けとることが求められているのではないか。吉井氏の論文の初出は1978年である。しかし、それ以降これまで、曖昧なものだとわきまえながら訓もうと試みた形跡は見られない。研究者の性なのか、いかに精緻にするか、出典をさらに調査し、理屈をこねて納得しようとする向きばかりになっている。そして本居宣長に対する批判は続いている。
上に中村氏が述べているように、「天地初発之時」が純粋な漢文であるかどうか、筆者は見極めることができない。どこまでが純粋な漢文で、どこからが和風の漢文なのか一概には言えないものである。冷やし中華や中華丼と呼ばれる料理が日本生まれであることもある。すでに書いてあるものを見て判断するしかないから、文の前後を見渡して、このあたりは純粋な漢文を“目指して”書いてあるとか、このあたりは和風に書いてあるといったことは、一応はわかるといった感じのものである。「籠毛與美籠母乳……」(万1)や「故二柱神立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以画者塩許々袁々呂々邇此七字以音画鳴訓鳴云那志而引上時……」(記上)は和風だと認識できる。「籠もよ み籠もち ……」(万1)、「故、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下して画きしかば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げし時に、……」(記上)と訓まれている。
古事記の全体のなかでも、上巻の「序并」の「序」部分は純粋な漢文を“目指して”書いてある。漢籍にある「表」に範をとっていると考えられている。その部分は音読みをまじえて読んでもかまわないのだろう。それ以降の部分は、下巻末まで訓読みされることが期待されていると思われる。すなわち、古事記の序と本文の関係は、万葉歌の題詞と歌との関係と同じである。
真福寺本古事記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/8をトリミング結合)(注3)
ところが、古事記の体裁は、なぜそのような形態を採ったのか定かではないが、上巻に「序」が「并」されており、最も古い写本の真福寺本では唐突に序は終わり本文が始まっている。句読点もなかった時代である。漢字が面になってあらわれている。太安万侶は、「臣安万侶言……臣安万侶誠惶誠恐頓々首々和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安万侶」と自分の言い分を記し、断りのないまま本文になだれ込んで「天地初発之時……」と続けている。「臣安万侶……臣安万侶」部分が序だとはわかることはわかるが、真福寺本では改行さえしていない(注4)。読みにくさを解消するために、太安万侶は体裁によって理解しやすくする道を選ばず、文によってわかるようにしたようである。
すなわち、「天地初発」という書き方は、それ自体が、ここからが本文ですよ、というマーカーの機能を担っているのである(注5)。
それは、「閑話休題」といった挿入句とは似て非なるものである。もともと話をしていて、脱線して余談に入り、そこからもとの話に戻るときに使われる。いま、古事記ではもともとの話というものがない。あるのは太安万侶の序である。これからしたいのは稗田阿礼の話である。「舎人稗田阿礼言」といった句を添えたりせず、何の疑いもなく本文がはじまっている。
筆者が唱えようとしているマーカーの機能とは、「発」の字がこの文の意を表して内容を決めてゆくことに由来するものではない。文字に色が塗られていようが内容に異同はないが、色が塗られていると、ここは注意が必要だと喚起されるものである。そこまで書き進めてきた序と、これから書いていく本文とは次元が異なるということである。西宮1993.に、「冒頭であるから、私の言ふ「文脈論的解釈」の対象ではない。この「初発」については「訓読論」に譲らなくてはならない。」(298頁)としている(注6)が誤りである。連続していて冒頭ではない。
すなわち、文章の中に、その文章が書かれている文体の枠組みまでも入れ込んで示す文として「初発」なる書き方が施され、段の区切りのためのマーカーとなっていると考えられるのである。「舎人稗田阿礼言」と書いて以下をコーテーションで括るべしと示すことはない。伝え聞いたのは次のことです、といった他人事ではなく、全部まるごと“古事記”そのものなのです、と謂わんばかりの機能を果たしている。稗田阿礼の口を借りているが、フルコトそのまま原形として残しているのであって、そのとき、話している稗田阿礼も書いている太安万侶も姿を消して黒子と化していなければならない。話が始まったこと、その文体が話し言葉であることなどが、端的に自明なこととしてよくわかるように、「初発」と記された。
そう言えるのは、「発」はハツと音読みでき、「初」もハツと訓読みできるからである。
初国を知らす御真木天皇(崇神記)
初花の〔初花之〕 散るべきものを 人言の 繁きによりて よどむころかも(万630)
さを鹿の 入野のすすき 初尾花〔初尾花〕 いつしか妹が 手を枕かむ(万2277)
初穂をば千穎八百穎に奉り置きて、……(延喜式・祝詞・祈年祭)
初 ハシメ、ハツヲ(法華経単字)
よって、「初発」という字面は、鈴木1969.の指摘にあるように、同義の漢字を二つ重ねて一つの意味を表わす連文と呼ばれる熟語であることを自ら主張しているものである(注7)。「初発」という字面をパッと見れば、ハツハツ!? という気が起こる。
白栲の 袖をはつはつ〔袖小端〕 見しからに かかる恋をも 吾はするかも(万2411)
はつはつに〔波都波都尓〕 人を相見て いかにあらむ いづれの日にか また外に見む(万701)
この山の 黄葉の下の 花を我 はつはつに見て〔小端見〕 なほ恋ひにけり(万1306)
然るに聖帝の神霊に頼りて、僅かに還り来ること得たり。(垂仁紀九十九年明年三月熱田本訓)
ハツハツ、ハツハツニ、ハツカニは、ほんのわずか、ちょっと、かろうじて、といった意である。広がりの全体ではなく端っこのところばかりという意から導かれた語であろう。そのハツ、ハツハツを時間的に見た時、目にもとまらぬ速さでハッとよぎること、一瞬のことを捉えた言葉であって端的なことを指している。ハツ、ハツハツという語感は、馳すこと、走ることがイメージできる。勢いよく走る、飛び散る、湧き出る、噴き出す、跳ねかえるといった領域を示す。地名のハツセ(泊瀬)のことはハセ(長谷)と約しても呼ばれている。「隠りくの 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山 隠りくの 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し」(紀77)とあるように、馬の馳せることとからめて形状を形容していた(注8)。したがって「天地初発」とあれば、「天地」がパッと出現した躍動感を表しているといえる。テレビのリモコンを押して画面がパッと点く時のように、「天地」がパッと出てきている(注9)。紀の表現に「開闢」、「初判」とすれば、ヒラク、ワカル、オコル、アラハル、ナルなど、いずれの言葉で表しても間違いではない。ただし、その動詞的形容は求められていない。そのことは、その主語が「天地」である点にも明らかなことである。それが「世界」であれば、世界とは何か、それは開かれたものであり、分かれたものであり、起こったものであり、現れたものであり、成ったものであると“説明”されてよくて“説明”される必要がある。一方、「天地」と言えば、言ったと同時に「天」と「地」のことなのだと“説明”は完了している。開かれていない「天地」はなく、分かれていない「天地」はなく、起こっていない「天地」はなく、現れていない「天地」はなく、成っていない「天地」はない。「天」と「地」とがあるから「天地」と言っている。言葉と事柄とは一体のものであるという厳密な意味での言霊信仰にあっては、「天地」という言葉を発しておいて「天」と「地」という実体が生じていないことなどあり得ないのである。彼らは、発語に誤謬が生じる使い方はしなかった。
すなわち、「天地」という言葉にその生成に関する動詞が連続することは、冗漫にして愚かな物言いなのである(注10)。よって、「天地初発」という書き方においては、パッという形状言を表現したくて「初発」と記している。「初」というにふさわしく新しいもの、はじめてのものが現れ、「発」というにふさわしくパッと瞬き現れている。出現の様子のすばやさ、その前がどうであったかと問わせないほどの勢いを感じさせている。「天地初発之時」とは、宇宙、世界が成ってしまったビッグバンの時という意味であって、そのすごさは筆舌に尽くせないからそのとき何があったかも、その前はどうだったかも、微に行って説明することはない。紀では「天地」の前は漢語の「渾沌」(神代紀第一段本文)で表している。語りえないことを語ろうとすることがなかったのは、言葉が事柄と一致するように考えていた真の意味の言霊信仰のもとにあった人々の思考枠組みであった。そして、その後のことをこれから述べるにあたっての前置きとして、和風の文章の冒頭に「初発」と君臨させて記している。マーカーとしての役目をきちんと果たさせるためである。
(映画「シェーン」冒頭GIF画像)
具体的に何と訓まれることを太安万侶は求めているか。本居宣長の勘はそれなりに冴えていて半分ぐらいは正解である。「天地初発の時に」としていて、どのように始まったのかを一切表さないようにしている。筆者はもう少しラディカルに訓みたい。「初発」はハツハツ、ないしはハツと訓まれたとき、「天地」ばかりではなく本文の始まることまでも示し得るからである。二案提唱しておく。
M 天地初発の時に、
N 天地初発としてはじめし時に、
Mの案は、ハツという語があったと想定している。「初をはつとつかへる□如何。それは、はじむの義なれば、心ひとつなる故に、はつにもちゐたる也」(名語記、1275年)、「毛詩云、情発二於声一、声成レ文、謂二之音一。」(音曲声出口伝、1419年)、「そこら立とまりて見けるものども、一度にはつと笑ひけるとか。」(宇治拾遺物語・一・十五、1221頃)、「Miacoye maitta cotoua ima fatçude gozaru. 都へ参ったことは今初でこざる。」(日葡辞書、1603~1604年)といった例が辞書に採られている。上代に、ハ音は現代のパであることが知られており、アメツチ「パッ」ノトキニと誦んだのであろう。
Nの案は文選読みである。上代に文選読みが行われていたとする証拠は得られていない。
(注)
(注1)三矢氏は、記伝を踏襲したからか、古事記が法華経や最勝王経などの漢訳仏典にある言葉を使って記されている特徴を見たからか、ショホツと呉音読みをしている。しかるに、ここにある「初発」が仏典をそのまま利用したとは認められず、だからこそ訓みも定まらない。
(注2)結論から導き出されそうな議論に次のようなものがある。古事記は天地の始まったことからしか語らないが、日本書紀は天地がいかに始まるかという創世神話を述べている。両者には論理に根本的な違いがあるから、古事記は日本書紀とは切り離して完結した作品として読まなければならない(神野志隆光氏説)。
わが国の古代に生まれ、よく似ている二つの文献について、差異ばかり際立たせても建設的とは言えないだろう。なぜ似ているのか。同時代に所与である思考の枠組みのなかに思考しているからである。「人間はどんな場合でも、「無」から思考し、行動しているのではなく、一定の歴史的=社会的条件の下でそうしているが、このような歴史的条件というのは、たんに彼をとり囲む社会的環境として存在しているのではなくて、彼に先行する歴史的時間において蓄積されたさまざまの思考のパターンとして、主体の内側に入りこんでいる。ちょうど眼鏡をかけている人が、べつだん眼鏡を意識しないでものを見ているように、われわれはほとんど無意識的にそうしたパターンに依拠しながら状況に対応しているわけである。どんな時代のどんな人間もそうした意味での「伝統的」なパターンから完全に自由ではない。したがってこれは日本に実質的な教義やドグマの伝統があったかどうかという問題とは一応別個の事柄である。」(丸山1998.12頁)
基本的に無文字の時代である。文字で理解するのではなくて声で理解するときにしばしば言い回しが少し違うことは、今日の口頭言語の世界でもよくあることである。そのとき、“話が違う”のでは、そうだそうだということにならない。お話にならないことになる。
古事記の“本文”の冒頭の「天地初発之時」の話は、「天地初発」について、どのような力が働いたから起こったかを語るものではない。生まれてきた神は「天地初発之時」に生まれてきたと言っているだけであって、生まれてきた神が「天地」を「初発」させたのではない。文章としてそう書いてあり、言語以前に観念があるわけでもない。宣長が「天と地との成れる初は、次の文にあればなり、」と後から説明しているとするのは誤りである。したがって、谷1971.が、「「はじめ」はいかにあつたかといふことについての認識が、その人の意識・生活に、決定的な力をもたらすものであらう。この問題について、神道の神話は、神道としての基本的な解答を用意する。しかも、その点をつきつめて、最も整つたかたちで表現してゐるのは、『古事記』であらう。」(41頁)としていることも誤りである。
また、日本書紀において、創世神話部分とされるところが、本当の意味、重みをもって述べられているとも思われない。紀本文によると、昔は天地がくっついていて陰陽が分かれておらず、混沌として鶏卵のようにはっきりしないけれどやがて生まれる兆候は含み持っていた。そのうちの澄んで明るいところがたなびいて天となり、重く濁ったところは地となる方向へ進んでいく。そのとき、それぞれの性質上、天が先にできあがり、地が後で定まった。その後、その中に神が生まれた、といった説明が行われている。こういう話を聞いて、聞いた人が思ったであろうことは、へぇー、そうなんだ、であろう。天地創世の神話が述べられているのではなく、天地創世の説明が述べられている。「天地初発」がどのように起こったかを説明しない古事記と、“話が違う”わけではないから違和感なく受け入れられる。記紀の間に著しい論理の違いがあるわけでも、相反する論理が屹立しているわけでもない。古代の人のなかに古事記の言い分を信じる人と日本書紀の言い分を信じる人とが対立して争っていた、などといった事情は寡聞にして知らない。話(咄・噺・譚)とはその程度のものであり、理屈が勝つことはない。洋の東西今昔を問わず、理屈っぽい話が世の中を席巻して人々に受け入れられていたなどと想像することはできない。古代国家、わけても天皇制の正統性を説く思想書に位置づけようにも、荒唐無稽にしてくだらなく、天皇やその一族への悪口が間欠的に噴き出していてどうにもならない。現代になってから古代の教義を創作する必要はない。
(注3)以下のようによめる。
中巻とし、大雀皇帝より以下、小治田大宮より以前を下巻とし、并せて三巻に録し、謹みて献上る。臣安万侶、誠惶誠恐、頓首々々す。和銅五年正月廿八日、正五位上勳五等太朝臣安万侶。天地初発之時、高天原に成りし神の名は天之御中主神、高の下の天を訓みてあまと云ふ。下、此に倣ふ。次に高御産巣日神、次に神産巣日神なり。此の三柱の神は、並びに独神と成り坐して、身を隠したまひき。次に国稚く浮く脂の如くして、くらげなすただよへる時に 流の字の以上の十字は音を以ゐる。葦牙の如く萌え騰る物に因りて成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、此の神の名は音を以ゐる。次に天之常立神、 常を訓みてとこと云ひ、立を訓みたちと云ふ。此の二柱の神も亦、並びに独神と成り坐して、身を隠したまひき 。
上の件の五柱の神は、別天つ神。
次に成りし神の名は国之常立神、常立を訓むこと、亦上の如し。次に豊雲上野神。此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠したまふ。次に神成りし神の名は、宇比地迩上神、次に妹須比智迩去神。此の二神の名は音を以ゐる。次に角杙神、次に妹活杙。二柱 次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。此の二神の名も亦、音を以ゐる。次に於母陀流神、次に妹阿夜上訶志古泥神。此の二神の名は皆、音を以ゐる。次に伊耶那岐神、次に妹伊耶那美神。此の二神の名も亦、音を以ゐること上の如し。上の件の、国之常立神より以下、伊耶那美神より以前は、并せて神世七代と称ふ。上の二柱の独神は、各一代と云ふ。次の双べる十神は、各二神を合せて一代と云ふ。是に、天神諸の命以ちて、伊耶那岐命、伊耶那美命の二柱の神に詔りたまはく、「是のただよへる国を修理ひ固め成せ」とのりたまふ。
(注4)そもそも、和文に長文の文章を書いたことがなかった。したがって、和文において改行の習慣があったかどうか不明である。天寿国繍帳の銘文は当時において比較的長いから参考にされるべきものである。拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」参照。
写本の形でしか残らない古事記は、真福寺本(1371年)の原文では図のとおり序と連続しているが、兼方筆本(1522年)では、序の終わりの「頓首頓首」で改行し、一字下がりで二行にわたって「和銅五年正月廿八日正五位上勳/五等太朝臣安萬侶」とあり、改行して本文の「天地初発之時……」へと続いている。
(注5)ここからが本文ですよ、という言い方に似て、平安時代には、話のはじめを「今は昔」、「いづれの御時にか」で書き始めていた。青木2015.に、やはり宣長を批判した言説がある。「「たゞ先ヅ此ノ世の初を、おほかたに云る文」とは、物語のはじめに常套的に使われる「今は昔」とか「いづれの御時にか」という表現と同レベルでの理解であろう。宣長は、「発」を「ヒラクル」と訓むのは、「開闢の意に思ひ混へ」 たもので、「古言」ではないともいう。「発」に「開闢」の意がないとするのは、「発」を「オコリシ」(発生する意) と訓む説も同様である。が、「起」に通じる「発」の用法からしても、漢籍とのかかわりにおいては、「オコル」訓と 「ヒラクル」訓とはあまり違いがないと思われる。「発」を「ヒラクル」と訓む説は、明確に開闢説をふまえている点において、宣長説の対極の立場にある。「発」を「ヒラク」と訓む説の特徴の一つが、序文の用例(一)[大抵所レ記者、自二天地開闢一始以訖二于小治田御世一。]を第一等の資料とした点にある。「ハジメ」訓や「オコリシ」訓の立場からは、序文は漢文体で修飾されており、資料にはならないという。しかしこの見方には、宣長のいう漢意批判や、『古事記』が『日本書紀』よりも日本の古い思想を伝えているという思い入れがあるように思われる。序文・本文共に太安萬侶という同一人物が書いたものである以上、そこにみえる思想が別物であると考えることには、どうしても無理を感じる。むしろ、(一)のような漢文体表記を和語化しようとした表現として「初発之時」をみる方が、より自然ではなかろうか。」(63~64頁)とある。
近視眼的な見方をしていると、物語のはじめとは何かという根本に近づけない。思想という言葉で考えるなら、どのような思想かという問題ではなく、思想があるかないかというのが根本である。北野2015.は、「古代日本人は、天の成り立ちの具体的なイメージなど持ち合わせていなかった。……古代の知識人達が、世界のはじまりを漢語で表現するとき、「天地開闢」「天地初判」[「乾坤初分」]の表記を選びとるであろうことは容易に想像できる。……『芸文類聚』所載の『三五暦記』や『淮南子』の記事を換骨奪胎して、天の成り立ちの物語を作り上げたのが……[記紀の冒頭]の部分であるに相違ない。天の成り立ちは、中国側の文献の力を借りなければ表現しえなかったという事情が透けてみえる。」(184頁)としている。そして、宣長の「天地初発之時」訓に賛同している。
(注6)西宮氏は訓読の結論としては、「万物妖悉発」(記上)にあるように、「潜在している物が新しく活動を始める」意に当たり、「「天地が活動を始めた時に」の意味で安萬侶が表現しようとして「天地初発之時」と表記したと理解できる。それで、「天地初めて発りし時に」という「訓読」でその理解の成果が示されることになるのである。これが私の言ふ〈唯一の訓読〉の方法である。」(483頁)としている。
(注7)鈴木氏は、「初発」が一つの熟語である可能性を探って仏典を渉猟し、(1)初期点本の加点者によって初発に連合符がつけられている例がある、(2)「初発心」とは初の発心ではなく初発の心とみられる例がある、(3)「初発」は「発初」と語順を変改して使用される例がある、(4)「初」と「発」とは辞書、注疏によって同義だと思われる、(5)「初発心」は「初心」と同義に使用された例がある、(6)「初発」が「畢意」、「究竟」と対句をなして使用される例がある、という特徴を抽出し、さらに、(7)古事記には連文とみられる熟語例が多くあることから、記の「初発」を連文とみることができるとしている。太安万侶がどこまで仏典に精通していたか、その程度を確かめることができないが、そのことが問題ではなく、太安万侶がわざわざ「初発」などと見慣れない書き方をしながら人にわかってもらおうとしていたという事実を重視すべきであろう。彼は「初発」と書いて当を得たと喜んでいたと推測する。
鈴木氏は古事記上巻から連字の例をあげている。修理、累積、卜相、如此、匍匐、患惚、禊祓、歓喜、設備、衣服、幸行、嫉妬、束装、装束、 共与、以為、淹留、委曲、詔命、仕奉、和平、麗美、惚苦、惶畏、治養。品詞にこだわりはない。書いて喜び、テンションがあがるほどに得意になれたから、もの珍しい熟語を記しているものと思われ、「初発」には安万侶自身のハッとする気づきが盛り込まれていると考えられる。カテゴリーミステイクを作為していくことは、上代日本語の特徴であったからである。無文字時代にあって、言葉を言葉のなかで自己完結的に説明し切るために採った高度な言語テクニックであった。「無端事」(天武紀朱鳥元年春正月)と呼ばれたなぞなぞに正解があるのは、カテゴリーを自在に行き来する頓智力を持っていたということである。川柳四天王の番組に一文字の疑義なく“正解”があるのは、二つの意味が掛かっていると誰もが認めるからである。
(注8)拙稿「枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ」参照。
(注9)「天地」がパッ(💡)の時とは、パッ(💡)の瞬間である。その天が高天原であるとか、地が国であるとか、そのようなことはまだわからず見定められない。後から説明されている。話のはじめの合図とさえ言えるもので、その意味では「今は昔」に似ているものの、話をする前提で「今は昔」という言葉は使われる。話をするという前提までもひっくるめて話のはじめの文句に入れ込んだのが、パッ(💡)であった。機能としては、万葉歌の、序の形式の題詞から歌への改行のほうがまだしも似ている。ただ、そこには「其歌曰」などと記すことで枠組んでいる。パッ(💡)とあれば枠組みまでもまぶしくて見えない。稗田阿礼は、目を見開いたり、手を打ち広げたりの動作をまじえ、急に破裂音を発して驚かせて注目させるほどで、その“声”はとても印象深いものであったようである。そして、パッ(💡)の前のことは語らない。光が当たる前のことは不確定性原理並みにわからない。稗田阿礼は「為人聡明」であった。
(注10)菅野2017.に、「「初発」を動詞とすることは定説となっている」(41頁)などとあって驚かされる。
二項対立の語を一語としてあげるとき、それぞれの項が成立していることを前提として言葉は使われている。「東西」と言ったときにはすでに方角の観念が、「男女」と言ったときにはすでに性別の観念があって、そのもとに語られている。それ以前の「未分」の状態からの発生を述べるには、その言葉の表す抽象的な全体概念によらなければならない。その言葉をそのまま使って成立時点や成立以前を問うことは、滑稽にして老荘思想的に哲学的である。具体性を重んじていたヤマトコトバに上位の概念の抽象語があったのかさえ問われなければならないであろう。むしろすでに上代の人たちは気づいていて、淮南子などを眉唾論理と認めながら“出典”として“引用”していたのではなかろうか。現代の出典論研究は論理学的に平板で気にかけていないようであるが、筆者の関知するところではない。
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B ハジメテヒラクル(寛永版本、延佳本、賀茂真淵・古事記神代、田中1887.、中村2009.)
C ハジメテヒラケシ(道果本、道祥本、春瑜本、富士谷御杖・古事記燈、古典全書本、倉野1963.、次田1977.、西郷2005.)
D ハジメノ(本居宣長・古事記伝、古典全集本、次田1924.、藤村1929.、中島1930.、山田1940.、幸田1943.、武田1943.、尾崎1966.)
E ハジメテオコリシ(澤瀉1945.、武谷1967.、思想大系本、古典集成本、新校古事記)
F ハジメオコリシ(尾崎1982.)
G ハジメテオコル(原口1965.)
H ハジメテオコレル(賀古1957.)
I オコリハジムル(石井1944.)
J ハジマリオコル(石井1944.)
K ハジマル(菅野2017.)
L ハジメテアラハレシ(新編全集本)
古訓に「発」字をヒラクとする傍訓があった。天地開闢のことを言っているのだから、ヒラクで良いのだろうと思われていた。その状況を一気に展開させたのは本居宣長である。「ひがこと」だと言うのである。
○初発之時は、波自米能登伎と訓べし、万葉二……に、天地之初時之云々、十……に、乾坤之初時従云々、書紀孝徳御巻に、与二天地之初一云々などある、これら天地乃波自米と云る古言の拠なり、此に発字を連ねて書るも、たゞ初の意なり、【字書に発は起也と注せり、】事の初を起りとも云、又俗に初発と云も、古より波自米と云に、此二字を用ひなれたるより出たるなるべし、【初発を、ハジメテヒラクルと訓るはひがことなり、其はいはゆる開闢の意に思ひ混へつる物ぞ、抑天地のひらくと云は、漢籍言にして、此間の古言に非ず、上代には、戸などをこそひらくとはいへ、其余は花などもさくとのみ云て、上代にはひらくとは云ざりき、されば万葉の歌などにも、天地のわかれし時とよめるはあれども、ひらけし時とよめるは、一つも無きをや、】さて如此天地之初発と云るは、たゞ先此世【仏書に世界と云て、俗人も常に然いふなり、】の初を、おほかたに云る文にして、此処は必しも天と地との成れるを指て云るには非ず、天と地との成れる初は、次の文にあればなり、(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/75、漢字の旧字体は改めた)
「初発」をハジメと訓む宣長説に対して、現代の研究者は批判をくり返しながら別の訓みを呈示している。文字に「初発」とあるのだから、「発」を無視するかに思える訓みに疑問が持たれたのである。批判するとき舌鋒は鋭い。
中村1975.には、「宣長自身の説、いわば「初発」を「ハジメ」と古言でならば訓みうるというその証拠は、何一つ呈示しないという徹底ぶりなのである。発揚蹈厲之已蚤(史記、巻二十四楽書二)の注に
正義曰、発、初也。
とあるに従えば、「初」と「発」は同一義を有する故に、二字を重ねて連文として捉えられるものであり、「初発」を「ハジメ」と訓むことを可能とするのであるが、宣長は漢籍をもっても訓詁注釈を敢えて撰ばなかったと考えられる。「天地初発之時」は純粋な漢文であるにもかかわらず、である。」(30頁)とある。
ところが、中村氏が呈示している訓みは新訓ではなく、ハジメテヒラクルである。決定打になっていない。ほかに試みられているものも、どれも落ち着きがない訓みである。“古事記学”において難問中の難問とされている。菅野1995.は、「「天地初発之時」をどう訓むかは、単に「訓む」ということにとどまらず、筆録者が、天地のハジマリをどう把え、どう思考し、それをどう読者に伝えようとしているかという問題に行き着くのである。」(105頁)とする。逆に言えば、その時代の常識とされるものの下にただ訓めば、当時の人なら誰もがわかるように、太安万侶は書記を適切にすべく腐心していたということである。当時の言語活動は基本的に無文字状態にあり、声にリサイトしたときに読み上げた人も周りで聞いた人も、そうだそうだと得心することでしか言語たり得なかったからである。
この難問に対して、別の見方をした人はすでにいる。
一人は音読みも可能かもしれないという説である。
三矢1925.に、「之をテンチシヨホツと音読して、意義は通ずべし。さては悪しかるべきか。」(8頁、漢字の旧字体は改めた)とある(注1)。ただ、「古事記の中に音読すべき漢語ありとは覚えず。」(9頁)といい、ハジメと訓む宣長の説明は「やゝ想像説のみと言はるべけれど、我はなほ記伝の説に従はむと欲す。」(11頁)としている。僧侶の読経ではないから、有難いだけで内容がわからないで済ますとは考えられないものである。
もう一人は、考えすぎるのはやめようという説である。
吉井1992.に示唆的な指摘がある。「古事記の「発」の字は出発、発生、出現の意に使用されているので、天地発生の意味で「天地ノハジメテオコリシ」とよむことは可能であるが、「天地初発」を序文の「乾坤初分」と同一視することはできないのである。……この表現は日本書紀の各伝承にみえる「天地初判」や「天地混成」などとあらわされる天地分離型や混沌型の創成伝承と異なって、天地創成のあり方にきわめて具体性を欠く表現となっていることに気づかざるをえない。それは単に天地創成をいうにすぎないといえる。だが、私は実はここに古事記の意図をよみとるべきではないかと思う。この曖昧といえる表現は、かえって古事記のとりえた一つの立場ではなかったか。古事記において天地創成の具体的なあり方は重要ではなかった。ただ神話的叙述を始めるにあたっては、天地創成より説き始める必要があった。そこでこのように、どのようにでも解釈しうる曖昧な表現を敢えて冒頭に立てて、曖昧なるが故に解釈の多様性を残しつつ、さらに重要なる「高天原」と「別天神五柱」の設定に重点を移したのではなかったか。」(11頁)
筆者は、この議論の結論(注2)にではなく、着眼点に刮目する。「天地初発」は曖昧な表現なのである。ならば曖昧なものとして受けとることが求められているのではないか。吉井氏の論文の初出は1978年である。しかし、それ以降これまで、曖昧なものだとわきまえながら訓もうと試みた形跡は見られない。研究者の性なのか、いかに精緻にするか、出典をさらに調査し、理屈をこねて納得しようとする向きばかりになっている。そして本居宣長に対する批判は続いている。
上に中村氏が述べているように、「天地初発之時」が純粋な漢文であるかどうか、筆者は見極めることができない。どこまでが純粋な漢文で、どこからが和風の漢文なのか一概には言えないものである。冷やし中華や中華丼と呼ばれる料理が日本生まれであることもある。すでに書いてあるものを見て判断するしかないから、文の前後を見渡して、このあたりは純粋な漢文を“目指して”書いてあるとか、このあたりは和風に書いてあるといったことは、一応はわかるといった感じのものである。「籠毛與美籠母乳……」(万1)や「故二柱神立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以画者塩許々袁々呂々邇此七字以音画鳴訓鳴云那志而引上時……」(記上)は和風だと認識できる。「籠もよ み籠もち ……」(万1)、「故、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下して画きしかば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げし時に、……」(記上)と訓まれている。
古事記の全体のなかでも、上巻の「序并」の「序」部分は純粋な漢文を“目指して”書いてある。漢籍にある「表」に範をとっていると考えられている。その部分は音読みをまじえて読んでもかまわないのだろう。それ以降の部分は、下巻末まで訓読みされることが期待されていると思われる。すなわち、古事記の序と本文の関係は、万葉歌の題詞と歌との関係と同じである。

ところが、古事記の体裁は、なぜそのような形態を採ったのか定かではないが、上巻に「序」が「并」されており、最も古い写本の真福寺本では唐突に序は終わり本文が始まっている。句読点もなかった時代である。漢字が面になってあらわれている。太安万侶は、「臣安万侶言……臣安万侶誠惶誠恐頓々首々和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安万侶」と自分の言い分を記し、断りのないまま本文になだれ込んで「天地初発之時……」と続けている。「臣安万侶……臣安万侶」部分が序だとはわかることはわかるが、真福寺本では改行さえしていない(注4)。読みにくさを解消するために、太安万侶は体裁によって理解しやすくする道を選ばず、文によってわかるようにしたようである。
すなわち、「天地初発」という書き方は、それ自体が、ここからが本文ですよ、というマーカーの機能を担っているのである(注5)。
それは、「閑話休題」といった挿入句とは似て非なるものである。もともと話をしていて、脱線して余談に入り、そこからもとの話に戻るときに使われる。いま、古事記ではもともとの話というものがない。あるのは太安万侶の序である。これからしたいのは稗田阿礼の話である。「舎人稗田阿礼言」といった句を添えたりせず、何の疑いもなく本文がはじまっている。
筆者が唱えようとしているマーカーの機能とは、「発」の字がこの文の意を表して内容を決めてゆくことに由来するものではない。文字に色が塗られていようが内容に異同はないが、色が塗られていると、ここは注意が必要だと喚起されるものである。そこまで書き進めてきた序と、これから書いていく本文とは次元が異なるということである。西宮1993.に、「冒頭であるから、私の言ふ「文脈論的解釈」の対象ではない。この「初発」については「訓読論」に譲らなくてはならない。」(298頁)としている(注6)が誤りである。連続していて冒頭ではない。
すなわち、文章の中に、その文章が書かれている文体の枠組みまでも入れ込んで示す文として「初発」なる書き方が施され、段の区切りのためのマーカーとなっていると考えられるのである。「舎人稗田阿礼言」と書いて以下をコーテーションで括るべしと示すことはない。伝え聞いたのは次のことです、といった他人事ではなく、全部まるごと“古事記”そのものなのです、と謂わんばかりの機能を果たしている。稗田阿礼の口を借りているが、フルコトそのまま原形として残しているのであって、そのとき、話している稗田阿礼も書いている太安万侶も姿を消して黒子と化していなければならない。話が始まったこと、その文体が話し言葉であることなどが、端的に自明なこととしてよくわかるように、「初発」と記された。
そう言えるのは、「発」はハツと音読みでき、「初」もハツと訓読みできるからである。
初国を知らす御真木天皇(崇神記)
初花の〔初花之〕 散るべきものを 人言の 繁きによりて よどむころかも(万630)
さを鹿の 入野のすすき 初尾花〔初尾花〕 いつしか妹が 手を枕かむ(万2277)
初穂をば千穎八百穎に奉り置きて、……(延喜式・祝詞・祈年祭)
初 ハシメ、ハツヲ(法華経単字)
よって、「初発」という字面は、鈴木1969.の指摘にあるように、同義の漢字を二つ重ねて一つの意味を表わす連文と呼ばれる熟語であることを自ら主張しているものである(注7)。「初発」という字面をパッと見れば、ハツハツ!? という気が起こる。
白栲の 袖をはつはつ〔袖小端〕 見しからに かかる恋をも 吾はするかも(万2411)
はつはつに〔波都波都尓〕 人を相見て いかにあらむ いづれの日にか また外に見む(万701)
この山の 黄葉の下の 花を我 はつはつに見て〔小端見〕 なほ恋ひにけり(万1306)
然るに聖帝の神霊に頼りて、僅かに還り来ること得たり。(垂仁紀九十九年明年三月熱田本訓)
ハツハツ、ハツハツニ、ハツカニは、ほんのわずか、ちょっと、かろうじて、といった意である。広がりの全体ではなく端っこのところばかりという意から導かれた語であろう。そのハツ、ハツハツを時間的に見た時、目にもとまらぬ速さでハッとよぎること、一瞬のことを捉えた言葉であって端的なことを指している。ハツ、ハツハツという語感は、馳すこと、走ることがイメージできる。勢いよく走る、飛び散る、湧き出る、噴き出す、跳ねかえるといった領域を示す。地名のハツセ(泊瀬)のことはハセ(長谷)と約しても呼ばれている。「隠りくの 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山 隠りくの 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し」(紀77)とあるように、馬の馳せることとからめて形状を形容していた(注8)。したがって「天地初発」とあれば、「天地」がパッと出現した躍動感を表しているといえる。テレビのリモコンを押して画面がパッと点く時のように、「天地」がパッと出てきている(注9)。紀の表現に「開闢」、「初判」とすれば、ヒラク、ワカル、オコル、アラハル、ナルなど、いずれの言葉で表しても間違いではない。ただし、その動詞的形容は求められていない。そのことは、その主語が「天地」である点にも明らかなことである。それが「世界」であれば、世界とは何か、それは開かれたものであり、分かれたものであり、起こったものであり、現れたものであり、成ったものであると“説明”されてよくて“説明”される必要がある。一方、「天地」と言えば、言ったと同時に「天」と「地」のことなのだと“説明”は完了している。開かれていない「天地」はなく、分かれていない「天地」はなく、起こっていない「天地」はなく、現れていない「天地」はなく、成っていない「天地」はない。「天」と「地」とがあるから「天地」と言っている。言葉と事柄とは一体のものであるという厳密な意味での言霊信仰にあっては、「天地」という言葉を発しておいて「天」と「地」という実体が生じていないことなどあり得ないのである。彼らは、発語に誤謬が生じる使い方はしなかった。
すなわち、「天地」という言葉にその生成に関する動詞が連続することは、冗漫にして愚かな物言いなのである(注10)。よって、「天地初発」という書き方においては、パッという形状言を表現したくて「初発」と記している。「初」というにふさわしく新しいもの、はじめてのものが現れ、「発」というにふさわしくパッと瞬き現れている。出現の様子のすばやさ、その前がどうであったかと問わせないほどの勢いを感じさせている。「天地初発之時」とは、宇宙、世界が成ってしまったビッグバンの時という意味であって、そのすごさは筆舌に尽くせないからそのとき何があったかも、その前はどうだったかも、微に行って説明することはない。紀では「天地」の前は漢語の「渾沌」(神代紀第一段本文)で表している。語りえないことを語ろうとすることがなかったのは、言葉が事柄と一致するように考えていた真の意味の言霊信仰のもとにあった人々の思考枠組みであった。そして、その後のことをこれから述べるにあたっての前置きとして、和風の文章の冒頭に「初発」と君臨させて記している。マーカーとしての役目をきちんと果たさせるためである。

具体的に何と訓まれることを太安万侶は求めているか。本居宣長の勘はそれなりに冴えていて半分ぐらいは正解である。「天地初発の時に」としていて、どのように始まったのかを一切表さないようにしている。筆者はもう少しラディカルに訓みたい。「初発」はハツハツ、ないしはハツと訓まれたとき、「天地」ばかりではなく本文の始まることまでも示し得るからである。二案提唱しておく。
M 天地初発の時に、
N 天地初発としてはじめし時に、
Mの案は、ハツという語があったと想定している。「初をはつとつかへる□如何。それは、はじむの義なれば、心ひとつなる故に、はつにもちゐたる也」(名語記、1275年)、「毛詩云、情発二於声一、声成レ文、謂二之音一。」(音曲声出口伝、1419年)、「そこら立とまりて見けるものども、一度にはつと笑ひけるとか。」(宇治拾遺物語・一・十五、1221頃)、「Miacoye maitta cotoua ima fatçude gozaru. 都へ参ったことは今初でこざる。」(日葡辞書、1603~1604年)といった例が辞書に採られている。上代に、ハ音は現代のパであることが知られており、アメツチ「パッ」ノトキニと誦んだのであろう。
Nの案は文選読みである。上代に文選読みが行われていたとする証拠は得られていない。
(注)
(注1)三矢氏は、記伝を踏襲したからか、古事記が法華経や最勝王経などの漢訳仏典にある言葉を使って記されている特徴を見たからか、ショホツと呉音読みをしている。しかるに、ここにある「初発」が仏典をそのまま利用したとは認められず、だからこそ訓みも定まらない。
(注2)結論から導き出されそうな議論に次のようなものがある。古事記は天地の始まったことからしか語らないが、日本書紀は天地がいかに始まるかという創世神話を述べている。両者には論理に根本的な違いがあるから、古事記は日本書紀とは切り離して完結した作品として読まなければならない(神野志隆光氏説)。
わが国の古代に生まれ、よく似ている二つの文献について、差異ばかり際立たせても建設的とは言えないだろう。なぜ似ているのか。同時代に所与である思考の枠組みのなかに思考しているからである。「人間はどんな場合でも、「無」から思考し、行動しているのではなく、一定の歴史的=社会的条件の下でそうしているが、このような歴史的条件というのは、たんに彼をとり囲む社会的環境として存在しているのではなくて、彼に先行する歴史的時間において蓄積されたさまざまの思考のパターンとして、主体の内側に入りこんでいる。ちょうど眼鏡をかけている人が、べつだん眼鏡を意識しないでものを見ているように、われわれはほとんど無意識的にそうしたパターンに依拠しながら状況に対応しているわけである。どんな時代のどんな人間もそうした意味での「伝統的」なパターンから完全に自由ではない。したがってこれは日本に実質的な教義やドグマの伝統があったかどうかという問題とは一応別個の事柄である。」(丸山1998.12頁)
基本的に無文字の時代である。文字で理解するのではなくて声で理解するときにしばしば言い回しが少し違うことは、今日の口頭言語の世界でもよくあることである。そのとき、“話が違う”のでは、そうだそうだということにならない。お話にならないことになる。
古事記の“本文”の冒頭の「天地初発之時」の話は、「天地初発」について、どのような力が働いたから起こったかを語るものではない。生まれてきた神は「天地初発之時」に生まれてきたと言っているだけであって、生まれてきた神が「天地」を「初発」させたのではない。文章としてそう書いてあり、言語以前に観念があるわけでもない。宣長が「天と地との成れる初は、次の文にあればなり、」と後から説明しているとするのは誤りである。したがって、谷1971.が、「「はじめ」はいかにあつたかといふことについての認識が、その人の意識・生活に、決定的な力をもたらすものであらう。この問題について、神道の神話は、神道としての基本的な解答を用意する。しかも、その点をつきつめて、最も整つたかたちで表現してゐるのは、『古事記』であらう。」(41頁)としていることも誤りである。
また、日本書紀において、創世神話部分とされるところが、本当の意味、重みをもって述べられているとも思われない。紀本文によると、昔は天地がくっついていて陰陽が分かれておらず、混沌として鶏卵のようにはっきりしないけれどやがて生まれる兆候は含み持っていた。そのうちの澄んで明るいところがたなびいて天となり、重く濁ったところは地となる方向へ進んでいく。そのとき、それぞれの性質上、天が先にできあがり、地が後で定まった。その後、その中に神が生まれた、といった説明が行われている。こういう話を聞いて、聞いた人が思ったであろうことは、へぇー、そうなんだ、であろう。天地創世の神話が述べられているのではなく、天地創世の説明が述べられている。「天地初発」がどのように起こったかを説明しない古事記と、“話が違う”わけではないから違和感なく受け入れられる。記紀の間に著しい論理の違いがあるわけでも、相反する論理が屹立しているわけでもない。古代の人のなかに古事記の言い分を信じる人と日本書紀の言い分を信じる人とが対立して争っていた、などといった事情は寡聞にして知らない。話(咄・噺・譚)とはその程度のものであり、理屈が勝つことはない。洋の東西今昔を問わず、理屈っぽい話が世の中を席巻して人々に受け入れられていたなどと想像することはできない。古代国家、わけても天皇制の正統性を説く思想書に位置づけようにも、荒唐無稽にしてくだらなく、天皇やその一族への悪口が間欠的に噴き出していてどうにもならない。現代になってから古代の教義を創作する必要はない。
(注3)以下のようによめる。
中巻とし、大雀皇帝より以下、小治田大宮より以前を下巻とし、并せて三巻に録し、謹みて献上る。臣安万侶、誠惶誠恐、頓首々々す。和銅五年正月廿八日、正五位上勳五等太朝臣安万侶。天地初発之時、高天原に成りし神の名は天之御中主神、高の下の天を訓みてあまと云ふ。下、此に倣ふ。次に高御産巣日神、次に神産巣日神なり。此の三柱の神は、並びに独神と成り坐して、身を隠したまひき。次に国稚く浮く脂の如くして、くらげなすただよへる時に 流の字の以上の十字は音を以ゐる。葦牙の如く萌え騰る物に因りて成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅神、此の神の名は音を以ゐる。次に天之常立神、 常を訓みてとこと云ひ、立を訓みたちと云ふ。此の二柱の神も亦、並びに独神と成り坐して、身を隠したまひき 。
上の件の五柱の神は、別天つ神。
次に成りし神の名は国之常立神、常立を訓むこと、亦上の如し。次に豊雲上野神。此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠したまふ。次に神成りし神の名は、宇比地迩上神、次に妹須比智迩去神。此の二神の名は音を以ゐる。次に角杙神、次に妹活杙。二柱 次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。此の二神の名も亦、音を以ゐる。次に於母陀流神、次に妹阿夜上訶志古泥神。此の二神の名は皆、音を以ゐる。次に伊耶那岐神、次に妹伊耶那美神。此の二神の名も亦、音を以ゐること上の如し。上の件の、国之常立神より以下、伊耶那美神より以前は、并せて神世七代と称ふ。上の二柱の独神は、各一代と云ふ。次の双べる十神は、各二神を合せて一代と云ふ。是に、天神諸の命以ちて、伊耶那岐命、伊耶那美命の二柱の神に詔りたまはく、「是のただよへる国を修理ひ固め成せ」とのりたまふ。
(注4)そもそも、和文に長文の文章を書いたことがなかった。したがって、和文において改行の習慣があったかどうか不明である。天寿国繍帳の銘文は当時において比較的長いから参考にされるべきものである。拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」参照。
写本の形でしか残らない古事記は、真福寺本(1371年)の原文では図のとおり序と連続しているが、兼方筆本(1522年)では、序の終わりの「頓首頓首」で改行し、一字下がりで二行にわたって「和銅五年正月廿八日正五位上勳/五等太朝臣安萬侶」とあり、改行して本文の「天地初発之時……」へと続いている。
(注5)ここからが本文ですよ、という言い方に似て、平安時代には、話のはじめを「今は昔」、「いづれの御時にか」で書き始めていた。青木2015.に、やはり宣長を批判した言説がある。「「たゞ先ヅ此ノ世の初を、おほかたに云る文」とは、物語のはじめに常套的に使われる「今は昔」とか「いづれの御時にか」という表現と同レベルでの理解であろう。宣長は、「発」を「ヒラクル」と訓むのは、「開闢の意に思ひ混へ」 たもので、「古言」ではないともいう。「発」に「開闢」の意がないとするのは、「発」を「オコリシ」(発生する意) と訓む説も同様である。が、「起」に通じる「発」の用法からしても、漢籍とのかかわりにおいては、「オコル」訓と 「ヒラクル」訓とはあまり違いがないと思われる。「発」を「ヒラクル」と訓む説は、明確に開闢説をふまえている点において、宣長説の対極の立場にある。「発」を「ヒラク」と訓む説の特徴の一つが、序文の用例(一)[大抵所レ記者、自二天地開闢一始以訖二于小治田御世一。]を第一等の資料とした点にある。「ハジメ」訓や「オコリシ」訓の立場からは、序文は漢文体で修飾されており、資料にはならないという。しかしこの見方には、宣長のいう漢意批判や、『古事記』が『日本書紀』よりも日本の古い思想を伝えているという思い入れがあるように思われる。序文・本文共に太安萬侶という同一人物が書いたものである以上、そこにみえる思想が別物であると考えることには、どうしても無理を感じる。むしろ、(一)のような漢文体表記を和語化しようとした表現として「初発之時」をみる方が、より自然ではなかろうか。」(63~64頁)とある。
近視眼的な見方をしていると、物語のはじめとは何かという根本に近づけない。思想という言葉で考えるなら、どのような思想かという問題ではなく、思想があるかないかというのが根本である。北野2015.は、「古代日本人は、天の成り立ちの具体的なイメージなど持ち合わせていなかった。……古代の知識人達が、世界のはじまりを漢語で表現するとき、「天地開闢」「天地初判」[「乾坤初分」]の表記を選びとるであろうことは容易に想像できる。……『芸文類聚』所載の『三五暦記』や『淮南子』の記事を換骨奪胎して、天の成り立ちの物語を作り上げたのが……[記紀の冒頭]の部分であるに相違ない。天の成り立ちは、中国側の文献の力を借りなければ表現しえなかったという事情が透けてみえる。」(184頁)としている。そして、宣長の「天地初発之時」訓に賛同している。
(注6)西宮氏は訓読の結論としては、「万物妖悉発」(記上)にあるように、「潜在している物が新しく活動を始める」意に当たり、「「天地が活動を始めた時に」の意味で安萬侶が表現しようとして「天地初発之時」と表記したと理解できる。それで、「天地初めて発りし時に」という「訓読」でその理解の成果が示されることになるのである。これが私の言ふ〈唯一の訓読〉の方法である。」(483頁)としている。
(注7)鈴木氏は、「初発」が一つの熟語である可能性を探って仏典を渉猟し、(1)初期点本の加点者によって初発に連合符がつけられている例がある、(2)「初発心」とは初の発心ではなく初発の心とみられる例がある、(3)「初発」は「発初」と語順を変改して使用される例がある、(4)「初」と「発」とは辞書、注疏によって同義だと思われる、(5)「初発心」は「初心」と同義に使用された例がある、(6)「初発」が「畢意」、「究竟」と対句をなして使用される例がある、という特徴を抽出し、さらに、(7)古事記には連文とみられる熟語例が多くあることから、記の「初発」を連文とみることができるとしている。太安万侶がどこまで仏典に精通していたか、その程度を確かめることができないが、そのことが問題ではなく、太安万侶がわざわざ「初発」などと見慣れない書き方をしながら人にわかってもらおうとしていたという事実を重視すべきであろう。彼は「初発」と書いて当を得たと喜んでいたと推測する。
鈴木氏は古事記上巻から連字の例をあげている。修理、累積、卜相、如此、匍匐、患惚、禊祓、歓喜、設備、衣服、幸行、嫉妬、束装、装束、 共与、以為、淹留、委曲、詔命、仕奉、和平、麗美、惚苦、惶畏、治養。品詞にこだわりはない。書いて喜び、テンションがあがるほどに得意になれたから、もの珍しい熟語を記しているものと思われ、「初発」には安万侶自身のハッとする気づきが盛り込まれていると考えられる。カテゴリーミステイクを作為していくことは、上代日本語の特徴であったからである。無文字時代にあって、言葉を言葉のなかで自己完結的に説明し切るために採った高度な言語テクニックであった。「無端事」(天武紀朱鳥元年春正月)と呼ばれたなぞなぞに正解があるのは、カテゴリーを自在に行き来する頓智力を持っていたということである。川柳四天王の番組に一文字の疑義なく“正解”があるのは、二つの意味が掛かっていると誰もが認めるからである。
(注8)拙稿「枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ」参照。
(注9)「天地」がパッ(💡)の時とは、パッ(💡)の瞬間である。その天が高天原であるとか、地が国であるとか、そのようなことはまだわからず見定められない。後から説明されている。話のはじめの合図とさえ言えるもので、その意味では「今は昔」に似ているものの、話をする前提で「今は昔」という言葉は使われる。話をするという前提までもひっくるめて話のはじめの文句に入れ込んだのが、パッ(💡)であった。機能としては、万葉歌の、序の形式の題詞から歌への改行のほうがまだしも似ている。ただ、そこには「其歌曰」などと記すことで枠組んでいる。パッ(💡)とあれば枠組みまでもまぶしくて見えない。稗田阿礼は、目を見開いたり、手を打ち広げたりの動作をまじえ、急に破裂音を発して驚かせて注目させるほどで、その“声”はとても印象深いものであったようである。そして、パッ(💡)の前のことは語らない。光が当たる前のことは不確定性原理並みにわからない。稗田阿礼は「為人聡明」であった。
(注10)菅野2017.に、「「初発」を動詞とすることは定説となっている」(41頁)などとあって驚かされる。
二項対立の語を一語としてあげるとき、それぞれの項が成立していることを前提として言葉は使われている。「東西」と言ったときにはすでに方角の観念が、「男女」と言ったときにはすでに性別の観念があって、そのもとに語られている。それ以前の「未分」の状態からの発生を述べるには、その言葉の表す抽象的な全体概念によらなければならない。その言葉をそのまま使って成立時点や成立以前を問うことは、滑稽にして老荘思想的に哲学的である。具体性を重んじていたヤマトコトバに上位の概念の抽象語があったのかさえ問われなければならないであろう。むしろすでに上代の人たちは気づいていて、淮南子などを眉唾論理と認めながら“出典”として“引用”していたのではなかろうか。現代の出典論研究は論理学的に平板で気にかけていないようであるが、筆者の関知するところではない。
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