古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論

2022年09月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
「吉野讃歌」の誤解

 万葉集には、吉野行幸に供奉して詠んだ作があり、一般に「吉野讃歌」と称されている。この「吉野讃歌」という名称は1950年代の論考からすでに見られ(注1)、今日定着している。一般に次のように解説されている。

 万葉集には、柿本人麻呂(1-36~39)に始まり、笠金村(6-920~922)、山部赤人(6-923~927)、大伴旅人(3-315~316)、大伴家持(18-4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位11年の間に31回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇が壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人、大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。(大浦誠士「よしの」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID32405、http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32405(2022年9月9日確認))

 今日の解釈において、いわゆる「吉野讃歌」は、「吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美する」ことを目的として歌われていると決めつけられており、それ以外の捉え方は行われていない。
 しかし、それらの歌の題詞に「讃」の字はない。「幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌」、(「車持朝臣千年作歌一首并短歌」、)「暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌未逕奏上歌」、「神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌」とあり、吉野の離宮への行幸に従って行ったときに作った歌だというばかりである。
 それらを「吉野讃歌」であるとする見立ては、歌の内容が吉野の情景をことさらに褒め讃えるようになっているからそう捉えているのであろうし、行幸で行っているのだから宮の主人たる天皇までも讃えるものであろうと推量していることによるのであろう。
 筆者はそうは捉えない。それらに共通する特徴、吉野の地をいろいろと讃えている歌い方は、いかにも大げさであり、必ずしも内実を描写しているわけではなさそうである。その情景描写が仮に他の地において行われていたとしても、それはそれで歌として成立してしまう。ではなぜ、吉野で多くの歌が似たように褒め讃えられているのか。天武天皇が壬申の乱のときに最初に逃れたところであることや、神仙世界として考えられていたからではないかなど、種々の要素を組み込んで吉野は特別なところ、聖なる地であると解釈しよう試みられてきたのであるが、それらも憶測の域を出るものではない。
 万葉集には、題詞があって歌がある。時には左注がつく。その基本情報だけを頼りにして、吉野の離宮へ行幸した時に官吏の立場にある人たちが似たように吉野の地を褒めるのであれば、行楽なのだからハッピーな気分になり、歌を作っては披露してわあわあ騒いで盛り上がったということであろう。雑駁に言えば、行幸の従駕者たちはその間、日常的な役所の業務から解放され、家事についてもその一端さえ果たす必要もなく、なによりもタダで過ごせたのだから、吉野はいいところだ、なんてすばらしいんだろう、などと褒めちぎっておいて、そうしていればまた来れるだろうという気で歌を詠んでいたということになるだろう。天皇の行幸では、都から遠く離れたところまで遠征することもあるが、吉野宮は安・近・短で気軽に過ごせる格好の行楽地であったと考えられる。だから、他の地、周辺の地と比べてとりたてて風光明媚というわけでなくても讃えているのである。吉野宮は役人のための福利厚生施設、洒落たコテージだったということらしい。
 本当にそうなのかについては、個々の歌がそれぞれ何を詠わんとして言葉を選んでいるのかを探ることで教えてくれる。

「吉野讃歌」全例

 「吉野讃歌」と称されている全例を制作年代順に原文で示す。

(1)柿本人麻呂の作(巻第一、万36~37・38~39)
  幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
 八隅知之吾大王之所聞食天下尓國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊尓宮柱太敷座波百礒城乃大宮人者船並弖旦川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃弥高思良珠水激瀧之宮子波見礼跡不飽可問(万36)
  反歌
 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟(万37)
 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内尓高殿乎高知座而上立國見乎為勢婆疊有青垣山々神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理一云黄葉加射之逝副川之神母大御食尓仕奉等上瀬尓鵜川乎立下瀬尓小網刺渡山川母依弖奉流神乃御代鴨(万38)
  反歌
 山川毛因而奉流神長柄多藝津河内尓船出為加母(万39)
   右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌
(2)笠金村の作(巻第六、万907~912)
  養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌 
 瀧上之御舟乃山尓水枝指四時尓生有刀我乃樹能弥継嗣尓萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴将有國柄鹿見欲将有山川乎清々諾之神代従定家良思母(万907)
  反歌二首
 毎年如是裳見壮鹿三吉野乃清河内之多藝津白浪(万908)
 山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞(万909)
  或本反歌曰
 神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧乃河内者雖見不飽鴨(万910)
 三芳野之秋津乃川之万世尓断事無又還将見(万911)
 泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開来受屋(万912)
(3)車持千年の作(巻第六、万913~916)(注2)
  車持朝臣千年作歌一首并短歌
 味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之真木立山湯見降者川之瀬毎開来者朝霧立夕去者川津鳴奈拜紐不解客尓之有者吾耳為而清川原乎見良久之惜蒙(万913)
  反歌一首
 瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無(万914)
  或本反歌曰
 千鳥鳴三吉野川之川音止時梨二所思公(万915)
 茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍(万916)
  右年月不審但以歌類載於此次焉 或本云養老七年五月幸于芳野離宮之時作
(4)大伴旅人の作(巻第三、万315~316)
  暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌 未逕奏上歌
 見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地与長久萬代尓不改将有行幸之宮(万315)
  反歌
 昔見之象乃小河乎今見者弥清成尓来鴨(万316)
(5)笠金村の作(巻第六、万920~922)
  神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃浄乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百礒城乃大宮人毛越乞尓思自仁思有者毎見文丹乏玉葛絶事無萬代尓如是霜願跡天地之神乎曽禱恐有等毛(万920)
  反歌二首
 萬代見友将飽八三芳野乃多藝都河内乃大宮所(万921)
 皆人乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨(万922)
(6)山部赤人の作(巻第六、万923~925・926~927)
  山部宿祢赤人作歌二首并短歌
 八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通(万923)
  反歌二首
 三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞(万924)
 烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴(万925)
 安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓(万926)
  反歌一首
 足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見(万927)
  右不審先後 但以便故載於此次
(7)山部赤人の作(巻第六、万1005~1006)
  八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應詔作歌一首并短歌 
 八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曽輕引河速弥湍之聲曽清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目(万1005)
  反歌一首
 自神代芳野宮尓蟻通高所知者山河乎吉三(万1006)
(8)大伴家持の作(巻第十八、万4098~4100)
  為幸行芳野離宮之時儲作歌一首并短歌
 多可美久良安麻乃日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美与之努能許乃於保美夜尓安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負々々大王乃麻氣能麻久々々此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝尓可久之許曽都可倍麻都良米伊夜等保奈我尓(万4098)
  反歌
 伊尓之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜乎安里我欲比賣須(万4099)
 物能乃布能夜蘇氏人毛与之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟(万4100)

「吉野讃歌」なるものの表現性

 さまざまに表現されているが、吉野(芳野)の永遠なることを述べようとしている。「神の御代」、「神代」、「万代」、「絶ゆることなく」、「いや継ぎ嗣ぎに」、「時も日もなし」、「止む時無し」、「変はらずあらむ」、「常ならぬ」といった語が頻出している。吉野の離宮を歌うのになぜそのように歌われるのであろうか。統治の永続を祈念してのことと考えられているが、それならばふだんからの本来の宮処、飛鳥浄御原宮なり藤原宮なりでそう歌えばよいであろう。宮は遷都するが離宮は遷らないということなのか。
 筆者は、吉野を歌うときにそう歌ったのには語学的な理由があると考える(注3)。ヨシノという固有名詞がそうさせたのである(注4)
 ヨシノという地名が何に由来するかはわからない。山の麓のような水がかりが悪い場所を指す野でありながら、とても良いところなのでヨシノと言ったとされているが、命名された時点に遡ることはできない。飛鳥時代において、すでにヨシノという地名があり、そこへ宮を築いていた。万葉時代に思うことは、そこがヨシノという名を負った場所であるということだけである。名に負っているのだから、その名を体現する場所であると考えたのである。高度な言語感覚を有していた万葉歌人たちは、ヨシノのヨ(乙類)をヨ(代・世)の意と解したのであろう。ヨ(代・世)はヨ(節)と同根の語と考えられている。ヨ(節)とは、竹類の、ふしとふしの間のことをいう(注5)。竹を見ればわかるように、ヨ・フシ・ヨ・フシ・……のくり返しで成り立っている。フシしかない場合、それはフシとは言わず、ヨしかない場合も同様である。かぐや姫はヨ(節)の中に輝いていて発見された。また、シノ(ノは甲類)をシノ(篠)の意と解したのであろう。シノ(篠)とは細く小さい竹の総称である。「篠、小竹なり。此には斯奴しのと云ふ。」(神代紀第八段一書第一)、「篻 方標反、平、竹也、細竹也、篠也。志乃(しの)、又保曽竹(ほそたけ)、又宇戸(うと)」(新撰字鏡)、「篠 蒋魴切韻に云はく、篠〈先鳥反、之乃(しの)、小竹は散々(ささ)〉は細々の小竹なりといふ。」(和名抄)とある。ヤダケ、メダケなどを言ったようである(注6)
左:ヤダケの仲間、右:メダケの仲間
 竹類のシノ(篠)にはヨ(節)があり、フシ(節)でつながりながら伸びていっている。つまり、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものがシノ(注7)だから、ヨシノとはヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものである。つまり、ヨシノ(吉野)とは、代+代+代+代+代+代+代+代+代+代+……なるものである。吉野というところは、言葉の洒落として、いわば前時代の「歌枕」として、ものすごく昔からずっと続いてきてこれからもずっと続くことを言い表していると捉えられたのである。そして、シノと呼ばれる竹類は、皮(かは)を残したまま伸びていく傾向がある。したがって、ヨシノを表現するのには、ヨシノのカハ(川)をもって言い表すのが適している。「吉野讃歌」ではどれも、必ず川を歌っているのはそのゆえである。
 最上級に昔からなのだから、「神代」以来であり、どんどん続いているから「いや継ぎ嗣ぎに」なのであり、今後とも続くから「万代」なのだというわけである。吉野の神聖性や治世の安寧を語っていないとは否定しきれはしないけれど、冗談を歌にして歌っているとしたほうが適切である。こんなことは歌でなければ行われない。歌はフシ(節)を付けて歌うものである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……とつながるのは、フシ(節)を付けて歌い表すのがふさわしく、よって「吉野讃歌」は必ず長歌で歌い起されている。歌は言語芸術、言語遊戯(Sprachspiel)であり、統治理論の講術ではない。

柿本人麻呂の「吉野讃歌」

 結論を先に提示してしまったので、個々の歌に確認する作業だけが残されている(注8)。人麻呂の「吉野讃歌」は2組の長歌・短歌の組み合わせから成る。きちんとフシ(節)をつけて歌ったらしい(注9)。竹類のシノの話なのである。

(1)柿本人麻呂の作(巻第一、万36~37・38~39)
  吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 やすみしし わご大君の きこす あめの下に 国はしも さはにあれども 山川の きよ河内かふちと 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津あきづ野辺のへに 宮柱 ふときませば ももしきの 大宮人は 船めて 朝川渡る ふなきほひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水たぎつ たぎ宮処みやこは 見れどかぬかも(万36)
  反歌
 見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑とこなめの 絶ゆること無く また還り見む(万37)
 やすみしし わご大君 かむながら かむさびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山あをかきやま 山神やまつみの まつ御調みつきと 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり 一に云はく、黄葉もみちばかざし ふ 川の神も 大御食おほみけに 仕へ奉ると かみつ瀬に 鵜川うかはを立ち しもつ瀬に 小網さでさし渡す 山川も りて仕ふる 神の御代みよかも(万38)
  反歌
 山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(万39)
   右は日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。  四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯の正月吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといふは、未だ詳らかに何月の従駕おほみともつかへに作る歌なるか知らず。

 「吉野の国の 花散らふ 秋津あきづ野辺のへに」宮を造っている。「あきづの宮」(万907)とも呼ばれている。蜻蛉とはトンボのことで、トンボの腹を見れば節がつながる形状をしている。代+代+代+代+代+……であると見てとれるというのである。言葉の形容として実に理にかなっている。言葉があって、それを使っている。それ以上のことはない。
 「かむながら かむさびせすと」という言い方は、神としてまさに、神にふさわしい振る舞いをする、という意味とされてきた。すなわち、「やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 ……」の部分は、あまねく国土をお治めになるわが天皇が、さながらの神として神々しくおられるとて、吉野川の流れ激しい河内に、の意であるというのである。この場合、上に冠る語がその主語となり、「(やすみしし)わご大君」が神憑っている、ないしは、神としての地位に就いている、天皇の神格化が起こっている状況であると捉えられている。しかし、そうではない。「神ながら 神さびせすと」は投入された句であり、地の文とは論理階梯を異にしているからである(注10)
 万葉集の特に長歌の表現方法では、尻取り的な数珠つなぎの連綿修飾が多く見られ、この場合も同様に受けとめられよう。上からかかり、下へとかかる。けれども、「神ながら 神さびせすと」という句は挿入句である。
 「神ながら」は、カミ(神)+ナ(連体助詞)+カラの意と解される。それだけで挿入句である。「神ながら 神さびせすと」という言い方でも同じである。万38番の長歌冒頭の「やすみしし わご大君」という形は、万葉集中に26首、27例を数える。うち助詞を取らないものが10例、「の」を取るものが16例、「は」を取るものは万926番歌(山部赤人の「吉野讃歌」第二歌群)の1例である(注11)。この万38番歌は助詞をとる場所ではない。
 どういうことか。それは、「やすみしし わご大君」ということがすなわち、「神ながら 神さびせす」状態なのであり、そういうこととして、「神ながら 神さびせすと」「吉野川」にかかって行っているのである。「やすみしし わご大君」という言い回しは常套句であり、誰もがよく使っている。どうしてそういう言い方になっているかは、枕詞のかかり方であって、もはや神のみぞ知る不思議なことなのである。「やすみしし わご大君」とは、「神ながら 神さびせす」ことなのである。昔からそう言われてきて古びてわからなくなっている。言葉づかいについて評価して、「神ながら 神さびせす」と挿入して述べている。そして、そのことは、まさに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるようにずっと続いていることであって、「吉野」とつづけるのに正しいのである。さらにそれが、特に「吉野川」を指していることも、川の流れに着目していて一層の的確さを示している。流れがつづき尽きないからであり、言葉としてヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところだからである。「よよ」という語は、多く「と」、「に」を伴って使われる擬声語・擬態語である。水やよだれなどが溢れ滴るさま、嗚咽して涙をしゃくりあげて泣くさまをいう。

 御づるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)
 八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよにこぼるる。(蜻蛉日記・下)

 源氏物語の例に見るように、竹はおもに春に筍として出てきて非常に多くの水気をもって生育する。ヨシノ(節+篠)なるところは「よよ」と瑞々しいのだといい、それはまるで川の流れのたぎつところを思わせるほどであって、その観念のもとに吉野では川こそが持て囃されるにふさわしくあるということになっていて、ああだこうだと人麻呂は川のことを歌っている(注12)
 2組の長短歌があり、第一長歌の万36番歌は建造の次第を含めて離宮を讃美しており、第二長歌の万38番歌は国見歌の技法を入れ込んだ御代の讃美が行われていると捉えられている(注13)。それら表現の手法に拘泥する(注14)ことなく全体を見てみると、長短全4首とも川のことを歌っている。吉野を、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところとして歌いたいだけだから、水が溢れ滴る様子を「たぎつ」川に求めているのである(注15)。上代語の「たぎ」は川の水の流れが激しくなっているところを言い、今日の滝壺へと水が直下する「たき」とは異なるとされてはいるが、タキも白糸の滝のような例を除けば水流に激しさが感じられ、それも含めてタギと呼んでいたと思われる。そんな水量豊かな川は、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と永続するであろうとお追従、お上手を戯れに述べているばかりである(注16)。いわゆる思想性など欠片もないのだが、仮にヤマトコトバの洒落、頓智を上代の“思想”であるとするのであれば、十分に政治的思想をもった歌であるとも解釈し直されはするものの、近代的な“思想”概念から逸脱しており、一様に解することは不可能である。
 行幸において吉野の離宮を褒めてちぎっておけば、時の政権に都合がよく、従駕で参集している行楽気分の宮人たちの受けもよくて場が盛り上がったという次第だろう(注17)。骨休めするのに格好のコテージだから、また来たいねと言いたくて「また還り見む」と大仰に歌っているのだった(注18)

笠金村の養老七年の「吉野讃歌」(注19)

 金村の長歌には訓みに不審な箇所がある。「山川乎清清」をヤマカハヲ キヨミサヤケミと訓み慣わされている。旧訓はサヤケクスメリで、橘千蔭・万葉集略解で改められている(注20)

(2)笠金村の作(巻第六、万907~912)
  養老七年癸亥の夏五月、吉野の離宮とつみやに幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首 あはせて短歌 
 たぎの 御舟みふねの山に 瑞枝みづえさし しじひたる とがの いやぎに 万代よろづよに かくし知らさむ み吉野の 蜻蛉あきづの宮は 神からか たふとくあらむ 国からか 見がしからむ 山川を みさやけみ うべ神代かみよゆ 定めけらしも(万907)
  反歌二首
 毎年としのはに かくも見てしか み吉野の 清き河内かふちの たぎつ白波(万908)
 山高み 白木綿花しらゆふはなに 落ち激つ たぎの河内は 見れど飽かぬかも(万909)
  或る本の反歌に曰はく
 神からか 見が欲しからむ み吉野の 滝の河内は 見れど飽かぬかも(万910)
 み吉野の 秋津あきづの川の 万代よろづよに 絶ゆることなく また還り見む(万911)
 泊瀬女はつせめの 造る木綿花ゆふはな み吉野の 滝の水沫みなわに 咲きにけらずや(万912)

 「さやけし」という語は、岩波古語辞典に「分明し・亮し」という漢字で表意し、サエ(冴)と同根の語と認めて視覚にも聴覚にも使い、「さえて、はっきりしている。」、「くっきりと際立っている。」という訳を当てる(575頁)。類義語のキヨシともども表記するのに「清」の字を使うことが多くある。時代別国語大辞典は、「キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)と解説している。
 この部分、「山川を 清くさやけみ」と訓んだとき、山や川が清くさやかなので、といった訳出が行われている。それは、山は清くはっきり見えていて、川は清くはっきり聞こえている、という意味なのだろうか。岩肌が隆々としている山とて霧がかかることがあり、川の流れの音が聞こえても豪雨にかき消されることはある。山川がさやかであるという言い方には不審なところがある(注21)
 原文に「清清」と同じ字が記されている。考察しているとおり、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と「いやぎに」つづくことがテーマなのだから、「清清」は一つの言葉がくり返されていると捉えられるなら捉えたいものである。「清き河内かふち」(万908)とあるところからすれば、キヨムという動詞がくり返されているのではないかと考えられる。それが正しそうなことは、「白木綿花しらゆふはな」(万909)や「木綿花ゆふはな」(万912)との関連から理解される。長歌につづけて並ぶ短歌は、反歌としての性質を有し、ひとまとまりの歌群となって同一のことを多角的に言い表している。「白木綿花」や「木綿花」と譬えられ、ヨシノ(節+篠)たるヨシノ(吉野)に成育するものとしてふさわしいのは、コウヤボウキのことであろう。篠同様に節くれだちながら伸びる植物で、ほうきの素材として竹類同様に用いられている。ほうきは掃き清める道具である。そして、白い木綿のような花をつける(注22)
左:コウヤボウキ(開花期)、中:子日目利箒 第1号(コウヤボウキの茎製、宮内庁ホームページ「正倉院」https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000014711&index=0をトリミング)、右:草箒(先の方は欠く。平城宮内膳司推定地東隣接地区SK820出土、奈良文化財研究所蔵、平城宮いざない館「のこった奇跡 のこした軌跡展」展示品(2022年11月追加))
 「山川乎清清」はヤマカハヲ キヨメニキヨムなどと訓むものと考えられる。くり返し言葉としては、「祓へしめて、神やらひにやらひき。」(記上)、「神祝祝之、此には加武保佐枳保佐枳枳かむほさきほさききと云ふ。」(神代紀第七段一書第二)などの例がある。

 座を掃ひ塗をきよめて用て、(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝・巻九)
 …… 服従まつろはぬ 人をもやはし 掃き清め〔波吉伎欲米〕 仕へまつりて ……(万4465)

 「山川を 清みさやけみ」と訓むとき、ミ語法として後続文の内容に対して原因・理由を表している。そう捉えると、万907番歌全体は二つの部分を寄せ集めた構造ということになる。そして後段は、神代の昔から定められているらしいことが尤もであると判断される根拠は、山川が清くはっきりしている(?)ことによるということになる。一方、「清清」を動詞の重ね合わせと解せば、宮自身の本性としていろいろあり、宮の一部として機能している山川をも自らが清浄に保っている、事程左様に、神代の昔から定められているらしいことだ、と述懐していることになる。その捉え方が適切である。

 

 ヲは格助詞である。素敵な吉野の蜻蛉の宮は、神の性格からか尊くあるのだろう、国の性格からか見たくなるのだろう、蜻蛉というぐらいだから羽根を振るように箒で周囲の山川をきれいきれいに掃除している、まったく尤もなことだ、神代の昔からそう定められていたらしいというのは、といった意味である。
 歌の文句には出ていないが、ハハキ(箒・帚)という語は、羽掃き、葉掃き、の意であろうとされている。笠金村は、羽をもって掃い清めるとして宮の名を冠し「蜻蛉の宮」として正しいと言っている。アキヅは付近の地名かとされており、直接に宮の名ではないけれど、ここで金村は少し凝ったことを言おうとして「蜻蛉の宮」としている。すなわち、「み吉野の」が「蜻蛉の宮」にかかる枕詞であるかのように擬している。ミヨ(「見」の命令形)+シノ(篠)+ノ(助詞)は、胴体がまるで竹類のように節につなぎながら伸びていっている「蜻蛉」を導くようになっている。アキヅとは、アキ(秋)+イヅ(出)の意を感じさせ、アキアカネなどを代表的なものと考えていたことによく相応する。「蜻蛉島あきづしま」というぐらい、水田稲作農耕を進展させてアカトンボの楽園ならしめていたのがヤマトの国である。そんなヤマトの国をもっともよく形容する言葉であるアキヅが名にあらわれている地名があるのだから、神が名づけたとしか言えないものでとても貴いのだろうし、ヤマトの国の最たるところが凝縮して傑出しているはずのところだから自ずと見たくなるのだろうし、そしてまたその名から推測できることに、トンボが羽ばたくようにはたき掃って清めているのである、というように考えられ、まったくもって、神代の昔からそこに宮を定められたということを耳にするのは頷けることだなあ、と言っている。
 上代人の観念に、それはヤマトコトバにと言っても同じことだが、言=事であった。言葉としてあるということは事柄としてもあることだと信じられ、志向されていた。いま、アキヅという地名から、ヤマトコトバの連鎖として「み吉野の 蜻蛉の宮」という言い回しを析出している。かかる結晶化によってさらにわかることは、トンボの腹はカラだということである。シオカラトンボとは、塩が浮き出ているようなカラ(幹、柄、殻)をもったトンボである。アカトンボは稲作を伝えたカラ(唐、韓)から東シナ海を遠く渡って来たものだと思われていたであろう。話さなければならないのはカラのこと、だから、「神から」や「国から」のことが説き起こされている。
 「み吉野の 蜻蛉の宮」という言葉の並びが成立するとすれば、その名が負うようにまるで神の性質からでもあるように貴く、国の性質からでもあるように再度見たくなるのだろうといい、なぜならそこは、山も川もきれいに掃き清められているからであり、そう歌に歌えるのだから、まったくもって神代の昔から定められていることらしいことは首肯できることなのだ、と述べている。言=事なのだからそれが正しいのである。さらに反歌にコウヤボウキが歌われており、長歌との調和がとれている。
 養老七年の笠金村の吉野の歌では、特定の表現内容がくり返されている。「万代」、「神代」といった言い方である。何代も前からずっと、そしてまたこれから何代も後までもずっと、という言い方である。「万代」を導く「継ぎ嗣ぎに」は序詞が被っており、「繁に生ひたる 栂の樹の いや継ぎ嗣ぎに 万代に」と饒舌に語っている。吉野の(秋津の)宮を表すのにも、「神からか」、「国からか」などと、主張のための主張をしたいがために贅言を尽くしている。最終的に、「神代ゆ 定めけらしも」であることは「諾し」であると思うと感想めいたことを述べて終わっている。
 このことは、この歌が何を言いたいのかについて適切な示唆を与えてくれている。題詞に、「養老七年癸亥の夏の五月に、吉野離宮とつみやに幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首あはせて短歌」とある。吉野の離宮に行幸した時に、笠金村が作った歌であって、それ以上でも以下でもないということである。いわゆる「吉野讃歌」にはお決まりの表現のもとに歌われているとされ、万36番歌の柿本人麻呂がその始まりであって、追随する者が模倣したところ大であるとされるのであるが、必ずしもそうはなっていないと見る向きも多い。諸作品に共有されているのは、吉野がヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……であるという本意ばかりである。

「神代」とは

 すでに触れてきたことであるが、「神の御代」(万39)や「神代」(万907)とはいつのことを表しているのか確かめておく。
 ふつうに考えればすごく古い時代のことを指すと思われる。記紀の言い伝えでは、イザナキ・イザナミの現れるところまでが「神代七代」(記上)、「神代」(神代紀第二段)であると指示されている。万907番歌の「神代」については、天皇が吉野とかかわり始めた頃のことと捉えられていた。契沖・万葉代匠記は、「まことの神代にはあらす。」「神武天皇をはしめて、おほくのみかと、此山にのほらせたまひけれは、そのはしめて宮つくりせさせたまひたる時をさしていへり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979063/89)としている。また、窪田1950.は、「遠い古へといふ意を具象化して云つたもの。」(219頁)としている。伊藤1996.では、「「神代」は神武天皇以前を漠然とさしているのであろうが、人麻呂の吉野讃歌(1三六~九)を意識したこの歌[万907番歌]では、「山川も依りて仕ふる神の御代かも」(1三八)とうたうその持統朝を、神代に立ち帰る時代として心の底に据えていると見られないこともない。」(281頁)と微妙な言い回しになっている。
 さらに稲岡2002.は、「[万907番歌は]持統朝や天武朝を想起しながら「神代」につながるものとして吉野離宮を讃える。」(96頁)としている。そして、諸説を引き、壬申の乱での天武天皇の吉野入りや、天武八年の六皇子盟約によって吉野は皇位継承の聖地となり、持統天皇による31回にわたる行幸がそれを強化し、文武天皇による行幸以降途絶えていたのは、聖武天皇を奉じたこの行幸を期待していたからであるとしている。吉井1984.は、もっとはっきりと「吉野宮」を作った持統天皇時代を「神代」であるとしている。

 金村は今の御代みよを神の御代と歌ってはいないが、持統天皇が吉野宮を造営されたという人麻呂の表現を受けて、持統朝が神の御代であることをこの結句で肯定し、かつ歌っていることに注意しなければならない。そして持統天皇が宮の造営者であったからには、先の「神から」の神にも天皇の姿は濃く揺曳していたはずである。……持統天皇の姿を揺曳させるこの吉野宮を目の前にして、元明、元正両天皇と継がれてきた皇位が、持統天皇の曾孫であり、今まさに即位の期を迎えた聖武天皇に継がれ、しかも永遠に継承されて行くに相違ないという予祝が含まれている。私はここに、金村が人麻呂の讃歌を継承しながら、しかもその作歌の時点での歴史的要請に応えようとして新しく切りひらこうとした意図の具現を見るのである。(21~22頁)

 歌の中に用いられている「神代」という言葉を、歌が歌われた時点から遡って過去のことなのであり、曾祖母時代はもう「神代」であるというのである。神野志2000.はさらに、「金村だけでなく、聖武朝の歌人たちが明確な輪郭をもつ「神代」の意識を吉野宮に関して共有していた」(62頁)こととして、山部赤人の万1006番歌(「神代より」)、大伴家持の万4098番歌(「皇祖の 神の命の」「始め」「定め」)、さらには難波宮を歌った大伴家持の万4360番歌(「うべし神代ゆ 始めけらしも」)を視野に入れている。そして、「天武王朝という点から見るべき皇統意識」があり、「そのなかにある聖武朝において「神代ゆ(より)」というはじまりから天武王朝の歴史として構築することとして、歌がたちあげようとするところは明確な輪郭をもつと見るべきだ。」(64頁)と決めている。
 「天皇の神の尊」(万29)、「皇祖の神の御代より」(万1047)などとあるように、天皇≒神と認められようから万907番歌の「神代」は過去の天皇だと言えるというのが根拠ということのようである。ほかに「現人神あらひとがみ」や「現つ神あき  かみ」という言い方があって、天皇を表しているように捉えられることがある。現実に姿を現している神という表現で、存命中の天皇を言っているという見解である。しかし、その考え方は誤りである(注23)
 今日、亡くなったら神になると考えられている。万葉時代でもそういう使い方が行われていたと考えることに抵抗はない(注24)。その場合、天皇に限らずすべての人が神になる。ただし、たかが数代前のことを「神代」であるとは言わない。「神代」という言葉がすでに存在し、大昔のイザナミ・イザナキ出現の頃のこと、太古のはるか彼方のことを示して使われている。言葉としてよくわかり安定した状態にあるところへ新たな概念を吹き込んで、今までとは相容れない意味に転用しようとはしたがらないものである。語義をずらしたら混乱が生じる。ことことであるとする言霊信仰の下では、いい加減な言葉づかいは厳に慎まれたと考えられる。もし偉大なる天武・持統天皇時代のことを表したいのであれば、新しい語を作れば誤解を生まずに済む。そうせずに馴染みのある「神代」という言葉を使っているのだから、すごく昔のことの意味で使っているとしか考えられない(注25)
 では、万907番歌に、「諾し神代ゆ 定めけらしも」と、吉野の宮が神代からあることになっているらしいなどと、万葉人はどうして合点できているのだろうか。
 それは、「み吉野の 蜻蛉の宮」と呼んでいることに由来する。
 吉野宮は秋津宮という別称があったのかわからない。吉野の離宮のあるあたりを指す地名がアキヅなのであると解されている。人麻呂の吉野讃歌に「吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺」(万36)とある(注26)。万葉集の歌の表現ということに絞れば、「花散らふ」は花の種類を問うには及ばず、後ろのアキヅを導く枕詞的性格の語である。アキヅ、すなわち、トンボの羽根がちらちら舞うことを導いている。もはやアキヅは地名なのか、それとも昆虫名なのか、定まらなくなっているがそれでかまわない。吉野の国の、花がちらちら舞い散るように羽根をちらちらさせているトンボが多い野辺、という意味で通っている。ここに行われていることは、地名を入れ込んで情景を詠みこむことではなく、言葉の修飾をてんこ盛りにすることである。万葉集の歌によく見られることで、言葉が、ないしは修辞が先に立ってすべてが解明されるのである。「神代」という語も、ヨシノという語(音)とのかかわりで使われていて、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる大昔から定められているものなのだ、という言い分のために登場している。そして、「み吉野の 蜻蛉の宮」を主語として文を立てている。この国ないし国土のはじめは、「蜻蛉島あきづしまやまと」と形容されて語られる。古くからそう言い慣わされていて特に疑義が挟まれることはない。誰もがそういうものであると認識しているから、ここに「み吉野の 蜻蛉の宮」は、当然のこと、自明のこと、すなわち、「神代」以来続いて来ていることだとされて正しいことなのである。

おわりに

 「吉野讃歌」の全8(車持千年の歌は除外されたので7)歌群の2歌群を見たにすぎない(注27)。それでも結論は得られている。「吉野讃歌」は従来考えられていたような「吉野讃歌」、すなわち、吉野宮を讃美することを通して在位する天皇、ひいては天皇制そのものまでも讃美するといった思想歌ではないのである。「神ながら 神さびせす」や「神からか」などという語が出てくると、その「神」は天皇のことを指すのだと短絡的に結びつけてしまっていた。ヤマトコトバのハイレベルな修辞技術が理解できなかったから誤った見当をつけていたのである。論理階梯の違いを表出する言い回しは、上代の人にとってみては、こともなげ、言わずもがなのよく用いる表現法であった。万葉集に多くの歌が載っているというだけで「歌人」として見、「歌聖」として崇めようとしていては見誤る。現状では、それぞれの歌が上代にどうしてそういう表現、形容をとっているのか不確かなままに、現代的な議論をしたいがために強引な解釈がほどこされ、憚られていない。
 「誰かがソクラテスに向かって、誰それは旅をしても少しもよくなっていない、と言うと、「そうだろうとも。あの人はあの人自身を一緒に持って出かけたのだから」と言った。」(モンテーニュ1965.52頁)とある。訪日外国人のなかには、魚を素手でつかむ人がいて不衛生に思えて弱ることがある。生まれてからずっとそうしてきたからそうしている、何か悪いことがあるか? といきまくほどである。郷に入れば郷に従えという諺もある。同様に、万葉集を理解しようとする場合、そこは万葉時代なのだから現代を持って行ってはいけない。
 万葉時代の人は吉野(ヨシノという言葉)にヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……の洒落を見ている。その感性を知る旅でなければ、何のために万葉集の歌を読むのか(、現代の歌作に換骨奪胎して応用しようという目的以外)わからない。ヤマトコトバを通してみれば具体的に理解されることであり、知的好奇心を満足させる格安な旅でもある。そして、言葉とは何かを問うことは、人間とは何かということに直結する問題で、人文科学の第一級の研究対象である。本質的な意味と、誤解だらけの理屈が罷り通っている状況との二つの点で、その道のりはひどく遠いように思える(注28)。 

(注)
(注1)武田1956.や澤瀉1957.が用いているわけではなく、土橋1956.に見える。この点、筆者には納得がいく。
(注2)(3)車持千年の作(巻第六、万913~916)

  車持朝臣千年くるまもちのあそみちとせの作る歌一首あはせて短歌 
 うまごり あやにともしく 鳴る神の 音のみ聞きし み吉野の 真木まき立つ山ゆ 見おろせば 川の瀬ごとに 明け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば のみして 清き川原を 見らくししも(万913)
 たぎの 三船みふねの山は かしこけど 思ひ忘るる 時も日も無し(万914)
  或る本の反歌に曰はく
 千鳥鳴く み吉野川の 川音かはと成す む時無しに 思ほゆる君(万915)
 あかねさす ならべなくに が恋は 吉野の川の 霧に立ちつつ(万916)
  右は年月つばひらかならず。但、歌の類を以て此のつぎてに載す。或る本に云はく、養老七年五月、吉野の離宮に幸す時に作るといふ。

 これらの歌は、いわゆる「吉野讃歌」の歌に入れられ、車持千年の性別、「君〔公〕」(万915)は誰のことか、といった検討が行われている。吉井1984.は、「金村の作[万907~912]が表の世界での予祝の歌として、千年の作が裏の宮人たちの世界での恋の歌として、その意味で両者の作は一組の作歌であったかもしれない。」(29頁)としている。
 筆者には、歌の内容から、吉野で車持千年が作った歌ではあるが、他の作とは質が異なっているように感じられる。千年は早く帰ろうよと歌っている。左注の言うところは、「右」の万913~916番歌は、いつ作られたかはわからないが、歌は吉野を歌ったものだから「此」の万907~912番歌の「次」に載せることにした。というのも、「或本」には、まったく同じように「養老七年五月、幸于芳野離宮之時作」と書いてあるからだ、ということである。題詞は、「車持朝臣千年作歌一首 并短歌」というにすぎない。吉野宮を主題にして歌っているのではなく、従駕したけれど残してきた愛しい人のことばかりに思いが募るという恋の歌である。
(注3)持統天皇のたび重なる吉野行幸の動機についても同じであると考える。これまでの諸説の整理は、遠藤1969.参照。懐風藻に残る数々の吉野遊覧詩を見て、「吉野行幸の目的がいかにあれ、吉野行幸がその側面に遊覧の場を成立させたことは確かである。」(辰巳1987.129頁)とする指摘がある。また、「吉野讃歌」が時代により要請される目的が変わっていくとする推測も見られる(梶川1987.)が、題詞からも言葉遊びに徹している歌の内容からも汲み取ることはできない。
(注4)吉野が仙境であると認められていたからといったことではない。不老不死の仙薬とされた水銀を産出する鉱脈があったからといった言説は限りなくあやしい。中央構造線上に分布する水銀の産地はすべて仙境にならないか。本邦において、いつ、誰が、水銀を不老不死のための薬にしたのか。
(注5)「よ」も「ふし」も漢字で「節」と書く。「節」の字は竹使符の意が本義で、植物の節くれとは何の関係もないという(白川1995.659頁)。「よ」と「ふし」と両方なければ符にならない。
(注6)木下2010.は、大型のタケ、小型のササの中間をシノと称し、ヤダケ、メダケ、アズマザサ、アズマネザサ、スズタケなどをシノ(篠)の候補に挙げている。筆者の観察による推測では、大きさによる(曖昧な)区分だけでなく、長く皮をとどめる性質を持つものをシノと称していたかとみる。
(注7)上代語に、シノニという難語があり、「心もしのに」と慣用句化して使われている。このシノニも、ヨヨの意で解することができる。拙稿「「心もしのに」探究」参照。
(注8)結論を先にするのは議論の仕方として好ましいものではないが、膨大な誤解研究をショートカットするのにやむを得ない。
(注9)武田1956.は、万36・37番歌、万38・39番歌の長歌と反歌がよく対応している点について、「人麻呂の作品の音楽的な性格を語るものである。」(187頁)と評している。
(注10)「神ながら 神さびせすと」という言い回しについては、拙稿「 「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注11)鈴木2020.参照。
(注12)清水1965.は、これらの歌は「おそらくは詔に応じて、天皇に献じたものと考えられる。」(12頁)としているが、題詞に特記されてはいない。命じられてもいないのに、座興のために勝手に歌い出したものではないかと筆者は考えている。
(注13)村田2004.は、万36・37番歌は「宮讃歌」で空間讃美、万38・39番歌は「御代讃歌」で時間讃美が行われ、「そのまったき時空間讃美によって構築されるのは「やすみしし 我ご大君」=持統天皇による統治であった。」(244頁)としている。筆者は、吉野はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……だと洒落に解いてみた興味を二様に表しただけのことと考えている。身﨑2005.は、「吉野讃歌」を「景観の神話化」(198頁)としているが、筆者は、ヤマトコトバの洒落を景観表現に応用展開してこのようになったものと考えている。
(注14)二つの長歌には、別時に作られたとする説と同時に作られたとする説がある。神野志1992.は、万36番歌を「現実世界の具体的なレベル」、万38番歌を「神」性のレベルに及ぶ「大君」との調和と秩序が歌われているとしている。身﨑1999.は、二つの長歌作品の構成は、「重畳性と対偶性とがもたらす荘重な形式美を十分に計算に入れた構想だったといえるだろう。」(179頁)としている。
(注15)西澤1991.は、「「吉野讃歌」における「吉野」は、すでにあるものとしての「吉野」ではなく、それがどのように始まったのかから詠まれるような「吉野」である。」(19頁)としている。筆者は、「吉野」の語源を問うているのではなく、ヨシノという語の語感を詠んでいると考える。かしこまったり、大それたところはない。
(注16)曽倉2020.は、人麻呂が宮廷歌・儀礼歌に、「永遠・永久・永続等の観念と表現を導入し慣用句化させた」(130頁)ことの意義は大きく、永遠の観念は大陸からの渡来であるとしている。筆者は、ヤマトコトバの洒落の才覚によって、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる永遠の観念は表明されていると考える。毛利1996.は、現実の代を「神の御代」、「神代」と人麻呂は認識・把握し、それは彼自身の考え、思想によるとしている。筆者は、ヨシノというヤマトコトバを、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……のことなのだとおもしろがったことによると考えている。
(注17)橋本1975.は、第一長歌で、「天皇に奉仕し、讃美する主体が宮廷人一般に普遍化している」(134頁)点を人麻呂が新しい型の讃歌の創造を達成する一つの要点であるとしている。筆者は、吉野はヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……だと言っていて、披露された頓智は誰も傷つけない都合のいいものであったと考えている。
(注18)影山2020.は、人麻呂が「見る」ことに執着を示すのは、宮が再び自然に帰する滅びの宿命を知るために訴えているとしている。筆者は、また休暇旅行に公費で来たいね、と言っているものと考えている。
(注19)この歌は巻6の巻頭を飾る歌である。巻頭歌の意味については多くの論者が問うているが、エディターが巻の構成をどう考えて配置したかという点については、歌自体の解釈とは別次元の問題である。もちろん、歌の解釈が定まらなければ、どうしてそのように配置したのかを論ずることはできない。万葉集の構成論や成立論は、個々の万葉集の歌の理解の程度によって浮沈するものとなっている。エディターが当該歌をどこまで理解していたのかという視点を欠いたままに立論されているのではないかという危惧さえ覚える。
(注20)小野1995.に精論がある。
(注21)「さやけし」については、拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」も参照のこと。
(注22)清水1980.に、「金村の吉野讃歌における、景の叙述の新らしい性格は、景が、この行幸時に金村の見た吉野の実景にそくして、きわめて明確に表現され得ているということであろう。」(31頁)とし、従来の国見歌の予祝的な願望の投影ではないとしている。実景的なものとは、反歌にある「白木綿花」、「造る木綿花」が最たるものであろう。清水氏はそれらをコウヤボウキであると見ているわけではない。念のため。
(注23)「現つ神あき  かみ」(万1050)についての疑義に関しては拙稿「田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─」参照。
(注24)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注25)万葉集の歌はあくまでも歌である。声に出して歌われて、それを聞いた人が聞いただけで理解が行き渡らなければならない。今言った「神代」は大昔のことか、天武・持統天皇代のことか、などと神経を尖らせながら聞かなくてはならないものではない。歌は一度しか歌われない。その一度でなるほどとわからなければ、その歌はお蔵入りする失敗作である。誰がわからなければならないか。聞いているすべての人である。作っている歌人が自己満足していても始まらない。また、歌人の集まりという言葉のプロがわかればいいというものでもない。万葉歌は、一部の人にしか通じない言葉を使っていたわけではない。
 なお、後の時代に誤解して別の義にも使った例は見られる。訳語上、新しい意味が付与されていった経緯を持つ語も辞書に見られる。漢字で書かれた語の意が、漢籍由来と仏典由来で異なっても同じ書記のうちに同語とされることもある。文字で書記することが基盤となって可能となっていることが多い。文字言語には再認性があるから、語義の転用も比較的容易に起こることになる。
(注26)解説書ではこの「花」はサクラなのだとされており、どういうわけかめでたいものなのだと説かれている。通説の呪縛である。たしかに「花散らふ」とあるのだから、花がちらちらと散り続けているのである。花弁がちらちら散り続けるように思える花の代表はサクラということになるのであるが、サクラでなくては当たらない表現というわけではない。上代にサクラがどこまで卑近であったか、今日のようにいたるところに植樹してしまう異常さからは想像ができない。いまサクラを当たり前に思うのは、人工的に植えているからである。
(注27)以後は拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注28)万葉集は歌集である。柿本人麻呂らは歌詠みである。その単なる歌詠みの作った歌が、天皇制全般について先鋭的な主張をくり広げているなどとどうして考えるのだろうか。古い時代のこととて、ソクラテスは弁論の哲学者であるが、人麻呂らの歌が(近現代的な意味での)思想書であろうはずなどないではないか。

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身崎1999. 身崎寿「吉野讃歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
身﨑2005. 身﨑壽『人麻呂の方法─時間・空間・「語り手」─』北海道大学大学院文学研究科、2005年。
村田1995. 村田正博「天地と長く久しく─旅人吉野讃歌の表現の一面─」『萬葉の風土・文学─犬養孝博士米寿記念論集─』塙書房、平成7年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
毛利1996. 毛利正守「柿本人麻呂の「神代」と「神の御代」と」『万葉学藻─伊藤博博士古稀記念論文集─』塙書房、平成8年。
吉井1981. 吉井巌「万葉集巻六について─題詞を中心とした考察─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第十集』塙書房、昭和56年。
吉井1984. 吉井巌『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。
和田1995. 和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 下』塙書房、1995年。
モンテーニュ1965. モンテーニュ著、原二郎訳『エセー(二)』岩波書店(岩波文庫)、1965年。(原著Montaigne, Michel de. Les Essais, 1595.

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