「吉野讃歌」の誤解
万葉集には、吉野行幸に供奉して詠んだ作があり、一般に「吉野讃歌」と称されている。この「吉野讃歌」という名称は1950年代の論考からすでに見られ(注1)、今日定着している。一般に次のように解説されている。
万葉集には、柿本人麻呂(1-36~39)に始まり、笠金村(6-920~922)、山部赤人(6-923~927)、大伴旅人(3-315~316)、大伴家持(18-4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位11年の間に31回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇が壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人、大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。(大浦誠士「よしの」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID32405、http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32405(2022年9月9日確認))
今日の解釈において、いわゆる「吉野讃歌」は、「吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美する」ことを目的として歌われていると決めつけられており、それ以外の捉え方は行われていない。
しかし、それらの歌の題詞に「讃」の字はない。「幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌」、(「車持朝臣千年作歌一首并短歌」、)「暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌未逕奏上歌」、「神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌」とあり、吉野の離宮への行幸に従って行ったときに作った歌だというばかりである。
それらを「吉野讃歌」であるとする見立ては、歌の内容が吉野の情景をことさらに褒め讃えるようになっているからそう捉えているのであろうし、行幸で行っているのだから宮の主人たる天皇までも讃えるものであろうと推量していることによるのであろう。
筆者はそうは捉えない。それらに共通する特徴、吉野の地をいろいろと讃えている歌い方は、いかにも大げさであり、必ずしも内実を描写しているわけではなさそうである。その情景描写が仮に他の地において行われていたとしても、それはそれで歌として成立してしまう。ではなぜ、吉野で多くの歌が似たように褒め讃えられているのか。天武天皇が壬申の乱のときに最初に逃れたところであることや、神仙世界として考えられていたからではないかなど、種々の要素を組み込んで吉野は特別なところ、聖なる地であると解釈しよう試みられてきたのであるが、それらも憶測の域を出るものではない。
万葉集には、題詞があって歌がある。時には左注がつく。その基本情報だけを頼りにして、吉野の離宮へ行幸した時に官吏の立場にある人たちが似たように吉野の地を褒めるのであれば、行楽なのだからハッピーな気分になり、歌を作っては披露してわあわあ騒いで盛り上がったということであろう。雑駁に言えば、行幸の従駕者たちはその間、日常的な役所の業務から解放され、家事についてもその一端さえ果たす必要もなく、なによりもタダで過ごせたのだから、吉野はいいところだ、なんてすばらしいんだろう、などと褒めちぎっておいて、そうしていればまた来れるだろうという気で歌を詠んでいたということになるだろう。天皇の行幸では、都から遠く離れたところまで遠征することもあるが、吉野宮は安・近・短で気軽に過ごせる格好の行楽地であったと考えられる。だから、他の地、周辺の地と比べてとりたてて風光明媚というわけでなくても讃えているのである。吉野宮は役人のための福利厚生施設、洒落たコテージだったということらしい。
本当にそうなのかについては、個々の歌がそれぞれ何を詠わんとして言葉を選んでいるのかを探ることで教えてくれる。
「吉野讃歌」全例
「吉野讃歌」と称されている全例を制作年代順に原文で示す。
(1)柿本人麻呂の作(巻第一、万36~37・38~39)
幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
八隅知之吾大王之所聞食天下尓國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊尓宮柱太敷座波百礒城乃大宮人者船並弖旦川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃弥高思良珠水激瀧之宮子波見礼跡不飽可問(万36)
反歌
雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟(万37)
安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内尓高殿乎高知座而上立國見乎為勢婆疊有青垣山々神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理一云黄葉加射之逝副川之神母大御食尓仕奉等上瀬尓鵜川乎立下瀬尓小網刺渡山川母依弖奉流神乃御代鴨(万38)
反歌
山川毛因而奉流神長柄多藝津河内尓船出為加母(万39)
右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌
(2)笠金村の作(巻第六、万907~912)
養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
瀧上之御舟乃山尓水枝指四時尓生有刀我乃樹能弥継嗣尓萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴将有國柄鹿見欲将有山川乎清々諾之神代従定家良思母(万907)
反歌二首
毎年如是裳見壮鹿三吉野乃清河内之多藝津白浪(万908)
山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞(万909)
或本反歌曰
神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧乃河内者雖見不飽鴨(万910)
三芳野之秋津乃川之万世尓断事無又還将見(万911)
泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開来受屋(万912)
(3)車持千年の作(巻第六、万913~916)(注2)
車持朝臣千年作歌一首并短歌
味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之真木立山湯見降者川之瀬毎開来者朝霧立夕去者川津鳴奈拜紐不解客尓之有者吾耳為而清川原乎見良久之惜蒙(万913)
反歌一首
瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無(万914)
或本反歌曰
千鳥鳴三吉野川之川音止時梨二所思公(万915)
茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍(万916)
右年月不審但以歌類載於此次焉 或本云養老七年五月幸于芳野離宮之時作
(4)大伴旅人の作(巻第三、万315~316)
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌 未逕奏上歌
見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地与長久萬代尓不改将有行幸之宮(万315)
反歌
昔見之象乃小河乎今見者弥清成尓来鴨(万316)
(5)笠金村の作(巻第六、万920~922)
神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃浄乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百礒城乃大宮人毛越乞尓思自仁思有者毎見文丹乏玉葛絶事無萬代尓如是霜願跡天地之神乎曽禱恐有等毛(万920)
反歌二首
萬代見友将飽八三芳野乃多藝都河内乃大宮所(万921)
皆人乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨(万922)
(6)山部赤人の作(巻第六、万923~925・926~927)
山部宿祢赤人作歌二首并短歌
八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通(万923)
反歌二首
三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞(万924)
烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴(万925)
安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓(万926)
反歌一首
足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見(万927)
右不審先後 但以便故載於此次
(7)山部赤人の作(巻第六、万1005~1006)
八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應詔作歌一首并短歌
八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曽輕引河速弥湍之聲曽清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目(万1005)
反歌一首
自神代芳野宮尓蟻通高所知者山河乎吉三(万1006)
(8)大伴家持の作(巻第十八、万4098~4100)
為幸行芳野離宮之時儲作歌一首并短歌
多可美久良安麻乃日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美与之努能許乃於保美夜尓安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負々々大王乃麻氣能麻久々々此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝尓可久之許曽都可倍麻都良米伊夜等保奈我尓(万4098)
反歌
伊尓之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜乎安里我欲比賣須(万4099)
物能乃布能夜蘇氏人毛与之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟(万4100)
「吉野讃歌」なるものの表現性
さまざまに表現されているが、吉野(芳野)の永遠なることを述べようとしている。「神の御代」、「神代」、「万代」、「絶ゆることなく」、「いや継ぎ嗣ぎに」、「時も日もなし」、「止む時無し」、「変はらずあらむ」、「常ならぬ」といった語が頻出している。吉野の離宮を歌うのになぜそのように歌われるのであろうか。統治の永続を祈念してのことと考えられているが、それならばふだんからの本来の宮処、飛鳥浄御原宮なり藤原宮なりでそう歌えばよいであろう。宮は遷都するが離宮は遷らないということなのか。
筆者は、吉野を歌うときにそう歌ったのには語学的な理由があると考える(注3)。ヨシノという固有名詞がそうさせたのである(注4)。
ヨシノという地名が何に由来するかはわからない。山の麓のような水がかりが悪い場所を指す野でありながら、とても良いところなのでヨシノと言ったとされているが、命名された時点に遡ることはできない。飛鳥時代において、すでにヨシノという地名があり、そこへ宮を築いていた。万葉時代に思うことは、そこがヨシノという名を負った場所であるということだけである。名に負っているのだから、その名を体現する場所であると考えたのである。高度な言語感覚を有していた万葉歌人たちは、ヨシノのヨ(乙類)をヨ(代・世)の意と解したのであろう。ヨ(代・世)はヨ(節)と同根の語と考えられている。ヨ(節)とは、竹類の、ふしとふしの間のことをいう(注5)。竹を見ればわかるように、ヨ・フシ・ヨ・フシ・……のくり返しで成り立っている。フシしかない場合、それはフシとは言わず、ヨしかない場合も同様である。かぐや姫はヨ(節)の中に輝いていて発見された。また、シノ(ノは甲類)をシノ(篠)の意と解したのであろう。シノ(篠)とは細く小さい竹の総称である。「篠、小竹なり。此には斯奴と云ふ。」(神代紀第八段一書第一)、「篻 方標反、平、竹也、細竹也、篠也。志乃(しの)、又保曽竹(ほそたけ)、又宇戸(うと)」(新撰字鏡)、「篠 蒋魴切韻に云はく、篠〈先鳥反、之乃(しの)、小竹は散々(ささ)〉は細々の小竹なりといふ。」(和名抄)とある。ヤダケ、メダケなどを言ったようである(注6)。
左:ヤダケの仲間、右:メダケの仲間
竹類のシノ(篠)にはヨ(節)があり、フシ(節)でつながりながら伸びていっている。つまり、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものがシノ(注7)だから、ヨシノとはヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものである。つまり、ヨシノ(吉野)とは、代+代+代+代+代+代+代+代+代+代+……なるものである。吉野というところは、言葉の洒落として、いわば前時代の「歌枕」として、ものすごく昔からずっと続いてきてこれからもずっと続くことを言い表していると捉えられたのである。そして、シノと呼ばれる竹類は、皮(かは)を残したまま伸びていく傾向がある。したがって、ヨシノを表現するのには、ヨシノのカハ(川)をもって言い表すのが適している。「吉野讃歌」ではどれも、必ず川を歌っているのはそのゆえである。
最上級に昔からなのだから、「神代」以来であり、どんどん続いているから「いや継ぎ嗣ぎに」なのであり、今後とも続くから「万代」なのだというわけである。吉野の神聖性や治世の安寧を語っていないとは否定しきれはしないけれど、冗談を歌にして歌っているとしたほうが適切である。こんなことは歌でなければ行われない。歌はフシ(節)を付けて歌うものである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……とつながるのは、フシ(節)を付けて歌い表すのがふさわしく、よって「吉野讃歌」は必ず長歌で歌い起されている。歌は言語芸術、言語遊戯(Sprachspiel)であり、統治理論の講術ではない。
柿本人麻呂の「吉野讃歌」
結論を先に提示してしまったので、個々の歌に確認する作業だけが残されている(注8)。人麻呂の「吉野讃歌」は2組の長歌・短歌の組み合わせから成る。きちんとフシ(節)をつけて歌ったらしい(注9)。竹類のシノの話なのである。
(1)柿本人麻呂の作(巻第一、万36~37・38~39)
吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 滝の宮処は 見れど飽かぬかも(万36)
反歌
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の 絶ゆること無く また還り見む(万37)
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 一に云はく、黄葉かざし 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも(万38)
反歌
山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(万39)
右は日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。 四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯の正月吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといふは、未だ詳らかに何月の従駕に作る歌なるか知らず。
「吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に」宮を造っている。「
万葉集には、吉野行幸に供奉して詠んだ作があり、一般に「吉野讃歌」と称されている。この「吉野讃歌」という名称は1950年代の論考からすでに見られ(注1)、今日定着している。一般に次のように解説されている。
万葉集には、柿本人麻呂(1-36~39)に始まり、笠金村(6-920~922)、山部赤人(6-923~927)、大伴旅人(3-315~316)、大伴家持(18-4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位11年の間に31回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇が壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人、大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。(大浦誠士「よしの」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID32405、http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32405(2022年9月9日確認))
今日の解釈において、いわゆる「吉野讃歌」は、「吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美する」ことを目的として歌われていると決めつけられており、それ以外の捉え方は行われていない。
しかし、それらの歌の題詞に「讃」の字はない。「幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌」、(「車持朝臣千年作歌一首并短歌」、)「暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌未逕奏上歌」、「神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌」とあり、吉野の離宮への行幸に従って行ったときに作った歌だというばかりである。
それらを「吉野讃歌」であるとする見立ては、歌の内容が吉野の情景をことさらに褒め讃えるようになっているからそう捉えているのであろうし、行幸で行っているのだから宮の主人たる天皇までも讃えるものであろうと推量していることによるのであろう。
筆者はそうは捉えない。それらに共通する特徴、吉野の地をいろいろと讃えている歌い方は、いかにも大げさであり、必ずしも内実を描写しているわけではなさそうである。その情景描写が仮に他の地において行われていたとしても、それはそれで歌として成立してしまう。ではなぜ、吉野で多くの歌が似たように褒め讃えられているのか。天武天皇が壬申の乱のときに最初に逃れたところであることや、神仙世界として考えられていたからではないかなど、種々の要素を組み込んで吉野は特別なところ、聖なる地であると解釈しよう試みられてきたのであるが、それらも憶測の域を出るものではない。
万葉集には、題詞があって歌がある。時には左注がつく。その基本情報だけを頼りにして、吉野の離宮へ行幸した時に官吏の立場にある人たちが似たように吉野の地を褒めるのであれば、行楽なのだからハッピーな気分になり、歌を作っては披露してわあわあ騒いで盛り上がったということであろう。雑駁に言えば、行幸の従駕者たちはその間、日常的な役所の業務から解放され、家事についてもその一端さえ果たす必要もなく、なによりもタダで過ごせたのだから、吉野はいいところだ、なんてすばらしいんだろう、などと褒めちぎっておいて、そうしていればまた来れるだろうという気で歌を詠んでいたということになるだろう。天皇の行幸では、都から遠く離れたところまで遠征することもあるが、吉野宮は安・近・短で気軽に過ごせる格好の行楽地であったと考えられる。だから、他の地、周辺の地と比べてとりたてて風光明媚というわけでなくても讃えているのである。吉野宮は役人のための福利厚生施設、洒落たコテージだったということらしい。
本当にそうなのかについては、個々の歌がそれぞれ何を詠わんとして言葉を選んでいるのかを探ることで教えてくれる。
「吉野讃歌」全例
「吉野讃歌」と称されている全例を制作年代順に原文で示す。
(1)柿本人麻呂の作(巻第一、万36~37・38~39)
幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
八隅知之吾大王之所聞食天下尓國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊尓宮柱太敷座波百礒城乃大宮人者船並弖旦川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃弥高思良珠水激瀧之宮子波見礼跡不飽可問(万36)
反歌
雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟(万37)
安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内尓高殿乎高知座而上立國見乎為勢婆疊有青垣山々神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理一云黄葉加射之逝副川之神母大御食尓仕奉等上瀬尓鵜川乎立下瀬尓小網刺渡山川母依弖奉流神乃御代鴨(万38)
反歌
山川毛因而奉流神長柄多藝津河内尓船出為加母(万39)
右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌
(2)笠金村の作(巻第六、万907~912)
養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
瀧上之御舟乃山尓水枝指四時尓生有刀我乃樹能弥継嗣尓萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴将有國柄鹿見欲将有山川乎清々諾之神代従定家良思母(万907)
反歌二首
毎年如是裳見壮鹿三吉野乃清河内之多藝津白浪(万908)
山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞(万909)
或本反歌曰
神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧乃河内者雖見不飽鴨(万910)
三芳野之秋津乃川之万世尓断事無又還将見(万911)
泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開来受屋(万912)
(3)車持千年の作(巻第六、万913~916)(注2)
車持朝臣千年作歌一首并短歌
味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之真木立山湯見降者川之瀬毎開来者朝霧立夕去者川津鳴奈拜紐不解客尓之有者吾耳為而清川原乎見良久之惜蒙(万913)
反歌一首
瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無(万914)
或本反歌曰
千鳥鳴三吉野川之川音止時梨二所思公(万915)
茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍(万916)
右年月不審但以歌類載於此次焉 或本云養老七年五月幸于芳野離宮之時作
(4)大伴旅人の作(巻第三、万315~316)
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌 未逕奏上歌
見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地与長久萬代尓不改将有行幸之宮(万315)
反歌
昔見之象乃小河乎今見者弥清成尓来鴨(万316)
(5)笠金村の作(巻第六、万920~922)
神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃浄乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百礒城乃大宮人毛越乞尓思自仁思有者毎見文丹乏玉葛絶事無萬代尓如是霜願跡天地之神乎曽禱恐有等毛(万920)
反歌二首
萬代見友将飽八三芳野乃多藝都河内乃大宮所(万921)
皆人乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨(万922)
(6)山部赤人の作(巻第六、万923~925・926~927)
山部宿祢赤人作歌二首并短歌
八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通(万923)
反歌二首
三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞(万924)
烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴(万925)
安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓(万926)
反歌一首
足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見(万927)
右不審先後 但以便故載於此次
(7)山部赤人の作(巻第六、万1005~1006)
八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應詔作歌一首并短歌
八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曽輕引河速弥湍之聲曽清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目(万1005)
反歌一首
自神代芳野宮尓蟻通高所知者山河乎吉三(万1006)
(8)大伴家持の作(巻第十八、万4098~4100)
為幸行芳野離宮之時儲作歌一首并短歌
多可美久良安麻乃日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敝流美与之努能許乃於保美夜尓安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於弊流於能我名負々々大王乃麻氣能麻久々々此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝尓可久之許曽都可倍麻都良米伊夜等保奈我尓(万4098)
反歌
伊尓之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜乎安里我欲比賣須(万4099)
物能乃布能夜蘇氏人毛与之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟(万4100)
「吉野讃歌」なるものの表現性
さまざまに表現されているが、吉野(芳野)の永遠なることを述べようとしている。「神の御代」、「神代」、「万代」、「絶ゆることなく」、「いや継ぎ嗣ぎに」、「時も日もなし」、「止む時無し」、「変はらずあらむ」、「常ならぬ」といった語が頻出している。吉野の離宮を歌うのになぜそのように歌われるのであろうか。統治の永続を祈念してのことと考えられているが、それならばふだんからの本来の宮処、飛鳥浄御原宮なり藤原宮なりでそう歌えばよいであろう。宮は遷都するが離宮は遷らないということなのか。
筆者は、吉野を歌うときにそう歌ったのには語学的な理由があると考える(注3)。ヨシノという固有名詞がそうさせたのである(注4)。
ヨシノという地名が何に由来するかはわからない。山の麓のような水がかりが悪い場所を指す野でありながら、とても良いところなのでヨシノと言ったとされているが、命名された時点に遡ることはできない。飛鳥時代において、すでにヨシノという地名があり、そこへ宮を築いていた。万葉時代に思うことは、そこがヨシノという名を負った場所であるということだけである。名に負っているのだから、その名を体現する場所であると考えたのである。高度な言語感覚を有していた万葉歌人たちは、ヨシノのヨ(乙類)をヨ(代・世)の意と解したのであろう。ヨ(代・世)はヨ(節)と同根の語と考えられている。ヨ(節)とは、竹類の、ふしとふしの間のことをいう(注5)。竹を見ればわかるように、ヨ・フシ・ヨ・フシ・……のくり返しで成り立っている。フシしかない場合、それはフシとは言わず、ヨしかない場合も同様である。かぐや姫はヨ(節)の中に輝いていて発見された。また、シノ(ノは甲類)をシノ(篠)の意と解したのであろう。シノ(篠)とは細く小さい竹の総称である。「篠、小竹なり。此には斯奴と云ふ。」(神代紀第八段一書第一)、「篻 方標反、平、竹也、細竹也、篠也。志乃(しの)、又保曽竹(ほそたけ)、又宇戸(うと)」(新撰字鏡)、「篠 蒋魴切韻に云はく、篠〈先鳥反、之乃(しの)、小竹は散々(ささ)〉は細々の小竹なりといふ。」(和名抄)とある。ヤダケ、メダケなどを言ったようである(注6)。
左:ヤダケの仲間、右:メダケの仲間
竹類のシノ(篠)にはヨ(節)があり、フシ(節)でつながりながら伸びていっている。つまり、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものがシノ(注7)だから、ヨシノとはヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものである。つまり、ヨシノ(吉野)とは、代+代+代+代+代+代+代+代+代+代+……なるものである。吉野というところは、言葉の洒落として、いわば前時代の「歌枕」として、ものすごく昔からずっと続いてきてこれからもずっと続くことを言い表していると捉えられたのである。そして、シノと呼ばれる竹類は、皮(かは)を残したまま伸びていく傾向がある。したがって、ヨシノを表現するのには、ヨシノのカハ(川)をもって言い表すのが適している。「吉野讃歌」ではどれも、必ず川を歌っているのはそのゆえである。
最上級に昔からなのだから、「神代」以来であり、どんどん続いているから「いや継ぎ嗣ぎに」なのであり、今後とも続くから「万代」なのだというわけである。吉野の神聖性や治世の安寧を語っていないとは否定しきれはしないけれど、冗談を歌にして歌っているとしたほうが適切である。こんなことは歌でなければ行われない。歌はフシ(節)を付けて歌うものである。ヨシノがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……とつながるのは、フシ(節)を付けて歌い表すのがふさわしく、よって「吉野讃歌」は必ず長歌で歌い起されている。歌は言語芸術、言語遊戯(Sprachspiel)であり、統治理論の講術ではない。
柿本人麻呂の「吉野讃歌」
結論を先に提示してしまったので、個々の歌に確認する作業だけが残されている(注8)。人麻呂の「吉野讃歌」は2組の長歌・短歌の組み合わせから成る。きちんとフシ(節)をつけて歌ったらしい(注9)。竹類のシノの話なのである。
(1)柿本人麻呂の作(巻第一、万36~37・38~39)
吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 滝の宮処は 見れど飽かぬかも(万36)
反歌
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の 絶ゆること無く また還り見む(万37)
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 一に云はく、黄葉かざし 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも(万38)
反歌
山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(万39)
右は日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。 四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯の正月吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといふは、未だ詳らかに何月の従駕に作る歌なるか知らず。
「吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に」宮を造っている。「