古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「玉かぎる」と「かぎろひ」について

2021年06月25日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 枕詞「玉かぎる」は、万葉集中11例を数える。岩波古語辞典に、「玉がほのかに光を出すことから「ほのか」「はろか」「夕(ゆふ)」「日」にかかり、岩に囲まれた澄んだ淵の水の底で玉のようにほのかに光るものがあるという意から「岩垣淵」にもかかる。」(802頁)と説明されている(注1)。枕詞のかかり方の他の説明同様、到底納得のいくものではない。今日、枕詞と被枕詞との関係がどういう連携で結びついているのか理解されないのは、当時の人々のものの考え方に近づくことができないでいるからである。 枕詞のかかり方が理解できないということは、すなわち、万葉集の歌は真には理解できていないということを表している 。残念ながら、歌の言葉を上っ面でしか感じ取れていないということである。 被枕詞ごとにあげる。
 
夕(去る)
 …… 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる〔玉限〕 夕去り来れば み雪降る ……(万45)
 玉かぎる〔玉蜻〕 夕去り来れば さつ人の 弓月(ゆつき)が岳(たけ)に 霞たなびく(万1816)
イハカキフチ
 …… 大船の 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる〔玉蜻〕 磐垣渕(いはかきふち)の 隠りのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 まそ鏡 見とも言はめや 玉かぎる〔玉限〕 石垣渕(いはかきふち)の 隠(こも)りたる妻(万2509)
 玉かぎる〔玉蜻〕 石垣渕の 隠りには 伏して死ぬとも 汝(な)が名は告らじ(万2700)
ほのかに
 …… うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる〔珠蜻〕 ほのか(髣髴)にだにも 見えなく思へば(万210)
 玉かぎる〔玉蜻蜒〕 髣髴(ほのか)に見えて 別れなば もとなや恋ひむ 逢ふ時までは(万1526)
 朝影に 吾が身はなりぬ 玉かきる〔玉垣入〕 風(ほのか)に見えて 去にし子ゆゑに(万2394)
 朝影に 吾が身はなりぬ 玉かぎる〔玉蜻〕 髣髴(ほのか)に見えて 去(い)にし子ゆゑに(万3085)
その他
 …… 行く影の 月も経(へ)ゆけば 玉かぎる〔玉限〕 日も重なりて 思へかも ……(万3250)
 はだすすき 穂には咲き出ぬ 恋を吾がする 玉かぎる〔玉蜻〕 ただ一目のみ 見し人ゆゑに(万2311)
 玉かぎる〔玉響〕 昨日の夕(ゆふべ) 見しものを 今日の朝(あした)に 恋ふべきものか(万2391)

 最後の例は、 古訓には「たまゆらに」とあり、他にも「たまさかに」「まさやかに」「たまあへば」と試訓されており、ここでは検討から除外する。
 「玉かぎる」についての今日までの理解の前提に、「玉がほのかに光を出す」こととしているのは、表記において、トンボのことを表す蜻蛉にまつわる字が見えるからであろう。トンボやカゲロウなどの類が透き通った羽をしていてちらちらと光を反射して輝くところからそのような類推が行われている。 そのことは、「かぎろひ」という語の表記にも通じている。

 …… 世間(よのなか)を 背きし得ねば かぎろひの〔蜻火之〕 潦(も)ゆる荒野に 白栲(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(がく)り ……(万210)
 今更(いまさら)に 雪零(ふ)らめやも かぎろひの〔蜻火之〕 潦ゆる春べと 成りにしものを(万1835)
 …… あぢさはふ 宵昼(よるひる)知らず かぎろひの〔蜻蜓火之〕 心潦えつつ 悲しび別る(万1804)
 …… 世の中を 背きし得ねば かぎろひの〔香切火之〕 潦ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り ……(万213)
 …… 平城(なら)の京師(みやこ)は かぎろひの〔炎之〕 春にしなれば 春日山 三笠の野辺に ……(万1047)
 東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて 反(かへ)り見すれば 月西渡(かたぶき)ぬ(万48)
 埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの〔迦藝漏肥能〕 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家(いへ)のあたり(記76)

 白川1995.に、「かぎろひ〔炎・陽炎〕 「ひ」は火。「玉かぎる」の「かぎる」に火をそえた形。……「かぎろひ」を〔万葉〕には炎・蜻火・蜻蜓火など義訓の字を用いるほか、香切火のような字をあてている。蜻火・蜻蜓火のように、とんぼの羽の繊細なかがやきとして表現するのは、おそらく他に例をみないようなこまやかな感覚である。唐詩には「陽炎」「陽焔」などの語がみえるが、やはり大陸的な感覚の語とされたものか……。「かぎろふ」「かげろふ」という語は、平安期には「蜉蝣かげろふ」という語と なった。〔名義抄〕に「炎・野馬・蛉カケロフ」とみえる。蛉とは蜻蛉をいう。」(209~210頁)とある。用字を解釈の参考にするのはいいが、引きずられてしまってはいけない。万葉集の文字の使い方には、正訓字から単なる当て字まで、幅広い偏差がある。
 カギロヒの場合、ヒに火の意味を表すことは徹底されている。ヒは乙類である。燃え盛る火の周囲では局所的に空気の密度が異なるようになり、それが混ざり合う際に光の屈折が起こるために揺らめいて見える。その現象をカギロヒと言っている。トンボと火の間に関係があるとすれば、飛んで火に入る夏の虫程度しか考えが及ばない。しかし、それはトンボに限らない。そこでトンボとの関係をこじつけて考え、トンボの羽がキラキラするのを見立てているのであると考えられてきた。だが、冷静に考えればわかるように、燃える火が放つ光のゆらめくさまは、トンボの羽が日光を反射してきらめいているさまとは少なからず異なる。そこで、日射によって生じるカゲロウのことを持ち出してきてゆらゆらしていると見てとっているわけであるが、カギロヒのヒは日(ヒ、ヒは甲類)ではない。
 しかも、万1047・1835番歌に歌われている季節は春である。日射によるゆらめきが一番感じられるのは、夏の暑い日、かんかん照りの太陽がぎらぎらとアスファルトに照りつけるような時である。古代においても、アスファルト舗装こそなくとも、春の現象ではなく夏のものと捉えられないのはおかしい。何しろトンボは春の虫ではなく夏の虫である。万1047・1835番歌に春との結びつきを強くしているのは、それが春の山焼きであるからに相違あるまい。春に山焼きをして燃ゆることをするから草が萌ゆるのである。枯れ草が残っていると新しく草が生えるのを邪魔する。だから野焼きは行われ、牧草地などに当てられている。すなわち、その言葉の同音異義性ばかりか、その音には上位概念として、モユ(燃≒萌)という一語が成り立っているのだとおもしろがって、カギロヒノモユルという言い回しが行われている。カギロヒは、必ず火なのである。
 ここに、トンボという昆虫の実態が介在する余地はない。しかし、タマカギルに「玉蜻」などと書いてある。それが単に借字であるかといえば、何か意味的なつながりがあるから好まれて用字されているように見える。タマカギルが「ほのかに」という言葉を導く例があった。それを「髣髴」と書いてある例がある。髣髴は、また、彷彿とも記す。この彷彿という漢語は双声の語であるが、姿がぼんやりと見えることを言っている。何の姿か。字に見えているように、佛(仏)の姿である。ホトケ様は亡くなった人だから実際に目にすることはもはやできないのであるが、ぼんやりとそれらしい姿を感じ取ることはできる。居眠りをして亡き人の姿を夢に目にすることは多くの人が経験している。記憶とはそういうものであり、人は記憶のなかに生き続けていることになるから、人は二度死ぬと言われている。記憶している人が死ぬ時が二度目の死である。すなわち、目にはっきりとは見えないけれどぼんやりとは見える。イメ(夢)という言葉はそのことをよく表している。そのホトケを形象化したものに仏像がある。美術作品にそれとあるものとして捉えるのではなく、かたどったものだから亡き人の姿を偲ぶよすがとしてあるものである。きれいに展示する必要は本来なくて、秘仏でかまわないわけである。そして、いかにもぼんやりと見ることを促す工夫も古くから施されている。光背を伴う例である。デフォルメが激しいのは不動明王に多く見られる火焔光背で、飛天が付けば飛天光背とも分類されるが、燃え盛る火のなかにホトケが位置していて、逆光になってほのかに感じ取るようになっている(注2)
光背(銅製鍍金、飛鳥または朝鮮・三国時代、594年、法隆寺献納宝物、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0054632をトリミング)
不動明王像(平安時代、12世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0006419をトリミング)
六臂の仏像(kokiriko様「トンボの羽化④【飛び立つ直前編】 古木里庫ビオトープ」https://www.youtube.com/watch?v=kRsv6KWkp2wをトリミング)
 燃え盛る火が歌に歌われているのは、燃え盛る火の中で歌を歌っていた人がいたという故事に基づいてフレーミングされている。上代の人の考え方ならではの論理術が行われている。

 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも(記24)

 オトタチバナヒメが走水に人柱となって暴浪をないだ時の辞世の歌である。ヤマトタケルが野火の難にあっていた時のことを追想した歌である。草薙剣で草を薙(な)ぎ倒したことと浪を伏(な)ぎ倒すことを掛けて歌っている。
 ここに、タマカギルやカギルヒに、トンボ(蜻蛉、蜻蜓)が含み示されていることが明らかとなる。トンボは、その名を古語にカギルに似たカゲロフとも呼ばれつつ、体躯がホトケ、羽根が光背に当たる存在と見て取られたのである。だから好まれて、タマカギルやカギルヒというヤマトコトバに、「蜻」「蜻蜓」という用字を入れ込んだのである。
 整理する。カギロヒは、火の燃えることを指している。炎はときに高くめらめらと燃え上っている。第一義的に野焼きや大火のことを指し、それが野焼きである場合において、モユ(燃→萌)ことから「春」のことを示唆する語として用いられている。万48番歌に、「東野炎立所見而」とある「炎」は、野焼きのことを言っているのであって、明け方の曙光のこととする説はしりぞけられよう(注3)
 タマカギルは、タマ(霊)+カギル(燃え盛る)情景を言っている。「ほのかに」を導くのは髣髴、彷彿、仏像の光背の役割を暗示させるからである。イハカキフチを導くのは、不動明王像などが巖上に坐して火焔光背を伴うからでも、天照大神が石窟(いはや)に籠ったことを思い出しているものとも考えられる。太陽が隠れればはっきりとは目に映らなくなる。皆既日蝕のときの状況は、石屋戸(いはやと)によって太陽が欠けて、輪郭である淵の部分しかなくなって光が弱まることを言っている。万3250番歌の「月も経ゆけば 玉かぎる 日も重なりて」という言い方は、日蝕のことを言っていると理解できよう。日に月が重なることが日蝕であることは理解されていた。万2311番歌に「一目」と続いているのは、不動明王像が片眼を閉じているように見えることによるものかもしれない(注4)
 万45・1816番歌に「夕去り来れば」という場合の「夕」は、古代に、昼を中心とした時間の言い方で、アサ、ヒル、ユフの意味、日の暮れ時のことを言っている。夕日は眩しくて逆光となれば姿を認めにくくなるし、「夕去り来れば」という言い方からは夕方が過ぎて日没時のことを言わんとしている。たそがれ(黄昏)時のことである。よく見えなくて誰だかわからない、タ(誰)ソと呼ばれる由縁である。万2394・3085番歌に「朝影」という語と共に用いられているのは、朝日の眩しさや低い位置からの日の光による細長い影の意ばかりではなく、起き抜けの目にぼんやりとしか見えないことや、水面や鏡に映る像の小さなことを言っているのであろう。万2509番歌にも「まそ鏡」とある。空間認識で補正して感じ取るように訓練されているから気づきにくいが、鏡などから離れれば像は小さくなっている。それを水面に映ることに言い立てて、像が浅いと捉えたからアサ(朝・浅)+カゲ(影)と言って正しいのである。
 以上、「玉かぎる」と「かぎろひ」という二語について検討した。枕詞は、被枕詞との関係で論じられることが多いが、当該語が枕詞かどうかさえ区別がつかない例があるほどに定めにくいものである。短歌形式の31文字、あるいは上代語でいえば、31音において、まるまる5音を費やして余りあるから用いられていると考えられる。意味が広がって余韻を残すのである。被枕詞の関係ばかりでなく、歌全体へ及ぼす効果があったと考え及ぶ必要がある。たまたま今日、上代語の意味がわからなくなっているにすぎず、意味の含みが膨大だったから重宝して使われていたと想定されよう。したがって、万葉集の歌の真の理解のためには、すべての枕詞、すべての上代語、すなわち、ヤマトコトバの、そのネットワーク全体を掌握することが求められているといえる。

(注)
(注1)「はろか」の例は霊異記のもので、ここでは検討しない。
(注2)輪光光背、放射状光背はホトケ自身が光を発する後光であるが、それはそれでまぶしくてホトケの姿は見えづらいものであろう。ガンダーラに始まる焔肩仏からの火焔状の光背の展開について、ヤマトの人が由縁等を理解していたとは考えにくい。
(注3)「炎」を「かぎろひ」と訓んだのは、賀茂真淵の個人的創作、発明によるものである。
(注4)大日如来の化身とされる不動明王が像としていつから本邦に所在していたか、あるいは、人々の間で認識されていたか、定かではない。日本の大蔵経に残されているものとしては、菩提金剛三蔵訳とされる大毘盧遮那仏説要略念誦経に、「不動明王」は登場している。筆者は、拙稿「熟田津の歌について―精緻な読解と史的意義の検討―」で、碇石について、やはり「不動」の概念が理解されているものと考えている。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白井1993. 白井伊津子「枕詞・被枕詞事典」稲岡耕二編『万葉集事典』別冊国文学第46号、学燈社、平成5年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。

(English Summary)
The words "Tamakagiru" or "Kagirofï" of Yamato Kotoba were sometimes written as a dragonfly character “蜻”. So, it has been thought to suggest the unique observation of nature by the ancient Japanese. In this article, we will perceive that they had seen the wings of dragonflies as much like the halo of Buddha statues. The various Buddha statues were shaped as faint appearances by halos in the shape of fires.

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