古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

大化改新を導いた「打毬」記事について─蹴鞠かポロかホッケーか─

2020年07月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
皇極紀の「打毱」記事

 皇極紀にある「打毱」は、中臣鎌足なかとみのかまたり中大兄なかのおほえとが厚誼を通ずるきっかけとなった出来事として有名である。脱げた靴を拾ってあげたことが感動的な出来事として扱われてきた(注1)。二人は出会い、後に大化改新へとつながった。藤氏家伝には「蹴鞠」とある。

 ……中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじを以て神祇伯かむつかさのかみす。再三しきり固辞いなびてつかへまつらず。やまひまをして退まかりいでて三嶋にはべり。……中臣鎌子連、為人ひととなり忠正ただしくして、ただすくふ心有り。乃ち、蘇我臣入鹿そがのおみいるかが、君臣きみやつこらま長幼このかみおととついでを失ひ、社稷くに𨶳𨵦うかがはかりことわきばさむことをいくみ、歴試つたひて王宗きみたちみなかまじはりて、功名いたはりを立つべき哲主さかしききみを求む。便すなはち、心を中大兄なかのおほえに附くれども、䟽然さかりて未だ其の幽抱ふかきおもひぶることず。たまたま中大兄の法興寺ほふこうじつきの樹のもと打毱まりくうるともがらくははりて、皮鞋みくつの毱のまにまに脱け落つるをまもりて、掌中たなうらに取りちて、すすみてひざまづきてつつしみてたてまつる。 中大兄、むかひ跪きてゐやびてりたまふ。これより、むつみして、倶におもへるを述べ、既にかくすこと無し。後にひとしきりまじはることをうたがはむことを恐りて、倶に手に黄巻ふみまきりて、自ら周孔しうこうのり南淵先生みなぶちのせんじやうもとに学ぶ。遂に路上みちのあひだ往還かよころほひに、肩を並べてひそかに図る。相かなはずといふことなし。(皇極紀三年正月)
 更欲君。歴-見王宗。唯中大兄雄略英徹。可与撥_乱。而無参謁。儻遇于蹴鞠之庭。中大兄皮鞋随毬放落。太臣取捧。中大兄敬受之。自茲相善倶為魚水。(家伝上・鎌足伝、天平宝字四年(760))

 大系本日本書紀に、「毱は鞠に同じで、まり。打毱は打毬をもいう。打毬には二義があり、一に騎馬で曲杖をもって毬をうつポーロ風の遊戯をいい、荊楚歳時記や史記正義では、蹴鞠(けまり)をいうという。蹴鞠は数人が一団となり、両団が相対して、まりを蹴る競技。競馬の打毬は平安朝に行われたが、ここのは蹴鞠のこと。家伝に「儻遇于蹴鞠之庭」とある。クウルの訓、岩崎本の古い朱の傍訓による。蹴の古い活用は、奈良時代の蹴散、クヱハララカスに見られるように、ワ行下二段活用。ここは、その連体形でクウルの実例とみるべきもの。」(217頁)と適切な解説が付されている。一方、新編全集本日本書紀には、「「打毱」は『和名抄』にマリウチの訓がある。蹴鞠けまりとは異なり、打杖で毱まりを打って勝負を争う、今日のポロまたはホッケー風の競技。本条もこれであろう。」(86頁)とある。新編全集本が引くのは、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に所載の和名抄である。「打毬 唐韻に云はく、毬〈音は求、打毬は内典に或に之れを拍毬と謂ひ、萬利宇知まりうちと云ふ。〉は、毛丸打つ者なりといふ。劉向別録に云はく、打毬は昔、黄帝の造る所なり、もと兵勢に因りて之れをつくるといふ。」とある。他の十巻本諸本にはその記述はなく、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好むなりといふ。〈世間に末利古由まりこゆと云ふ。蹴の字は千陸反、字は亦、蹵に作る。公羊伝注に、蹴鞠は足を以て逆に蹈むなりと云ふ。〉」とある。大系本の注にあるとおり、「打毬」には二義あって、後にダキュウと呼ばれるポロ風の競技と、今日まで伝わる蹴鞠とが一つの漢語で表されていた。狩谷棭斎もそう考えている(注2)
左:蹴鞠図(田中有美編『年中行事絵巻考 巻3』、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966650/3をトリミング)、右:打毬図(正倉院宝物、花氈第4号、北倉150、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010506&index=0をトリミング)

ダキュウのこと

 ダキュウは、西宮記六・五月「幸武徳殿」に、「打球者四十人列殿前再拝、雅楽挙幡奏楽。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200019272/198?ln=ja)などと記されるとおり、左右楽を伴って華やかに賑やかに騒々しく行われる宮中行事として伝わっている。その最初の記事は、万948・949番歌の左注にみえる。

  四年丁卯の春正月、もろもろおほきみ・諸の臣子おみのこ等にみことのりして、授刀寮じゆたうれう散禁さんきんせしめし時に、作れる歌一首〈并せて短歌〉
 真葛まくずふ 春日かすがの山は うちなびく 春さりゆくと 山のうへに 霞た靡き 高円たかまとに うぐひす鳴きぬ もののふの 八十伴やそともは かりの 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友めて 遊ばむものを 馬並めて かまし里を 待ちかてに 吾がせし春を かけまくも あやにかしこく 言はまくも ゆゆしく有らむと あらかじめ ねて知りせば 千鳥鳴く 其の佐保川さほがはに いはふる すがの根採りて しのふ草 はらへてましを く水に みそきてましを 天皇おほきみの 御命みことかしこみ ももしきの 大宮人の 玉桙たまほこの 道にも出でず 恋ふるこの頃(万948)
  反歌一首
 梅柳 過ぐらくしも 佐保の内に 遊ばむことを 宮もとどろに(万949)
  右は、神亀四年の正月にあまた王子おほきみ、及び諸の臣子等おみのこたちの春日野につどひて、打毬うちまりたのしびす。其の日、たちまちあめくもり雨ふりかみなりいなびかりす。此の時に、宮中に侍従じじゆ、及び侍衛じゑい無し。みことのりして刑罰つみに行ひ、皆授刀寮に散禁して、みだりに道路みちに出づることを得ずあらしむ。時に悒憤おぼほしく、即ちこの歌を作れり。作者は未だ詳らかならず。
打毬(宮内庁HP「打毬」記事(http://www.kunaicho.go.jp/culture/bajutsu/dakyu.html)
 宮中から人々がいなくなるほどの大スポーツ大会を勝手に催したらしい。職務をさぼって大騒ぎ、大はしゃぎをし、事後、大目玉を食らい、しょんぼりおとなしくしている風情を歌っている。喧噪と静寂が対比されている点が、歌の眼目になっている(注3)

「打毱」は蹴鞠であること

現代の蹴鞠(SankeiNews「下鴨神社で蹴鞠初め」https://www.youtube.com/watch?v=UO3vRH2z8jo)
 他方、蹴鞠は、懸りと呼ばれる木の下で、丸く円を描くように並び立って鞠を蹴り合う遊戯であり、私語が禁じられている。現在の蹴鞠儀式でも、観客向けのアナウンスや観衆の歓声以外は静かである。蹴る人が合図に発するアリ(また、ヤクワ、ヲウとも)という言葉以外、本来、無言のゲームである(注4)。平安末期の蹴鞠故実書、藤原成通(承徳元年(1097)~ 応保2年(1162))の成通卿口伝日記に、次のようにある。

一足ぶみのべ足の事。
よの人皆左をさきにたつ。心々の事となれども。右の足を先にふむ。かたがたいみじき事也。是又左をかろくなさん為なり。右を先にたつれば。一またにのびんと思に。のびらるゝ様なり。左を先にふめば。右ふみかへられ。ちがへざればすくれたり。能々心得よ。必ず右の足を先にふむことしつくべし。
一鞠の時の身の振舞の事。
心をゆるに思べからず。心の中に躰をせめよ。あらはにせめつれば。こはくみえてたはやかならず。足を後ろへにがし頭をすゝむるはよしといふ。その様をしつけつれば。猶たはやかならず。只心のうちにおもへば。色にいでぬはたをれたる物からしたゝかなり。又庭にあらむ人とに。心をゆるにすまじ。皆敬ひ畏まりて。うちとくる事なかれ。さりとてにらみはるにはをよばざれ。打とけつれば。しどけなきことの侍也。心を潜めてうはなだらかなるべし。
一鞠に立て。しげく物いふべからず。いたり様に物をしへすべからず。高く笑ふべからず。さりとてにがりたるけしきにみゆまじ。心に面白く思へ。
一鞠にたちて。ゆめゆめべちの事を思べからす。ひとへに鞠に心を入よ。……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879539/200・202)

 また、作者不詳の蹴鞠百五十箇条に、「百三十八 まりの場に出ては。こひごゑの外。うむの事いわぬものなり。」、室町時代の飛鳥井雅康(二楽軒宋世)(永享8年(1436)~永正6年(1509))の蹴鞠百首和歌には、「ありといふ声より外にいふ事は鞠のかかりにせぬとこそ聞け」(各、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936508/42・28)とある。次に蹴る合図にアリという掛け声をかけることだけが許されていた。
 なぜそうしたのか。集中しないとできない曲芸なのだから、そう約束している。言葉を発してよいのは、蹴られた鞠を次に受ける時に発する、アリなどという合図に限られていた。鞋が脱げてまさかのタイムの状態になっていても、言葉を発してはならなかった。言葉を発せずに、鎌足は中大兄の求める意のままに行動し、意気投合している。このようなことは、男女間の恋愛において時に見られる。互いに一目惚れをした時、あるいは、交際中の絶好調の時、お互いに目と目を見つめ合ってウンウンと頷くだけで思いが伝わる。数年経てばあれは誤解であったと気づくのであるが、当人同士は恋に夢中なのでどうしようもない。運命の出会いだと思っている。恋愛は感動的である。鎌足と中大兄の出会いは、状況設定が蹴鞠の場という言葉を発してはならないところで言葉を発せずに意思が伝わったから、恋愛のように感動的なのである。
 皇極紀の記事には、鎌足が中大兄の「候皮鞋随毱脱落、取-置掌中、前跪恭奉。」に対し、中大兄は「対跪敬執。」とある。終始、無言である。これはパントマイムである。そんな無言劇が演じられた背景を想定するとすれば、舞台設定として、おしゃべりが禁じられている蹴鞠だからである。そして、「皮鞋随毱脱落」とあるのだから、皮鞋と毱とが当初から密接な関係になければならない。蹴ったから一緒に飛んで行ったのである。ポロやホッケーの場合、「[自握手]杖随毱脱落」ということになるのではないか。さらに、その杖は箸よりも格段に長いから、「取-置」という訳にはいかない。
 鎌足は、天皇家に蘇我氏が並び立っている政治体制を打破したいと考えている。冠位十二階の制定以来、蘇我氏も位を授ける側にあるという通念を打破しなければならない。当たり前だと思われていることを覆すには、たくさんのことを語らなければならない。しかし、世は蘇我氏が牛耳っており、妙な動きが知れれば中大兄ともども身の危険にさらされる。神祇伯を固辞して出仕しなかったり、南淵請安先生のところへ勉強に行くふりをして道々二人だけで語らう時間を作るなど、蘇我氏側、すなわち、時の政権側に悟られないように腐心している。皇極紀の「打毱」の記事は、たくさん話したい→無言劇→たくさん話す、という流れの結節点になっているといえる。わかりやすい構図が示されている。
 紀の執筆者は、「打毱」という語の、喧騒と静寂、饒舌と沈黙の両者がまとめられている点に興味をもち、わざわざ「打毱」と記したように思われる。もし、皇極紀の「打毱」がポロ風の競技とすると次のような矛盾にも陥る。鎌足と中大兄はポロの最中にふつうに会話を交わすことができる。そのようにして意気投合したと仮定すると、話が蘇我氏側に聞こえてしまって直ちに拘禁されることになる。戦前の日本や、スターリン時代のソ連をイメージしてみればわかるように、恐怖政治時代である(注5)。すなわち、話をしているという形式だけで、クーデターを計画しているという内容まで表すという意味合いを込め、紀の記述は行われている。逆に、ポロ競技の大騒ぎの最中にパントマイムを演じているとすると、あまりにも場違いで不自然であり、それこそ蘇我氏側に怪しまれるだろう。偶然にも、中大兄は、言葉を交わすことが禁じられている蹴鞠をしていた。皇極紀にはきちんと、「偶」と記されている。話をせずに好を交わす千載一遇のチャンスであったことが明示されている。「随」や「偶」など、語一語に意味を込めながら録していくふひとの姿勢は、司馬遷を髣髴させるものがある。

軽皇子像描写による傍証

 恐怖政治の下にあっては、安易に人を介して話をしたりすることは慎まなくてはならない。世に知れ渡れば命はないからである。そういう用心深さがあるかどうか、それは蹴鞠の場の無言に耐えられるかどうかに象徴的に表れる。中大兄はそれができたから中臣鎌足の目に頼もしく映った。それ以前に鎌足が厚誼を通じていた軽皇子(後の孝徳天皇)はそうではなかった。冒頭にあげた日本書紀の中略部分に、軽皇子の挙動が記されている。藤氏家伝には、前段記事として載っていて評価も下されている。

 時に、軽皇子かるのみこ患脚みあしのやまひしてまゐりつかへず。中臣鎌子連、いむさきより軽皇子にうるはし。かれの宮に詣でて、侍宿とのゐにはべらむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気こころばへ高くすぐれて容止かたちれ難きことをりて、乃ち寵妃めぐみたまふみめ阿倍氏あへしを使ひたまひて、別殿ことどのきよはらへて、にひしきねどこを高くきて、つぶさかずといふことからしめたまふ。ゐやあがめたまふことことなり。中臣鎌子連、便ちめぐまるるにかまけて、舎人とねりに語りて曰はく、「こと恩沢みうつくしびうけたまはること、さきよりねがへるに過ぎたり。たれか能く天下あめのしたきみとましまさしめざらむや」といふ。舎人を充てて駈使つかひとせるを謂ふ。舎人、便ち語らへるを以て、皇子にまをす。皇子大きに悦びたまふ。(皇極紀三年正月)
 于時軽皇子患脚不朝。太臣曽善於軽皇子。故詣彼宮而侍宿。相与言談。終夜忘疲。軽皇子即知雄略宏遠智計過_人。計特重礼遇全得其専。使寵妃朝夕侍養。居処飲食甚異異于人。太臣既感恩。潜告親舎人曰。殊蒙厚恩。良過望。豈無汝君為帝皇耶。君子不言。遂見其行。舎人伝語於軽皇子。皇子大悦。然皇子器量不与謀大事。(家伝上・鎌足伝)

 鎌足は、舎人を使って伝言を聞くに慎重かどうかを探っている。軽皇子は、「患脚」であるから蹴鞠ができない。つまり、黙っていることができないことが暗示され、人づての話を真に受ける程度の人物は、「器量不与謀大事。」であると断じられているのである。恐怖政治下においてクーデター計画を練って実行する際、共謀者に肝心の資質が述べられている。「打毱」が蹴鞠であることを支持している。

蹴鞠の動作のフムとクウ

 蹴鞠をするのは難しい。和名抄の「蹴鞠」の項に、「以足逆蹈也。」とあった。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「引く所の公羊伝の注は宣六年文、原書に、足を以て逆に躢するを踆と曰ふに作る、蹋躢は同じなり、広韻に見ゆ。蹋踏は同じなり、集韻に見ゆ。唯だ踆に作るは此の引く所と同じうせず。按ずるに唐の石経公羊伝に踆に作る。今本と同じ。釈文に亦云ふ、踆の音は存、則ち源君引く所、誤りに似て、然も慧琳音義に引く、足を以て逆に蹋むを蹴ると曰ふに作る。五見皆同じ。蓋し古に蹴と作る本有る也。曲直瀬本に、以足の上に蹴の字有り。那波本に、蹴鞠二字有り。鞠字は衍なり。山田本に、踏は蹈に作る。那波本同じ。按ずるに、踏・躢は皆蹋字の異文なり。踏・蹈並びに践むと訓む。然るに同じ字に非ず。踏は公羊伝注と合ふ。則ち蹈と作り誤る。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209923/99)とある。蹴鞠は逆に蹈むことが明示されており、足の行方として、フムとは逆の言葉、上代語のクフについて、きちんとした理解が求められている。
 時代別国語大辞典は解釈に苦しんでいる。

くう【蹴】(動下二)蹴る。「若沫雪くゑハララカス倶穢簸邏邏箇須くゑハララカス〉」(神代紀上)「此雷悪怨而鳴落、くゑ久恵くゑ践於碑文柱」(霊異記上一話興福寺本)「偶預中大兄於法興寺槻樹之下くうるマリ之侶」(皇極紀三年)「当麻蹶速くゑハヤ」(垂仁記七年)【考】梁塵秘抄には「馬の子や牛の子にくゑさせてん、ふみわらせてん」のように古形を存しているが、名義抄では「蹢クヱル」のほかに、「蹴 化ル、クユ、コユ」という形も見える。「天皇祈曰、朕将此賊、当くゑムニ茲石、譬如柏葉而騰、即くゑタマフニ之、騰柏葉、因曰蹶石野クヱイシノ」(豊後風土記直入郡)の「蹶」はクヱとも訓まれるが、フムとも訓めることは次の地名説話との関連においてもいえる。「朕得土蜘蛛者、将フマムニ茲石、如柏葉而挙焉、因フミタマフニ之、則如柏上於大虚、故号其石蹈石ホムシ也」(景行紀十二年)。第三例の「打毱」の岩崎本の朱点傍訓はクウル(マリ)とあり、釈日本紀・秘訓にはクユルと見える、名義抄や世尊寺字鏡にあるように、蹴るの意味で、クユという語もあったらしいが、上代における存在は疑わしい。これと関係づけて考えるべきは、新撰字鏡の「跒跁跒行皃、用力也、立走、又古江奈良不こえナラフ・〓(足偏に商)万利古由マリコユ、又乎止留」、和名抄の「蹴鞠末利古由マリコユ」、その他「脚ノ指ヲモチテ地ヲエテ足ヲ壊リツ」(小川本願経四分律甲本古点)「右ノ足ヲ以テ之ニユルニ足復粘着ス」(石山寺本大智度論古点)や前掲の名義抄などに見えるコユという語である。これが果たして、いわゆるケルという意味を有する語であったか、あるいは、強く踏む・おどり上がるの意で、むしろ越ユと関係づけられる語であったかなどの点は問題であるが、アゴエという語が、これととの複合語であったとすれば、この語の上代における存在を想定することもできよう。クユは、あるいは、クウが、このコユへの類推によって変化して、生じた形かもしれないが、また一説には、クウという終止形はなく、古くルは、ク・ク・クル・クル・クレ・クヨのように下一段活用としたとの考え方もある。→あごえ・ふむ(252頁)

 ふつうに考えれば、足を地面へ押し当てるように step , tread することがフムであり、足を使って物を上方ないし前方など、地面とは違う方向へ kick することがクウという言葉であろう。だから、和名抄に、「以足逆蹈也。」とある。「蹈む」という語の範疇に、「蹴鞠」の「蹴」の語意が、方向として逆であるが含まれている(注6)。上代語のクウ(下二段活用、クヱ・クウ・クウル)という語は、その後廃れてケルという語に取って代わられた。その中間的な、他語とないまぜの形として、名義抄に、「蹴 化ル、クユ、コユ」などとあると考えられる。
 蹴鞠において、鞠を蹴るということは、なによりも第一に、前段階として、地面を踏むことが必要なのである。ステップすることが、キックの要件である。それは、今日のサッカーにおけるリフティングでも同じことなのかもしれないが、蹴鞠では、右足だけで蹴ること(注7)、重々しいユニフォームを身に着けていて動きにくいこと、鞠が正球を目指しているわけではなく二球を合体させたようなものであること、かかりの木のような煩わしいもののあるところで行うこと、人の輪の方を向いて蹴るのが正式であること、など諸条件が課せられている。非常に難しい。ここに、古語の、クウ(蹴)という語と、フム(踏・蹈・蹶)という語とが、相反しながら親近する性格が見えてくる。

相撲のフムとクウ

 クウとフムは、豊後風土記や景行紀の用例に見られるように、両訓可能な点で概念に重なるところがある。次に挙げる相撲の起源話には、「蹶」という字に、クヱともフムとも傍訓が付いている。

 ……左右もとこひとまをしてまをさく、「当麻邑たぎまのむらに勇みこほひと有り。当摩蹶速たぎまのくゑはやふ。其の為人ひととなり、力こはくして能くつのかぎぶ。恒に衆中ひとなかに語りて曰はく、『四方よもに求めむに、あに我が力にならぶ者有らむや。いかにして強力者ちからこはきものに遇ひて死生しにいくことはずして、ひたぶる争力ちからくらべせむ』といふ」とまをす。天皇すめらみこときこしめして、群卿まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「われ聞けり、当摩蹶速は、天下あめのした力士ちからびとなりと。けだし此にならぶ人有らむや」とのたまふ。ひとりまへつきみ進みて言さく、「やつかれうけたまはる、出雲国いづものくに勇士いさみびとはべり。野見宿禰のみのすくねと曰ふ。こころみに是の人をして、蹶速にあはせむとおもふ」とまをす。即日そのひに、倭直やまとのあたひおや長尾市ながをちつかはして、野見宿禰をす。是に、野見宿禰、出雲よりまういたれり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力すまひとらしむ。二人相むかひて立つ。おのもおのも足を挙げて相む。則ち当摩蹶速が脇骨かたはらほねを蹶みく。亦其の腰をくじきて殺しつ。かれ、当摩蹶速のところりて、ことごとくに野見宿禰に賜ふ。是以これ其の邑に腰折田こしをれだ有ることのもとなり。野見宿禰は乃ちとどまり仕へまつる。(垂仁紀七年七月)

 今日の大相撲の四十八手に、上の例のような足で踏みつけるような技、殺すような仕儀はない。天武紀には、隼人の相撲の例が載る。

 是の日、大隅おほすみ隼人はやひと阿多あたの隼人と朝廷みかど相撲すまひとらしむ。大隅隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)

 この天覧相撲の場合も、今日の興業に見られるものに近いものであったろう。余興としての性格が強く、ローマのコロッセオのような殺し合いはなかったものと思われる。垂仁紀の「二人相対立。各挙足相蹶。」は、今日の相撲において、「仕切り」とされる仕儀に当たるのではないか。今日、呼びあげられて土俵に上がり、まず、徳俵のところで「二人相対立。各挙。」という動作となっている。仕切り動作の最初に、拍手を打つ仕種をするのは、手に何も持っていないことを示すためでもあろうし、それが相手に対して足を使って蹴るものではなく、手を使って押したり引いたり投げたりはたいたりする競技であることを誓うものでもあろう。「各挙足相蹶。」とは、土俵の隅の塩や水のあるところへ一度行ってからのことで、そこで四股を踏んでいる。
相撲(洛中洛外図屏風、福岡市博物館蔵、ウィキペディアコモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rakuchu_rakugai_zu_byobu_(Fukuoka_City_Museum).jpgをトリミング)
 すなわち、野見宿禰は、仕切りの際の準備運動の四股をフム所作を、実際の試合のこととしてしまい、いきなり(「則」)フミ(蹶・蹈)つけたということではなかろうか。出雲国出身の田舎者には、相撲のしきたりがわからなかったのである。シキリとは、シキタリのことである。出雲国から「まういたれり」とあって、「きたり」とは書いていない。説明がなかったのだから野見宿禰に悪気はない。勝ちは勝ちである。大して面白くない洒落であるが、他に考えようがない。そして、言葉としては、フムことがケルことに先んずることを物語っている。蹴鞠の所作と同じである。神代紀にも、素戔嗚尊を迎えるにあたって天照大神は、髪や服装、装身具、武器を整え、それにつづいて見得を切るような所作をとる。

 ……堅庭かたにはみてむかももふみぬき、沫雪あわゆきごとくに蹴散くゑはららかし、 蹴散、此には倶穢簸邏邏箇須くゑはららかすと云ふ。……(神代紀第六段本文)

 その後、雄叫びをあげている。先に「蹈」んでから「蹴散」、今日の言葉で言えば、蹴散らしている。堅い大地を股まで左足は踏みしめて、軸足を確かなものにして、それから勢いよく右足を振り抜いて蹴っている。軸足が不確かでは蹴ることはできない。クウはフムが前提なのである。ここに、蹴鞠の絶対的なルールとしての無言劇が立ち現れる。大相撲においても、土俵上で取組中に声をあげることに抵抗感があったり、仕切りの姿勢が行き過ぎると違和感があると評されるのは、人々の意識の底に、「相撲とは何か」についての考えが根づいていることの表れであろう(注8)。フムことについての観念が行き渡っている。

フムの奥義

 蹴鞠においておしゃべり、私語がなぜ禁止されているのか、その理由について、これまで深く考究されたことはなかった。口伝書に、キックの新技などが盛んに記される陰で、当たり前の事として書かれている。当然のことだからである。第一に、集中しなければ、鞠を地面につけないようにして一定の高さを保って蹴り合い続けることは難しい。スポーツとして、運動の技能としてそのとおりであろう。と同時に、第二に、上手に蹴るためには上手に蹈むことが求められるのである。四股と言いながらも二足歩行動物である。歌いながらダンスをするパフォーマンスは進歩したが、フリートークをしながら同じダンスをすることはかなり難しいことであろう。そして第三に、釈日本紀・巻第十六の秘訓一に、有名ながら途方もないこととされている解釈が載っている。

 ○問。書字不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字。不美云訓依此而起歟。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)

 フミ(文・字・書)を踏むことと、何とかして結びつけて解釈しようとしている。その指向は間違っていないと思われる。フミ(文・字・書)があれば必然的に黙読することができる。黙っていても意味が相手に伝わる。そのようなことは、無文字社会ではあり得ないことであった。ということは、逆に、フミという語に関係のある事柄は、黙ってしなければならないことを相即的に約束しなければならない。それが、言霊信仰のもとでの人々の集合意識であった。ことこととが一致するところに、人々の共通認識が設定されていた。そうしなければ、人々の間に伝わるということがなく、社会は成り立たない。言い換えれば、社会とは持続的なコミュニケーションシステムそのものである。
 蹴鞠が鞠を蹴るうえで踏むことを前提にしているのは、フミ(文・字・書)としてあって黙って伝えることを、鞠を介して行う競技だったからである。相似を成している。蹴鞠の情報伝達の方法は黙読である。とはいえ、具体物としてのフミ(文・字・書)を備えているわけではない。カンペとなる笏も持たない。弘安九年(1285)の革匊要略集の「二 威儀」に、「一笏事 示云、笏者鞠庭へ不持出者也、示云々」(渡辺・桑山1994.211頁)、13世紀末の内外三時抄の「装束篇」に、「釼ハして鞠場に出へし、シヤク扇同之」(同373頁)とある。フミは「踏」をもって全うしているのである。
 蹴鞠という仕儀は、三次元的な広がりの中でありつつ懸の木に邪魔されながら、あるいは、目印、目安にしながら、片足だけである程度の高さへ蹴上げて伝えている。よほどの動体視力と運動能力を必要とする。正球ではなく、また、鞠ごとに違う感触を確かめては、そのときに繰り広げられる鞠場の環境を認知して、対面しながら周囲にいる鞠足と呼ばれる選手の力量を探っていっている。膨大な量の情報処理を行っている(注9)
 万葉集に、フミタツという語が、鳥を追い立てる形容にのみ使われている点は興味深い。「鶉雉み立て」(万478)、「鳥み立て」(万926)、「千鳥ふみたて」(万4011)、「鳥ふみたて」(万4154)と見える。釈日本紀に、フミ(文字)は鳥の足跡に由来するとする説に近しい。最も人々に近い存在となった鳥は、ニワトリである。すると、にはとりと蹴鞠とで、言葉の範疇として、どこかで交差する地点があったかもしれないと推測が行く。鶏と蹴鞠との関係を、「鞠場まりには」のニハ(庭)に見た可能性がある。ニハ(庭)という言葉は、神事の場、狩猟・漁労の場、邸内の農作業の場、邸内の庭園、など多様な意味がある。蹴鞠の court の意も含む。
鶏の蹴爪
 釈日本紀の鳥の足跡説において、鳥のなかに歩を進めるとき、蹴爪も露わにして地面を踏み蹴っていくものがいて、足跡がついている。現代語の「蹴るように歩く」意は、上代語に、フム(踏・蹈・践)である。蹴爪を持った鶏が足跡をつけてフムのを観察すれば、釈日本紀説はかなり学問的な解釈に映る。むろん、それはフミ(字・文・書)という語の語源を、フミ(踏・蹈・践)であると考えたわけではなく、平安時代当時の人たちがそのように捉えて納得していたことがよく了解されるという意味である(注10)。古代において、言葉は語源を尋ねるものではなく、どうしてそのように構成されているかをおもしろがるものであったと考えられる。結果的に、記紀万葉のなかでの言葉の使い方は、洒落やなぞなぞが多発していくことになっている。無文字文化から文字文化への過渡期にあった飛鳥時代の人たちは、頓智がよく働いていた。
 以上、基本動作であるフム・クウをヤマトコトバのなかで詮議し、皇極紀の大化改新へつながった「打毱」競技が蹴鞠であったことを確かめた。

(注)
(注1)黒田2007.237~238頁、黒田2011.51頁に、感動的ではないとする意見がある。
(注2)箋注倭名類聚抄の「打毬」の注に、「○七略別録二十巻、漢の劉向の撰、隋書・唐書に見ゆ。今伝本無し。荊楚歳時記に、打毬・鞦韆・施鈎之戯、注に劉向別録を引きて、蹴鞠は黄帝の造る所、兵勢を本とする也と云ふ。或に、戦国より起ると云ふ。初学記に打毬と題し、別録を引くは歳時記と同じ。後漢書梁冀伝の注に引き、蹴鞠は伝言に黄帝の作る所、或に戦国の時に起ると曰ひ、蹴鞠は兵勢也と作る。太平御覧に同じ。按ずるに歳時記・初学記、打毬の注に別録を引き、其の文、蹴鞠に作り、則ち二書に、所謂、打毬は、即ち蹴鞠なり。拍鞠に非ざる也。而して拍鞠は亦、打毬と名づく。唐に打毬楽有り。其の伎、曲杖を執りて毬子を打つの勢と。又、馬に乗りて毬子を打つ者有り。……源君、其の名の同じなるを見、歳時記・初学記に打毬を以て誤りて拍鞠と。遂に別録の蹴鞠の字を改め、打毬と作るは是に非ず。又、諸書に引く所、皆昔の字無く、疑ふらくは是は字の譌り、或は黄字と形似て誤衍する也。……」とあって、「蹴鞠」の項を後で付けたように書いてある(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209923/96~99)。ここに和名抄は諸本の研究を要することになるが、ここでは措く。狩谷棭斎は、「蹴鞠」の項では、動詞「蹴う」の活用について論じている。さらに、「○拍毱は涅槃経・梵網経・瑜伽論に見ゆ。按ずるに、毬・毱は一声の転、蓋し同字也。然も二字とも皆、説文に載らず。即ち、鞠は俗字なり。慧琳音義に、毱は亦、毬に作り、ともに俗字也。今俗に呼ぶ求なる音は、諸字書に竝びに無く、毬字は正しくは鞠に作る。」(同上)などとも説明している。いずれにせよ、「打毬」なる字が書いてあるからそれはダキュウ(ポロやホッケー)のことであると短絡して考えるのは、浅学な現代の人に限られることらしい。ダキュウか、蹴鞠か、いずれであるかを冷静に考えたい。
(注3)ポロとしての打毬の様子は、2015年5月30日、天皇皇后両陛下のご傘寿の賀の記念として、安倍晋三首相ら現職と歴代の三権の長、閣僚約160名を皇居に招いて、母衣引ともども古式馬術を披露、観覧あそばされたことで記憶に新しい。古式打毬については、「【青森の魅力】騎馬打毬 - 紅白舞いて、ちはやぶる(八戸市)」(https://www.youtube.com/watch?v=8_xE3GUAnbg)ほか参照。
(注4)古今著聞集・巻十一にも、「毱を受くるにはヤクワといひ、アリといひ、ヲウと云ふ。」とある。
(注5)恐怖政治(terreur)は、権力者が、自らに反対するものを殺戮、投獄して弾圧することで国民に恐怖心を抱かせ、人々の口封じをして自らの権力を保つような政治体制をいう。それは必ずしも政権に由来するばかりでなく、幕末期の京都でテロリスト集団の新選組が暗躍し、意見を言うことができなくなってしまった状況も同様と言える。
(注6)これに対して現代語では、「蹴って歩く」というように、「蹴る」という語が「蹈(踏)む」という語よりも広い概念として捉えられているかと思われる。
(注7)室町初期まで蹴鞠の宗家としてあった御子左家では左足でだけ蹴ったという。
(注8)日本相撲協会において、2016年4月、琴勇輝は審判部から立ち合い前の発声を禁じられている。
(注9)捻挫防止のために、フム・フム・クウの三拍子で足を使うように言っている。池2014.、渡辺2000.参照。
 クウ(蹴)については、白川1995.に、鋭い指摘がある。

くう〔蹶・蹴〕 下二段。「くゑ・くう・くうる」と活用する。のち「ける」の形となった。足ではげしく蹴ることをいう。おそらく擬声語であろう。「ゆ」とも関係がある語であろう。……けつけつ声。厥はものを彫刻する剞厥きけつの刀。これで強くものをけずることをいう。そのような状態で足のあたることを蹶という。〔説文〕二下に「たふるるなり」とみえる。またはね起きることを蹶然という。「くゑ」と同じく、擬声語である。

 ヤマトコトバにクウは擬声語ではないかとしている。漢語でも、ケツがやはり擬声語であるとされている。入声のケツは、ケッという音として感じられる。ヤマトコトバのクヱ・クウなどは、ク・クゥと感じられたのであろう。確かに、蹴鞠(蹶鞠)という語も、ク+マリ & ケッ+マリ→ケマリへと転じたとも考えられる。すなわち、語構成は、ケル+マリ→ケマリ説ばかりに限られはしないのである。もともとが擬声だからである。説文の説明から、垂仁紀七年条に、当摩蹶速が捔力(相撲)に負けたのは、その名のとおりと知れる。たおれてまれたことを嘆いて、感嘆の助詞のハヤと補う名前になっていると言える。
 木村2009.に次のようにある。

 ……「立つ・居る(すわる)・寝る」とは、人の動作の基本的な三態だが、「立つ」時には必ず「踏む」という動作が一体となっている。「立つ」とは全身のありようだが、その時の足のはたらきが「フム」である。したがって「フム」という言葉は、人が自らの身体をそうしたありようを意識し始めた時からあったに違いない古来の言葉である。「フム」とは、足裏の下に土や石や床等を体重によって自然に押し付けることだから、普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合と、行進の「足踏み」などのような意識的な場合とがある。「踏切」もまた、つまづいたりしないように注意して(意識的に)踏んでいることが多いのだろう。(171頁)

 筆者は、上代語のフムにおいて、「普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合」の存在することを支持できない。蹴鞠が、フム・フム・クウの三拍子を1セットの動作と捉えるとき、それは意識的なものである。「堅庭は向股むかももに蹈みなづみ、沫雪の如く蹶ゑ散かし、いつの男建をたけび蹈みたけびて待ち問ひたまはく、……」(記上)とあるとき、明らかに意識して地面を踏んでいる。椅子に腰かけて足が地面や床に接している時、例えば半跏思惟像の片足などは、フムとは言わないように感じられる。万葉集では、フミタツという語は、鳥を追い立てる形容にしか用いられない。それ以外のフミ○○という複合動詞の用例(み起す、踏み越ゆ、蹈み鎮む、踏み平らぐ、踏み通る、踏みならす、踏み貫く、み求む、み渡る)も、動詞+動詞の関係のままにあり、後続の動詞が補助動詞化したり、フミが接頭語化したりしてはいない。単独で使うフムという動詞の用例のほとんどに、それを明かすための対象物、「石」、「岩根」、「地」、「跡」、「雪」、「足」、「道」といった語(名詞)を伴って説明している。無意識の、ないしは、単に立っている時の step on , tread on の際に、ヤマトコトバのフムという語は用いられていないようなのである。木村2009.の概念規定の説明では、観念の表れとしての言語、記号操作の出発点としての言語、イメージ抽象の元素としての言語、という立場に反すると考える。
(注10)古今集の「忘られん 時しのべとぞ はま千鳥 ゆくへも知らぬ 跡をとどむる」(よみ人しらず、雑下・996)という歌は、記紀歌謡の「浜つ千鳥」(記37・紀4)が一語化し、かつ、中国古代の黄帝時代に、蒼頡そうけつが鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。平安時代には、砂浜に残る鳥の足跡を字のようであると感じたり、千鳥が砂浜を踏む意の「踏み」と、手紙の「ふみ」とを掛けて喜んでいる。千鳥のあしらわれた蒔絵の文房具が残ることを傍証とする説もあるが、足跡や踏む様を描いているわけではないため牽強とも思われる。それでも、釈日本紀のフミの語義説は、当時の風潮からすれば案外平易なことであったと考えられる。むろん、それは、平安時代当時の感覚としてそうであったというだけのことである。そして、もはや漢字のことなのか仮名のことなのか、どうでもよくなっている。古墳時代に文字(漢字)は流入しており、その5~6世紀にフミという言葉が造られたのであろうと筆者は考える。さまざまな知恵を駆使し、いわゆる和訓として創作されたヤマトコトバなのであろう。

(引用・参考文献)
池2014. 池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、平成26年。
木村2009. 木村紀子『原始日本語のおもかげ』平凡社(平凡社新書)、2009年。
黒田2007. 黒田智『中世肖像の文化史』ぺりかん社、2007年。
黒田2011. 黒田智『藤原鎌足、時空をかける』吉川弘文館、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
渡辺・桑山1994. 渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究─公家鞠の成立─』東京大学出版会、1994年。
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、2000年10月。https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/dokusho47-2.shtml

※本稿は、2012年以降の旧稿を2020年7月に改稿したものを、さらに2024年3月に整理し、ルビ形式にしたものである。

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