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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

一言主大神について 其の一

2021年02月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略天皇時代に、葛城の一言主大神(一事主神)の逸話がある。記紀ともに載せている。

 又、一時あるときに、天皇すめらみこと葛城山かづらきやまに登りいでましし時、百官つかさつかさ人等ひとびとことごとあけの紐を著けし青摺あをずりを給はりせり。の時に、其の向へる山の尾より、山の上に登る人有り。既に天皇の鹵簿みゆきのつらに等しく、亦、其の装束よそひかたち人衆ひとかずあひりてかたぶかず。しかくして天皇、望みて問はしめて曰はく、「倭国やまとのくにに、吾をきて亦、きみは無し。今、誰人たれ如此かくく」といふに、即ち答へ曰ふ状も、亦、天皇のみことの如し。是に、天皇、大きに忿いかりて矢刺し、百官の人等、悉く矢刺す。爾くして其の人等も亦、皆矢刺す。故、天皇、亦、問ひて曰はく、「然らば其の名をれ。爾くしておのもおのも名を告りて矢をはなたむ」といふ。是に、答へて曰はく、「吾先づ問はえつ。かれ、吾、先づ名告りを為む。吾は、悪しき事も一言ひとこと、善き事も一言、言ひ離つ神、葛城之一言主大神かづらきのひとことぬしのおほかみなり」といふ。天皇、是におそかしこみて白さく、「かしこし、我が大神。うつしおみに有れば覚らず」と白して、おほたちと弓矢とを始めて、百官の人等の服せる衣服を脱かしめて、をろがみ献る。爾くして其の一言主大神、手打ちて其の奉り物を受く。故、天皇の還り幸す時、其の大神、山の末にいはみて、長谷の山口に送り奉る。故、是の一言主之大神は、の時にあらはれたるぞ。(雄略記)
  四年の春二月に、天皇、葛城山に射猟かりしたまふ。忽にたきたかき人を見る。来たりて丹谷たにかひあひのぞめり。面貌かほ容儀すがた、天皇に相似たうばれり。天皇、是れ神なりとしろしめせれども、なほことたへに問ひてのたまはく、「いづきみぞ」とまをす。長き人、対へて曰はく、「現人之神あらひとがみぞ。先づきみみななのれ。しかうして後にはむ」とのたまふ。天皇、答へて曰はく、「おのれは是、幼武尊わかたけのみことなり」とまをす。長き人、つぎてなのりて曰はく、「やつかれは是、一事主神ひとことぬしのかみなり」とのたまふ。遂にとも遊田かりたのしびて、ひとつ鹿しし駈逐ひて、はなつことこもごもゆづりて、うまのくちを並べて馳騁す。言詞ことことばゐやゐやしくつつしみて、ひじりに逢ふごときことします。是に、日れてかりみぬ。神、天皇を侍送おくりたてまつりたまひて、目水めのかはまでにまういたる。是の時に、百姓おほみたからことごとに言さく、「おむおむしくします天皇なり」とまをす。(雄略紀四年二月)

 この話が何の話なのか定説はない(注1)。記の下巻において、現実に神があらわれる唯一の個所のため不思議がられている。話の舞台が葛城山に設定されていることから、歴史学の立場から、天皇と有力豪族葛城氏との関係を示すものであるとする説が提出されている(注2)。しかし、葛城氏との関係を示したいのなら、他の記事にある「葛城之野伊呂売」、「葛城之高額比売命(葛城高顙媛)」、「葛城之曽都毘古(葛城襲津彦)」、「葛城円大臣」など同様、葛城○○と人名をあげて書き表わせば良いのにそうせずに、ただ場所の設定として葛城山が持ち出されている話である。話(story)と歴史(history)とは次元が異なる。本稿では、記の話を中心に、何をどのように物語ろうとしているのか考える。
 雄略記は、天皇がどこかへ出かけた時の話ばかりで構成されている。皇統譜につづき、河内幸行、美和河遊行、吉野宮行幸、阿岐豆野幸、葛城之山登幸、葛城山登幸、春日幸行と連続する。その次にようやく都であった長谷での豊楽記事があって歌謡が載り、最後に享年と陵墓の所在を記している。阿岐豆野へは狩りに行っている。次の葛城之山では大きな猪に遭遇している。それに続き再び葛城山へ登って一言主大神に出会っている(注3)。「即幸阿岐豆野而御獦之時」に続いて「又一時……」、「又一時……」とあるのだから、それぞれの話は独立した譚でありつつ、三連続で狩りの話をしていると見受けられる(注4)

ウツシオミについて

 天皇の発語にあるウツシオミ(宇都志意美)という語について、どのように捉えたらよいか議論されてきた。本居宣長・古事記伝の「現大身」説は上代仮名遣いのミの甲乙の違いによって否定されており、現在では「現し臣」説がとられている。奥村1983.は、類例と比較して考察している。

 其大県主、懼畏、稽首白、奴有者、随奴不覚而、過作、甚畏。故、献能美之御幣物、〈能美二字以音。〉(雄略記)
 天皇、於是、惶畏而白、恐、我大神。有宇都志意美者、〈自宇下五字以音也。〉不覚、白而……(雄略記)

 この二文のうち、「これ[上文]は、「やつこながら(奴の本性で)」という副詞句が入っているが、言い回しは「ウツシオミにあれば覚らず」と同じである。両者は、共に自分より上位の者に対して非礼をはたらき、「不覚」でしたと詫びる言葉に、おのれの卑小さを理由として「詰らぬ者でございますから」と相手の高貴さに対照させつつ恭順の意を強調しているのである。大県主の場合は、対する相手が主上の天皇なので、「やつこ」(主人に対する家僕)と卑称し、葛城山では、相手が大神なので、天皇の方が自らを「うつし臣」(この世の臣下)と卑下したのである。天皇は、顕界の一国では最高位の存在であるが、幽界の神に対すれば、これにまつろう一臣下にすぎない。恐らく、上古の日本人が、諸々の自然現象の背後に、人間以上の威力ある存在=神を認め、これを祀り上げて、従い仕える習慣が定まって以来、神々は隠れたる幽界の主上、人間は現れたる顕界の臣下という君臣の観念が生じたのであろう。」(42頁)としている。雄略記の「宇都志意美」は発語者の天皇自身のことを指すとしている。
  神に対して人がどのように振舞ったかについては必ずしも一様ではない。神の示唆を夢にお告げとして聞いて自らの行動に反映させたケースとしては、神武天皇の東征行軍の困難時や、崇神天皇時代の疫病の流行時、神功皇后の新羅親征の際などの例が見られる。その際、神がどのように示唆しているのか俄かにはわからず、祀り方を失敗してうまくいかないこともあった。神に会って驚き、「唯々をを」(神武前紀戊午年六月)と感嘆することがあった。神様にはいろいろいて、必ずしも上げ奉るべき対象とは言い切れない。祟り神には静かにしてくださいとお願いし、猿田毘古神はサルが想定されているから旅の折に拝むことはあっても、それ以上の御利益を願ったりはしていない。神と人との間で「君臣」関係が築かれることは、少なくとも記紀の説話では語られていない。
  奥村氏のあげている大県主の文章には、副詞句「随奴」が入って過剰な表現になっている。わざわざ過剰な表現にしているのには理由があるのだろう。「やつこにし有れば、奴のままさとらずて」というのが志幾の大県主の言い訳の主眼である。「堅魚かつを」、すなわち、鰹木を屋根の上に載せたゴージャスな「舎屋」を造り、それを見た天皇は、宮城に似せて造っているのはけしからんとして焼こうとした。そこで「かしこみて、稽首ぬかつきて」申し開きを言っている。ヤツコ(奴)とは、ヤ(家)+ツ(連体助詞)+コ(子)の意である。ヤ(家)というものに関心があり、執着があったためだというのが大県主の主張である。鰹木が特権的なものであろうことは承知のうえであったと思われるが、天皇の行幸によって非を咎められたので弁解している。大県主に天皇と対抗しようとする意図があったのではなく、天皇に恭順する「奴」であると述べて「御幣物」を犬に運ばせている。それで天皇は許している。君臣関係の確認というよりも、「奴」というヤマトコトバを中心に話が展開している。
 雄略天皇の「うつしおみに有れば覚らず。」について、新編全集本古事記は、「私は人間なので、あなたが神であることに気付かなかったの意。……オミ(臣)は、キミ(君)に対して、仕える者の意。」(348頁)と解説している。奥村氏の考えを踏襲し、雄略天皇が自分のことを卑下して、神に対してへりくだって言っているとしている(注5)。しかし、ここもヤマトコトバを中心に話(咄・噺・譚)が構成されていると見るべきだろう。対応する紀の個所でも、一事主神との受け答えに動揺、当惑するそぶりは天皇に見られない。「天皇、知是神」と最初から気づいていたことが述べられている。
 ウツシオミという語は、他に例のない特異な語である。それをわざわざ呈示しているからにはそれなりの理由があるに違いない。万葉集には、ウツセミ、ウツソミという語があり、その原義が雄略記のウツシオミであると考えられている。万葉集の原文のウツセミ、ウツセミ・ウツソミの仮名書き表記には、「宇都世美」(万3456など九例)、「宇都勢美」(万4160など四例)、その他「蝉」字を含まないもの八例以外に、「空蝉」(万24など八例)、「虚蝉」(万13など九例)、「打蝉」(万199など六例)、その他「蝉」字を含むもの二例がある。管見ではあるが、諸説に、特に字義を考慮することはなく、単なる借字として片付けられている(注6)。しかし、これほど多数の用例が登場しているとなると、何かしら意味的な連関が上代の人の念頭に去来していていたと考えられる。
 「蝉」のニュアンスとしては蝉の抜け殻のことが思い起こされる。蝉の成虫は抜け出て飛んでいってしまっている。抜け殻だけが木にしがみつくなどしたまま残されている。当時の人は、銅剣や銅鐸、鋳銭、文様付きの瓦、金銅の仏像など、鋳型を作ってから本体を製作することがあった。両者を同等のことがらであると捉えることは、無文字文化にして類推思考をもっぱらとした「野生の思考」(C・レヴィ-ストロース)にとって何ら不自然なことではない。蝉の抜け殻を見て、鋳型で像を作ることを教えられたものだと感慨に耽っていた。それが上代人の心なのではないか。
左:セミの羽化、中:四尊連坐磚仏と塼仏笵(奈良県桜井市山田寺跡出土、飛鳥時代、7世紀、東博展示品)、右:復元瓦(焼成前)と笵(左)(竹中大工道具館「千年の甍(いらか)-古代瓦を葺く-」企画展、ギャラリーエークワッド展示品)
中細形銅戈(佐賀県唐津市浜王町谷口出土)と銅戈鋳型(佐賀市久保泉町上和泉出土、ともに弥生時代、前2~前1世紀、東博展示品)
 ウツセミという言葉、ならびにその原形と目されるウツシオミという言葉は、鋳型的な物言いであることが理解される。そう考えることは、オミを臣、すなわち、君臣の関係で捉えることと相反しない。臣は君に従っている。君がみことのままに臣はことをする。鋳型と鋳造物との関係と同じである。白川1995.に、「おみ〔臣〕 臣下をいう。もと「かみ」に対する語で、神あるいは神につかえるものをいった語であろう。」(191頁)とある。神との対立概念ではなく、神に仕えるものである。君と臣の関係は、互いに対立する関係にあると捉えることはできない。
 オミには、「臣」以外に「使主」という用字が行われている。

 倭漢直やまとのあやのあたひおやちの使主おみ、其の子かの使主おみ、並びに己が党類ともがら十七県とをあまりななつのこほりて、来帰まうけり。(応神紀二十年九月)
 帳内とねり日下部連くさかべのむらじ使主おみ〈使主は日下部の名なり。使主、此には於瀰おみと云ふ。〉と吾田あたひこ〈吾田彦は、使主の子なり。〉と、ひそかに天皇と計王けのみことをゐまつりて、わざはひ丹波国たにはのくに余社郡よざのこほりに避く。(顕宗前紀)
 ……使はされしまへつきみねの使主おみに附けて、敢へて奉献たてまつる。(安康紀元年二月)
 時に、使主おみ裴世清はいせいせいみづかふみを持ちて、両度ふたより再拝をがみて、使の旨を言上まをして立つ。(推古紀十六年八月)

 渡来人のかばねに与えられている。外国からの使者のうちの偉い人を「使主」と記し、外国の君主の言葉をきちんと伝える人のことだから、確かに仕える者、本当の使いのこととしてオミという呼び方で正しいと考えられてそう呼ばれているのだろう。すなわち、ツカフ(仕・使)ことに特化した存在がオミである。また、「臣の子」という言い方もある。

 臣の子の 八重や唐垣からかき 許せとや御子(紀88)
 臣の子の 八節やふ柴垣しばかき 下とよみ 地震なゐば れむ柴垣(紀91)
 臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねば 御子の紐解く(紀127)

 使者は伝言を続ける。伝えて、伝えて、伝えていく。親が、子に、孫にといのちを伝えるように、みことを伝えるから、「臣の子」という表現はヤマトコトバに確かなものとなっている。「」を導いているのは、つがえることは使(仕)えることと同じことであるとする頓智に負っている(注7)
 白川1995.の「つかひ〔使〕」の項に、「「使ふ」は「仕ふ」の他動詞形である。使者。仕える者として、主命を代行するもの。伝言のために使いすることが多い。のち召使・従者たちをいう。」(502頁)とある。使役することと服事することとが鏡のように写像を成してツカフという言葉は成立している。神であれ、君であれ、言葉を発してそれをそのとおり事柄とすることが、オミ(臣・使主)の役割であった。言と事とが相即になるようにするという意味での言霊信仰の体現こそ、ツカフことなのである(注8)
 ウツシオミのウツシの義を「現し」の字義のみに限って考えるこれまでの捉え方は狭量である。白川1995.の「うつし〔現・顕(顯)〕」の項に、「「移る」「うつる」「うつす」など、みな同根の語であろう。実在するものが、一時的にそこにあらわれるというほどの意をもつ語で」(154頁)、「うつす〔写(寫)・映〕」の項に、「本来のものを他に移して、その色や形を再現すること。また「うつ」「うつ」とも同根の語である。」(同頁)とある。新撰字鏡に「摹 亡夫反、平、冩也。志太加太於支天宇豆須したかたおきてうつす」とある。幽冥のうちにあるものを真とし、一時的に顕現した姿を「うつ(顕)し」と捉えることができるのは、幽冥のうちに下描き、範型となる鋳型があって、その型の像として現れるというからくりを知ってのことである。型も像もヤマトコトバにカタである。動詞ウツス(写・映・移・遷)の義の熟成をもって、形容詞ウツシ(現・顕)の義は像を結んでいる。鋳型と鋳出された物とは形の上で陰陽の反転関係にあり、鏡像になっている。鏡とは写すものである。神や君が言ったことを臣(使主)は写して事としている。よって、ウツシオミとはウツシ(写)+オミ(臣・使主)である。オミ(臣・使主)はそもそも神や君の言葉を写すものだから、ウツシオミという言い方は、転々と転がるといった表現に見られる自己定義色の強い言葉として成り立っている(注9)。もととなる型があるから像を結ぶことができる。写されて今「現(顕)し」と見ているものが、型どおりのものであると強調していることになる。
 ウツシオミという語は、ウツセミ、ウツソミといった短縮形へ語展開し、枕詞ウツセミノという決まり文句としても使われるようになった。ウツセミノは人や(ヨは乙類)(注10)いのちにかかる。人、世、命とは、生れて死ぬる生涯のことであるが、継がれ、継ぎ合い、つがうものである。鋳型によって既に決められて現れているものと考えられたようである。だから、人はその姿が親に似ている。世の中はそれ以前の時代の経緯によって情勢が決まってくる。寿命も長寿遺伝子が知られていたわけではなくとも、長寿の家系に生まれれば長寿、短命の家系では短命であることが多い。自分の思うようにはならない。人呼んで運命という(注11)。人が鋳型に生まれたものとするなら、単に写したものであるにすぎず、枕詞ウツセミノが、人、世、命にかかるのは尤もなことだと納得される。次節で述べる鏡像関係も、ひと番いのペアの関係によく表れている 。

鏡像としての映像と音声

 記紀の一言主大神(一事主神)は一言で言い放つ神である。その話では、雄略天皇の一行と一言主神の一行が谷を間にして山の稜線を並進していて写像となっている。話は映像として語り始められているが、実は音声に基づいて創案された話であると確かめられる。すなわち、山々の峰々が並び立っているなら、一方から他方へ呼びかければ声は返ってくる。山彦(木霊)である。葛城山系で山彦に向いたスポットがあるかどうかは特に問題ではない。すべては話である。話としてきちんと把握しようとすれば、話として具体的で現実味を帯び、ありありと理解できる(注12)
 山彦の話である。山彦とは、山で反響・共鳴して音が返ってくる現象である(注13)。山においてそれとよく似た音の響きにオオカミの遠吠えがあった。オオカミが仲間同士で呼び合う声である。古事記で、葛城の一言主大神は、伊耶那伎大神、黄泉津大神、大物主大神、猿田毘古大神などが伊耶那岐神、黄泉神、大物主神、猿田毘古神などと略されるのと異なり、必ず「大神」と尊称されている(注14)。狼のことだから大神としている。遠吠えするオホカミのことを神様だとしたこと、そのことがこの話の眼目であろう。wolf のことをどうしてオホカミと呼ぶのか、それこそが焦点なのである。「悪事一言、善事一言、言離神」と、何でも一言で言い当てるとある。「悪」をアシ、「善」をヨシと言ったのでは早くも二言である。同じ言葉ですべてを言ってしまうこと、それを一言主と称している。オホカミが吠え声で伝えるとき、オホカミどうしではあるいは異なって聞こえているのかもしれないが、我々人間には同じ一言のうちに喋っているように聞こえる。
ニホンオオカミ剥製(国立科学博物館展示品、ウィキペディア、Momotarou2012氏撮影https://ja.wikipedia.org/wiki/ニホンオオカミ)
 葛城山中で、雄略天皇の一行と一言主大神の一行とは写像関係にあった。雄略天皇も言葉を一言のうち、すなわち、多義性を解さずに残忍なことをする姿が描かれている。挙動が発作的で、言語感覚が短絡的にして、周囲にいた家来を殺すことがあったと紀に記されている。狩りの後の宴席で、天皇からの問いかけに対して群臣が答えに窮していたので御者を殺したことがあった。「天皇、大きに怒りたまひて、たちを抜きて御者おほうまそひのひと大津馬飼おほつのうまかひりたまふ。」(雄略紀二年十月)。評されて、「天皇、心を以てさかしとしたまふ。誤りて人を殺したまふことおほし。」(雄略紀二年十月是月)とある。また、一回目の葛城山狩猟の際には、猪の襲撃に怖気づいた舎人を殺そうとしている。皇后は天皇の行動を制止するために諭している。「嗔猪ししの故を以て、舎人を斬りたまふ。陛下きみ、譬えば豺狼おほかみなること無し。」(雄略紀五年二月)。天皇は狼によく似ていて、狼の子であることが暗示されている。狼(大神)の子だから、「現人之神」と称されているのである。
 紀にある「相似」はタウバレリと訓んでいる(注15)。タウバルは賜ると同根の語である。子が親に似ているのは、その「面貌容儀」を親から賜っているとの謂いである。鋳型と像の関係と同じである。雄略天皇と一事主神とが互いによく似ていることを言うのに、賜わりものであるという考えに基づいている。一方、記では、「相似不傾」をアヒニテカタブカズなどと訓まれている。「似」は上代語にノル(ノは乙類)とも訓む。同様の表現は他にもあり、「此の神の形貌かたち、自づからに天稚彦と恰然ひとしくあひれり。」(神代紀第九段一書第一)とある。雄略記でも、アヒノリテカタブカズと訓むべきだろう。なぜなら、天皇はこの葛城山登幸において馬に騎乗しているからである。馬を上手に(ノは乙類)りこなせているから落馬することなく「不傾」なのである。紀では「並轡馳騁」と記されている。騎馬は話の前提である。
 記の話では、最終的に、一言主大神は「手打受其捧物」している。狼が手を打つか不明ながら、狼を家畜化した犬を見ると「お手」をしている。しつけの進化形として飼い主との間の究極の主従関係を示していて、手を使うことがクローズアップされる。一言主大神の場合、「手打」をしている。拍手かしはでを打っているということである。パチ、バチという音をたてる。上代風に書記すればハチである。ハチは鉢、托鉢のハチである(注16)。仏者同様のこととなり、大御刀、弓矢、衣服といった捧げ物を受け取るのにふさわしい。鉢は鋳造で鋳型によって作られる。蝉とその抜け殻の関係と同様である。
金銅鉢(鉢支附、金銅製鋳造、奈良時代、8世紀、東博展示品)
 鉢に献じられた「衣服」は「百官人等所服之衣服」である。当初、「百官人等、悉給紅紐之青摺衣服。」であった。この「著紅紐之青摺衣」がどのようなものかが問題である。仁徳記にも、「其の臣、紅の紐をけたる青摺の衣をせり。故、水潦にはたみづ、紅の紐にれて、青きは皆紅の色に変りき。」(仁徳記)とある。これまでの解釈では格式ばった立派な正装のこととされている(注17)
 しかし、この箇所でも仁徳記でも、着ているのは高位の人ではなく、「百官人等」や「邇臣口にのおみくち」という臣下の立場にある人である。当時、天皇などの為政者と服従している庶民とは身なりに差をつけてはっきりと区別していたと考えられる。命令を発する側は上下ツーピース(きぬはかま)を着用して胡床に座って威厳を出していただろう。命令を受ける側は身だしなみを整えたとしてもふだんの貫頭衣をこざっぱりさせたもので、地べたに跪いて頭を垂れていたと推測される。紅紐がついている青摺り衣が名称として何と呼ばれていたか確定はできないが、打掛うちかけ(帔、裲襠)(注18)と呼ばれるものに当たると思われる。作業着である貫頭衣の上にうちかけて着るものとしてである。一言主大神は手を「打」って受けている。和名抄に、「裲襠 唐令に云はく、襠〈音は当〉は両襠、衣の名なりといふ。釈名に云はく、両襠〈今案ふるに、両は或に裲に作る、宇知加介うちかけ〉は其の一を胸に当て、其の一を背に当つるなりといふ。唐令に云はく、慶善楽の舞する四人、碧綾の𧛾襠〈上の音は苦盍反〉なりといふ。」とある。儀仗用の布帛製の鎧のこと、また、行幸の際に輦(輿)の轅を担ぐ駕輿丁が肩あてに使った貫頭衣、さらに、舞楽や田楽の装束として用いられた。
裲襠を着けた駕輿丁(松平定信・輿車図考、写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287484/6をトリミング)
 似たような袖なし、また半袖のものに半臂があり、和名抄に、「半臂 蔣魴切韻に云はく、半臂〈此の間に名は字の如し、但し下の音は比〉は衣の名なりといふ。」とある。足さばきをよくするらんが付き、結ぶ帯を小紐、左脇に垂らす飾り紐を忘緒わすれをという。
 青く染めた貫頭衣風のチョッキのような上着に赤い紐が垂れており、踊るに従って揺れて合コンのダンスパーティにもふさわしい衣装である(注19)。仁徳記に「爾、匍匐進赴、跪于庭中時、水潦至腰。……故、水潦払紅紐、青皆変紅色。」とあるのは、丈が短くて腰までもないところから垂らしている忘緒が水に浸かり、浸透して全体に色染まりしたことを言っている。これら袖なしの衣類のことは、上代に「(ソは甲類)」と呼ばれた。つまり、天皇は、ソ(甲類)を狼に呈上している。それが正しいのは狩りに騎馬が前提だからである。馬を追う声は、擬声語に、ソ(甲類)と言っていた。話の落ちとして、とてもわかりやすくおもしろいものである。

 左奈都良さなつらの 岡に粟蒔き かなしきが 駒はぐとも はそとはじ〔和波素登毛波自〕(万3451)
 みや引く 泉のそまに〔泉之追馬喚犬二〕 立つ民の やすむ時なく 恋ひわたるかも(万2645)
 …… けぶり立つ 春の日暮らし 真澄鏡まそかがみ〔喚犬追馬鏡〕 見れど飽かねば  ……(万3324)

 天皇が宮へ還るとき、長谷朝倉宮へ向かって進んだ。一言主大神もついて来て送ってくれている。送り狼という語として残っている(注20)。記に、大神が「満山末」とあるのは、当初、「其自向之山尾」登っている似た姿を見つけたことと好対照をなしている。登山口から山に入り、同じ登山口から出て行っている。「山末」とは、山際の「山尾」のこと、すなわち、ヲであると言っている。「大神満」とは、狼がヲ、ヲ、ヲ、ヲ……と遠吠えする声が轟いていることを示している(注21)
 ヲという言葉は、擬声語、感動詞から間投助詞、格助詞へと展開して行っている。小田2015.の解説に、「目的格もまた、本来、無助詞で表したが、特に動作の対象であることを明示したい場合には、助詞「を」が用いられた。
 (1)父母[父母乎]見れば尊し(万800)
……
 (1)のような「を」は、(2)(3)のような、感動詞「を」から生じた間投助詞「を」に由来し、特に目的格表示として固定していったものと考えられる。
 (2)宇治川を船乗せと[船令渡呼跡]呼ばへども(万1138)
 (3)生るればつひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくあらな[楽乎有名](万349)」(372頁)とある。対象化する際に用いる言葉の要件とは、事態が事態であるかさえ不鮮明な状態から、ひとつの事柄としてとり上げるということである。すなわち、一言主大神の、「雖悪事而一言、雖、善事而一言、言離」時に用いるということに等しい。ヲと言って目的語に据えるということは、状況に枠組みを与えて言立てることを包含している。一言主大神とは、曖昧模糊の漠としたシーンを言葉に見える化する神であった。紀で「一事主神」と記されて同義なのは、ことこととは同じであるし、それを志向する考え方が定着していたからである。そのことを筆者は言霊信仰と呼んでいる。巷間に言霊信仰とは、言葉に呪力があるという立場から述べられている(注22)が、訳の分からないことは「狂語たはこと」・「逆言およづれこと」(万1408)である。仮に言葉に呪力が備わるのなら、何であれ言葉どおりに世界は成るはずである。もちろん、そのようなことは起こっておらず、起こり得ることでもない。言霊信仰の立脚点は、言葉と事柄との間を一致させようと励んだ上代の人々の言語活動にある。言っていることと起っていることとを同一にしようと努めなければ、言語世界はカオスに陥ってしまう。無文字時代に証文は取れないのである。
 紀では話のまとめとして、「有徳天皇也」との賞賛の声があがったとされている。これを文字どおり、人徳が有ってすばらしいと評価されたとする捉え方は誤りである。二年十月是月条に、「天下あめのした誹謗そしりてまをさく、「はなはしくまします天皇なり」とまをす。」と、正反対の評価が下されている。当時の人民からの評価としてはそちらの方が真実味がある。それでは、四年二月条の「有徳天皇也」とは何のことか。それは古訓に明らかである。「オムオムシクします天皇」である。オムオムシクはオモオモシク(重々)の音訛である。ヤマトコトバの畳語として同じ音を二つ重ねている。
 紀では話の最初から「たきたかき人」と言っている。タキ(丈)とタカ(高)とは同根の語である。山のなかでの話だから、丈が高いとは木の高さをにおわせる。新撰字鏡に「森々 所金反、木長㒵、今取至意、伊与々加尓いよよかに」とある。いよいよ高いという意味である。「望丹谷」とあって、タニカヒ、タニムカヒに面している(注23)。山の稜線のV字形に交差するところを「かひ」といい、そこは谷を形成するから強調語としてタニカヒと呼ばれている。大系本日本書紀は、「丹谷」のことを「仙境。奥深い谷。丹は、丹丘・丹台・丹薬など、神仙に関して用いられる字。文選、七命に「登翠嶺丹谷」。古訓ではタニカヒ。谷の交わるところの意。」(35頁)と説明する。はたしてそうであろうか。タニ(谷)とは両側から切り込んだ低いところである。カヒ(峡)とは山裾と山裾の交わるところである。どちらも同じことを言っている。谷どうしが交わっているのではなく、谷の奥深いところの表現である。また、「丹谷」を神仙思想の表れと見て、「長人」との出会いを「逢仙」と書いているとして中国思想の感化を過大視する向きもある。しかし、実態は字面や表現を借りているだけである。「丹」字は音にタン、和語にするのに撥音を嫌って tan に i が付いて tani(たに)となる。「たに」(神武記、雄略紀、万3071)というよく知られる地名の例もある。つまり、紀の筆録者が「丹谷」と書いて表したかったのは、タニタニというヤマトコトバのくり返し表現であったのだろう。
 このくり返し表現は、オムオムシク、タキタカキばかりではない。「なのる」ことも二度行われている。天皇側と長人側とである。記では「おのおの名をりて」となっている。また、箭を放つことも「こもごもゆづ」っている(注24)。「うまのくち」を並べてとある。実際に狩りをする段になって、引いてきた馬に天皇は騎乗したということであろう。轡のことはクツワヅラという。和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音は秘、訓は久豆和都良くつわづら、俗に久都和くつわと云ふ〉は一に钀〈魚列反〉と名づくといふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢の二音、和名は上に同じ〉は一に馬鞚と名づくといふ。」とある。ツラツラな状態にあった。記でも「鹵簿みゆきのつら」とあって、ツラツラ状態が設定されている。
 鹵簿ロボは二列縦隊に隊列を組んだ天子行幸の列である。天子は輿または(牛)車に揺られていく(注25)。輿の場合、担ぎ手が左右前後の四方向、すなわち二列になる。牛車でも、お付きの人は左右のながえに側立ち、轍ができていく。もちろん、葛城山へは狩りに行っているのであって、そのうち天皇は馬に乗るから随伴させていくのであるが、天皇は武士ではないから騎乗のまま行進したとは考えにくい。また、さすがに車が進めるほどには官道が完全に整備されてはいないだろうから、牛車ではなく輿で進んだものと思われる。だから、駕輿丁以下、狩りのための行幸の随伴者に打掛(帔・裲襠)が支給されている。設定は「葛城山かづらきのやま」である。カヅラ(鬘)とはウィッグを含めた髪飾り全般のこと、かみつらの約とされている。動詞のカヅラクは、カヅラを作って着すことをいう。

 君がきもし 久にあらば 梅柳 たれとともにか かづらかむ(万4238)
 あしひきの 山下かげ かづらける 上にやさらに 梅をしのはむ(万4278)

 カヅラキ(葛城、キは乙類)と、動詞カヅラク(蘰)の連用形カヅラキ(キは乙類)とは同音である。新撰字鏡に「葛 加豆良かづら」とあり、それは鬘にされる蔓性植物のことをいう。万4278番歌の「日蔭」はヒカゲカヅラのことを指している。鬘にする木として代表的にヤナギ(柳・楊)があげられる。ヤナギという語は、ヤ(矢・箭)+ナ(助詞ノの転形)+ギ(木)の意であろうとされる。記紀で矢(箭)を放つことが話頭にのぼっているのはこの点に由来するようである。
 二列縦隊にミユキノツラが進んでいる。ツラツラの話である。「言詞ことことば」とくり返され、「ゐやゐやし」と形容されている。最終的に「ことごとく」オムオムシと言われている。これほど畳語が展開されているのは、話が山彦のことだからである。相似する人の姿を描いて互いに同じように発語することを示すのに、一語一語の言葉の中身までくり返し言葉にしてわかりやすくなっている。
 天皇の評価において「有徳」であるとは見せかけの追従であり、畳語のオムオムこそ重視すべき点である。オモオモといえばおものくり返し、ツラツラの関連語である。馬面が左右対称に、鏡像に見えることによる洒落である。たてがみ(上代語でタチガミ)はとってつけたような鬘に譬えられよう。そんな横顔ばかりが目立つ動物として狼が登場している。狼の顔は馬ほどではないけれど鼻先が尖っていて、ツラツラな顔立ちをして大口を切って開けている。狩りは狼が得意で、人も馬を使えばそれに近くうまくいく。狼が大口を開けて遠吠えする声と、馬を追うために掛ける人の声が山に響き合っている。そんな声が話の焦点である。狼の遠吠えの声が山彦となり、オーム、オームとも聞こえたということだろう。以上が、葛城の一言主大神のお話の楽しみどころである(注26)
ツラ(左:道産子(多摩動物公園)、右:オオカミ(博物館獣譜・オオカミ、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0030067をトリミング))
ツラのない例(狆、ウィキペディア、T.shinzaemon様「狆の仔犬」https://ja.wikipedia.org/wiki/狆)

逸話創作の舞台裏

 では、上代の人々は何に由縁してこのような話を創りあげたのだろうか。それは、雄略天皇の名、オホハツセワカタケル(大長谷若建、大泊瀬稚武)と、カヅラキ(葛城)という地名によっていると考えられる。中央政権の主要人物にタケルと形容することは適切なこととは言えない。タケルとは、兇猛で野蛮な荒々しい動物の本性丸出しの誥び声をあげることをいう。雅なはずの天皇や皇族の名にふさわしくないと指摘されている。そこで知恵を働かせ、ヤマト+タケル+ノ+ミコと言わずに、ヤマ+ト+タケル+ノ+ミコと称することで矛盾を回避していた。それはまた、タケルことが山彦のように反響を呼ぶような声をあげることだったから、紀の古訓にヤマトタケルではなく、ヤマトタケと縮まった形で表されていたのである。ヤマトタケルーと長音で叫んでも、ヤマトタケ……ぐらいにしか返って来ないのが山彦である(注27)。ここで雄略天皇の名は、紀では大泊瀬稚武とあり、古訓にオホハツセワカタケとある(注28)。ワカタケルと今日通称しているが、ワカタケと縮まった形が慣用であった。
 同様のことはヤマトタケルの場合にも確認される。記では、允恭・安康記に「大長谷命」、「大長谷王」とあったのが、雄略記に至って「大長谷若建命」となっている。後から「ワカタケル」が添加されている。理由は記されていないが、身内に当たる何人もの政敵を殺していって位に就いた人物である。紀では激怒型の人物で、すぐにカッとなって人を殺していたことが伝えられている(注29)。怒声が内から噴き出してくるところから、湧いてくるようだと思われてワカタケルと呼ばれるようになったのではないか。名とは何か。それは呼ばれるものである。本質的に綽名と同じである。そのワカタケルを「若建」、「稚武」と表記した。
 絶対的な権力を握った天皇に対する綽名である。表立って悪口を言うわけにはいかない。若々しいと褒めているものと取り繕っている。ワカシ(若・稚)の類義語はヲサナシである。ヲサ(長)+ナシ(無)の意であり、未熟なことを表す。人間的に未熟であることをよく物語っている。ここに対極の存在、「長人」の登場が期待される。また、タケルことは、その本質において狼の吠えることと同じである。雄略紀五年二月条に、皇后から「陛下譬無於豺狼也。」と諭されている。大神おほかみが登場する条件は揃っている。
 そして、ワカと冠してしまったら、若い人の特徴を語る必要性が生じる。若年のしるしには髪形がある。髪が伸びきらず、成人のように結い上げることができない。総角あげまきに至らないとき、髫髪うなゐなどと呼ばれる。また、わらはのことは禿かぶろとも呼ばれる。允恭前紀に、「岐㠜かぶろにましますより総角あげまきに至るまでに」と髪型をもって幼・少年期を伝えている。おかっぱ頭のことからそう呼んでいる。和名抄・疾病部に、「瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音は楊、賀之良加佐かしらかさ〉は頭瘡なりといふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路かぶろ〉は頭瘡なりといふ。野王案に髪無きなりとす。」とある。カブロ(禿)とは、カミ(髪)+ウロ(疎)の約、カムロの転とされている。髪の毛の全体量が少ないことを指している。ひょっとすると雄略天皇は、髪の薄い人物であったかもしれない。そのような場合、カモフラージュするかづらを着けていた。髪飾りに誰しも付けているのだから、抵抗感、違和感なく隠しおおせることができた。すなわち、ワカタケルという人名は、カヅラクという言葉を具現化した名詞形、カヅラキのヤマが言葉の上で求められていたのである。語呂合わせの連想ゲームのように思われるかもしれないが、無文字時代の言葉の確認作業としては至極一般的なことである。一語一語を記憶に留めつつ、言葉の深意を見極める作業がくり広げられている。人が言葉を理解し、覚え、伝えていくためには、ひとつひとつの言葉の語義を定めていく工程が欠かせない。漢字のような表意文字を得た後代、文字を見て、その偏や旁から言葉の意味を推測することが可能となったが、その分、言葉に対して丁寧に、厳密に向き合う姿勢は失われた。上代においては、言葉に対し、感性を鋭く研ぎ澄ましていた。無文字時代のヤマトコトバは、その成立要件として言葉の哲学を伴っていた。文字という媒介項を経ずに言葉を伝えるため、相手が納得するだけの言葉による言葉が必要とされていた。発せられる言葉は、自己定義しながら一歩一歩前に進むものとして使われていたのであった。
(つづく)

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