最近は歳に正なのか、朝は本当に早く目が覚めます。
今朝も、明るくなりはじめ、小鳥が鳴き始めた4時半くらいには目が覚めてしまいましたが、がんばってもう一度寝ました。
6時過ぎに起きましたが今朝も雨で、梅雨だからしょうがないとは思うのですが、ちょっと肩が凝っているのでテニスに行きたかったです。
テニスはあきらめ、コーヒーを飲みながらじっくり新聞を読み、9時まではテレビの前に転がっていましたが、そのあとはいつでも昼寝ができるように、ベッドに転がって本を読みました。
何を読んだかは後にして、今年になって読んだ本を載せてみます。
この三冊は半藤一利と言う人が書いた本で「聖断」は昭和天皇と終戦の総理大臣鈴木貫太郎を書いた本です。
鈴木貫太郎と言う人は、日露戦争では駆逐隊司令を務め、日本海海戦でも水雷艇と呼ばれた魚雷艇で暴れまわった人です。
大正時代には海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長、水雷学校長などを歴任しました。
昭和時代には昭和天皇の希望もあって侍従長となり天皇の良き相談相手になりました。
また、近衛師団が起こした二・二六事件では「君側の奸」の一人とされ、安藤輝三率いる一隊に自宅を襲撃され、銃弾を四発撃たれました。
しかし、安藤が止めを刺そうとしたところ、たか夫人の「後生だからとどめは私にさせてくれ」と必死に説得したため九死に一生を得たました。
これにより一時政治の一線を退くこととな利ました。
たか夫人は後妻で、当時東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭でしたが、東京帝国大学教授菊池大麓の推薦により、皇孫御用掛として、幼少時の昭和天皇、秩父宮、高松宮の養育に当たった人です。
言って見れば幼少期の昭和天皇の親代わりだった人なんです。
その後回復し枢密院議長だった鈴木は後継首相を決める重臣会議で多くの出席者から推薦を受け、反対的であった東條英機も了承したため、天皇は鈴木を呼び出して組閣の大命を下しました。
しかし、鈴木は高齢を理由に首相の座を渋っており、また本人は軍人は政治関与するべきではないという考えを持っていたため、天皇にも辞退の意向を伝えましたが、天皇は「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と発言されました。
当時の内閣は天皇を補佐する機関であり、天皇から頼られる存在ではありませんでした。
このような事は異例で、天皇は、総理大臣を任命する立場で、「頼む」なんてことはありえないはずです。
はっきり言えばほかにやれる人がなく、侍従長も務め忠臣であった鈴木に断ることはできなかった。
そして、ポツダム宣言が発表され、日本政府は反応を明確せず報道機関や軍部は対応の明確化を求めましたが、鈴木首相は記者会見で「ノー・コメント」という意味で発言。
しかしこれを新聞は「黙殺」と報じ、欧米の新聞は「拒否」と言い換えてしまい、この発言が原爆投下につながったとも言われています。
御前会議である最高戦争指導者会議が開かれ他時に、鈴木首相は戦争継続は不可能であり、ポツダム宣言受諾を提案したわけです。
しかし、徹底抗戦を主張する軍部との詰めの協議が長時間続き結論が出ないため、鈴木首相は天皇に最終判断を仰ぎ、天皇はポツダム宣言受諾という「ご聖断」を下しました。
鈴木は会議で意見分裂が続いて天皇が最終決断を下す、という筋書きを事前に天皇と打ち合わせており、ギリギリの綱渡りで受諾決定に結びつけた。
そのあともポツダム宣言文の解釈で意見が分かれ、天皇が最終的に日本の降伏を決断する「ご聖断」を下しました。
そして、8月15日。玉音放送が流れて国民は終戦を知り、鈴木は同日に終戦の役目を終え内閣を総辞職をしました。
戦争を終わらせるための内閣だったわけで、たった4か月の内閣でした。
その後一時枢密院議長となりましたが、「売国者」呼ばわりされ危ない目にあって住まいを転々しましたが、最後は生まれ故郷の千葉県野田市で82歳で生涯を閉じました。
この本は2度読み直しました。
「日本の一番長い日」終戦の前日から終戦までの1日を、関係者の行動を時間ごとに追った本です。
昭和天皇 総理大臣 陸軍大佐 陸軍少佐 内閣書記官長などです。
その行動から考えが推測されるわけですが、「聖断」を読んだ後なので、復習のようにして読みました。
「日本の一番長い夏」は、昭和38年に文芸春秋の主催で、半藤一利が司会を務め、太平洋戦争終結の舞台裏を明らかにする大座談会が開かれたものをまとめた本です。
集まったのは、日本を代表する知識人や政治家・官僚を含む28人で、 終戦時、軍部や政府の中枢にいた人、外地で戦争の最前線を体験した人、 政治活動から獄中に入れられていた人、などです。
昭和38年ころにはもう日本は平和な時代で、戦争当時を思い出しながら、思い出話を語るようなそんな本でした。
「原爆が落とされた日」は、原爆の製造からなぜ日本に、なぜ長崎 なぜ広島だったのかを書いた本です。
原爆はアインシュタイン博士がルーズベルト大統領にウラニューウムが核連鎖反応を起こすことによって原爆ができることを報告しています。
ウラニューム核分裂の発見はドイツの科学者で、当時ドイツは国を挙げて取り組んでいたようです。
その話を聞いた大統領は、ドイツより先に完成させようと莫大な研究費を出しました。
そして巨大な工場に6万人が働き、冷却用に使われたコロンビア川は水温が上昇したそうです。
しかしそんな巨大工場からは1グラムの生産物も産まれてこなかったわけです。
日本でも研究しましたが、資源はない金はないで、実験棟も空襲でやられてしまいました。
そして、完成するわけですが、その時にはドイツは降伏し、日本は壊滅状態だったわけです。
原爆製造を推奨したアンインシュタインもこの時には使うべきではないと進言しています。
しかし、ルーズベルトから変わったトルーマン大統領は実行するわけです。
一説にはヨーロッパに手を出そうとしているソ連に対しての見せしめではないか? とも言われていますが本当のところはわかりませんね。
また原爆が落とされた広島、長崎は、候補地がいくつかあったのですが、天候も大きくかかわっていたようです。
この本の第三部「その日」として広島の地図と共に色々な場所の状況が書かれています。
中には当時の体験を書いたものもあり、とてもここには書けませんし、もう一度読めと言われても読めません。
最近の日本はグローバルなどと言って英語や世界のことばかり勉強していますが、もっと歴史な日本のことを勉強してもらいたいと思います。
この本はミステリー小説です。
新聞に載っていた本屋大賞候補になった本で、三部の短編小説になっているのですが、最後読み終わるとそれが一つのミステリーになっているという面白い構成になっています。
現実的なミステリーではなく、ちょっとしたおとぎ話、ロマン 表現できませんが面白かったです。
最後が最近話題の「火花」で、さっき読み終わったばかりです。
お笑い芸人が書いた本、芥川賞候補と言うこともあって読んでみました。
良かったです。
「お笑い」という哲学があってもいいのでは? そんなことを考えさせる本です。