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日本海海戦(26)

 原本はイギリス人、Shippen Edwardにより書かれた「Naval battles of the world: from Salamis to Japan Sea」(1905年刊)で、サラミスの戦いから日本海海戦までの歴史的な海戦を紹介している。 日本は周囲を海に囲まれてはいるが、とても海洋国家とはいえない。日本人がはるかなる海に眼を向けたのは、室町や明治のほんの一時期にすぎない。世界では海の支配をめぐり、いくたびかの戦いが繰り広げられた。それを垣間見ることにより、歴史の舞台では忘れられがちな部分にスポットを当ててみよう。

Battle of the Japan Sea (26)
[by Sydney Tyler]
 The Bedovi signaled that her engines were damaged, and that she was short of coal and water. An armed guard was sent on board the Bedovi to receive her surrender. The Russians requested the Japanese not to remove Admiral Rojestvensky and the other officers on account of their wounds, and the Japanese complied, with the understanding that the guard would shoot Rojestvensky in the event of the delay leading to a meeting with Russian ships, thus running the danger of his recapture.

 The Sazanami ran a line to the Bedovi and began to wing her. The line parted twice. In the morning the Sazanami met Japanese cruiser Akashi, which convoyed the two destroyers to Sasebo. During the trip the destroyers encountered heavy seas, and their decks were awash during part of the time.

日本海海戦(26)
[シドニー・タイラー著]
 ベドウィは、‘我が艦のエンジンは損傷し、石炭と水も不足している’と信号を送ってきた。  武装兵が敵船の降伏を受け入れるためベドウィに派遣された。  ロシア側は負傷しているロジェストウェンスキー提督と士官を動かさないでほしいと要請した。  日本側は‘貴艦がロシア艦とめぐり合うためぐずぐずし、そのため提督を奪還される危険が生じたときは提督を射殺するだろう’ことの了解のもと、ロシア側の申し出に応じた。

 漣はベドウィに綱をかけ、曳航を開始した。  曳航索は2重にかけられた。  朝になって、漣は日本の巡洋艦明石に会い、明石は2隻の駆逐艦を伴って佐世保に向かった。  その航海中荒天に会い、2隻の駆逐艦のデッキは度々波に洗われた。

(ひとこと)
 日本海海戦は、相対する装甲艦の大艦隊が正面からぶつかり合い、最後まで戦った海戦史上、最初にして最後の海戦と言われている。  この海戦の教訓から、数多くの新しいハードウェアとソフトウェアが生み出された。  1例をあげれば、舷側砲が取り払われ、回転砲塔に置き換わったこと、小口径砲より大口径砲が重視されるようになったこと等である。  それらは飛行機の時代、ミサイルの時代になるまで生き続けた。
     
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