2.混乱
毛沢東らが火をつけた実権派打倒運動は、毛沢東の想定を超えて広がっていく。
権力を掌握した各地の造反団はそれぞれの理念に従い、それぞれの組織をつくり、
行動を始める。
すぐに政治運動の進め方を巡り、組織間の対立が生ずる。
造反団同士の“武闘”は中国全土に広がり、内乱状態になる。
この状態は、毛沢東ら文革主導の党中央にとっても想定外であり、
早急に秩序回復を行う必要に迫られる。
毛沢東は、軍主導の「革命委員会」の設立を命じた。
委員会は人民解放軍、党幹部、造反派代表により構成され、各組織の運営にあたる。
そして、委員会から排除された造反団は徹底的に弾圧された。
コントロールの難しくなった紅衛兵組織は解体され、500万人にも及ぶ元紅衛兵や
都市の知識青年は“生産現場で農民、労働者に学ぶ”の名の下に、僻地の農村や
建設現場に「下放」さる。体の良い厄介者払いであった。
文革の混乱により低下した国力を回復させるため、党中央は西側諸国との
外交政策の変更を余儀なくされる。
その過程で、指導部内で対立が生じた。
党大会で毛沢東の後継者に指名された林彪率いる文革推進派のグループと
経済重視の周恩来率いる穏健派のグループの対立である。
文革の混乱により、迷いが生じた毛沢東は周恩来寄りになり、林彪を遠ざけだした。
そんな時、「林彪事件」が発生する。
参考図:「中国文化大革命の大宣伝」、草森紳一、芸術新聞社、2009