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英語で読む海戦史(77)

原書は、著名なアメリカの海戦史家Samuel Eliot Morisonの「The Two-Ocean War」です。内容は第2次世界大戦におけるアメリカ合衆国海軍の太平洋と大西洋における戦いを描いたものです。日本との太平洋における戦いの部分に関しては、光人社から「モリソンの太平洋海戦史」(大谷内一夫 訳)として出版されています。あまり知られていない、ドイツとの大西洋における戦いの部分に関して、英語の勉強をかねて読んでみました。

(原文)
Chapter ⅩIII The Navy in the Invasion of France( 1944 )
77.
     Very different indeed was the experience of landing at Omaha Beach. This six-mile-long stretch between Pointe de la Percee and Port-en-Bessin was far better defended than Utah, both by fixed defenses and troops; and no American airdrop behind it engaged the attention of the Germans, who were two or three times as numerous as Allied Intelligence had reported. Casualties were staggering, but General Gerow’s V Corps United States Army (1st and 29th Divisions) got through, thanks to their own valor, the landing well planned by Admiral Hall, and naval gunfire support rendered by Admiral Bryant’s ships.

The coast here trends easterly and takes on a more rugged character than the Utah area of the Cotentin Peninsula. The land is a bold, high plateau which the sea has abruptly chopped off, leaving steep, sandy bluffs, at the foot of which are wide sandy beaches of gentle gradient. According to plan, the troops landed along this coast at or near low water, so that UDTs would have a chance to blow beach obstacles while the flats were dry, and rising tide (which rose to 22 feet on D-day) would make it easier for reinforcements to get in. Thus, the assault echelons, after debarking at low water, had to tramp across a wet beach planted with booby-trapped obstacles. Above the beach was a ruff of “concertina” barbed wire, against an artificial seawall.
            
(訳)
第13章 フランス侵攻での海軍( 1944年 )
77.
     オマハ海岸での上陸の様子はまったく違ったものだった。  ポン・デ・パシーとポート・ベシン間の6マイルの浜辺は、固定防御施設と部隊により、ユタより格段に良く防御されていた。  そして、背後に降下したアメリカ空挺部隊は守っていたドイツ軍の注意を引かなかったし、そのドイツ軍は連合軍情報部が報告した数より2,3倍も多かった。  犠牲者の数は呆然とさせるものだった。  しかし、ジェロー将軍の第5軍団(第1と第29歩兵師団)は彼等自身の勇気と、ホール提督により良く計画された上陸とブライアント提督指揮下の軍艦による火力支援に支えられ、前進した。

     ここでの浜辺は東に傾斜しており、コタンタン半島のユタ地域より凸凹の地形だった。  土地は海によりバサッと切り取られた険しい小高い丘-崩れやすい急勾配の砂の崖で、その足元は緩やかな傾斜の広い砂浜だった。  計画によれば、部隊はこの浜辺に沿うか、浅い水辺に上陸することになっていたので、水中破壊チームは海底が乾いている間に浜辺の障害物を爆破するチャンスがあったし、上げ潮(Dディには12フィートになった)により浜辺への増援がもっと容易になっていただろう。  しかしそうはならず、浅い水辺で降ろされた攻撃部隊は偽装された爆発物のついた障害物が埋め込まれた水中の浜辺を越えて前進せねばならなかった。  浜辺の上は人工護岸堤に向かう形で“コンサーティナ(アコーデオンに似た楽器)”状の有刺鉄線の帯で覆われていた。

(注釈)
     フランス降伏を受け入れずイギリスに亡命したドゴール将軍は1940年8月、自由フランス軍を立ち上げた。  その後北アフリカ、イタリア、コルシカ島を転戦し、ドゴール自由フランス政府は1943年1月、フランス正統政府として連合国から認知された。  ノルマンディ上陸の後は、連合軍の先陣を切ってフランス機甲第2師団がパリに入城を果たし、市民の歓呼を浴びた。  占領下の国内においては、ドゴール派系と共産党系のレジスタンス組織(ドイツ軍に言わせれば、テロリスト集団)がドイツ軍の活動を妨害した。  連合軍の空襲による被害を含め、40万人の市民が犠牲になった。            
〔参考文献:渡辺和行著「ナチ占領下のフランス」、講談社〕

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