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英語で読む海戦史(76)

原書は、著名なアメリカの海戦史家Samuel Eliot Morisonの「The Two-Ocean War」です。内容は第2次世界大戦におけるアメリカ合衆国海軍の太平洋と大西洋における戦いを描いたものです。日本との太平洋における戦いの部分に関しては、光人社から「モリソンの太平洋海戦史」(大谷内一夫 訳)として出版されています。あまり知られていない、ドイツとの大西洋における戦いの部分に関して、英語の勉強をかねて読んでみました。

(原文)
Chapter ⅩIII The Navy in the Invasion of France( 1944 )
76.
First Wave of troops touched down exactly at H-hour, 0630. A curious feature of this landing was that the whole thing “slipped” a mile south of the designated points. A ten-mile boat trip against head wind and sea, and a strong southerly set of current, were responsible. This mistake-which Brigadier General Theodore Roosevelt discovered-was a lucky break, as the “right” beaches were enfiladed by casemated German batteries and the “wrong” ones were lightly defended. Twenty-six assault waves were landed before noon, dumps were quickly established inland; by 1800, over 21,000 troops and 1700 vehicles were ashore, and the big transports were not only unloaded by midnight, but, most of them, back in Portland. The 4th Division, with the essential help of the paratroops who dropped well behind Utah, had reached their first objective line, and suffered only 197 casualties.

A principal factor in breaking down German resistance at Utah was abundant and accurate naval gunfire support, especially on the remote and large-caliber batteries that the assault troops could not get at. This was directed by Rear Admiral Morton L. Deyo in heavy cruiser Tuscaloosa. The flagship, Nevada, and H.M.S. Black Prince and Erebus, for 50 minutes following H-hour, bombarded heavy German batteries north of the beachhead, using air spot. After completing these scheduled shoots, the big ships fired on targets of opportunity on request of shore fire-control parties. The new method of air spotting by land-based fighter planes, devised at Salerno, was used. Nevada, that gallant old survivor of Pearl Harbor, even answered a call for gunfire from the paratroops well inland, and received the thanks of General Ridgway
            
(訳)
第13章 フランス侵攻での海軍( 1944年 )
76.
     攻撃部隊の第1波は、きっかりHアワーの6時30分にタッチ・ダウンした。  この上陸の不可思議な点は、計画された地点より1マイル南にずれた地点に上陸したことだった。  向かい風とそれによる波、強い南に向かう潮流の中での10マイルの航海がその原因だった。  テオドール・ルーズベルト准将が見つけたこの誤りは幸運な誤りだった。  なぜなら、“正しい”浜辺は堅固なドイツ軍の砲列により縦射されるようになっていたが、“間違った”浜辺は軽く防御されていたからである。  26の攻撃波が正午までに上陸し、部隊は素早く内陸に展開した。  18時までに21,000人の兵士と1,700台の車両が揚陸された。  大型輸送船は夜半までに荷揚げ完了されなかったばかりでなく、多くの船はポートランドに引き返した。  第4師団は、ユタ海岸背後に降下した空挺部隊の不可欠な援護を受け、最初の目標ラインに到達した。  犠牲はたった197人だった。

     ユタ海岸でドイツ軍の抵抗を打ち破った基本的要因は、大量で正確な海軍の支援砲火、特に攻撃部隊が制圧できない遠方の大口径砲に対するものだった。  これは、重巡タスカルーサのモルトン・L・デーヨ海軍少将に指揮された。  旗艦ネバダとイギリス海軍のブラック・プリンスとイリバスはHアワーに続く50分間、空中観測機を使って海岸線北のドイツ軍重砲台を叩いた。  これらの計画された砲撃の後、大型艦は浜辺の火力管制部隊の依頼に応じ、任意の目標を砲撃した。  サレルノ(イタリア南端)で発案された陸上基地の戦闘機により空中観測するという、新しい方法が使われたのである。  パール・ハーバー(ハワイ)の蘇った勇敢なる旧式戦艦ネバダは、さらに内陸の空挺部隊からの支援砲火の要請に答え、リッジウェイ将軍から感謝の言葉を受け取った。

(注釈)
     第2次世界大戦においてフランスは屈辱を味わった。  1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻すると、フランス、イギリスはドイツに宣戦布告した。  フランス軍は第1次世界大戦のスタイルから抜け出せず、防御に徹し、国民の戦意も乏しかった。  翌年5月ドイツ軍が機械化部隊による電撃作戦を開始すると、イギリス軍は海に追い落とされ、フランス軍も撃破され、1ヶ月後フランスは降伏した。  国土はドイツ軍の占領地区、イタリア軍の占領地区とビシー政府(ペタン主席)の管轄地区に分割された。  軍備は休戦監視軍という名称の陸軍10万人と従前の海軍に制限された。  1942年11月にはドイツ軍によりフランス全土が占領された。  その時、フランス艦隊はツーロン港で自沈した。
〔参考文献:渡辺和行著「ナチ占領下のフランス」、講談社〕

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