皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

野村望東尼と高杉晋作

2010年02月18日 19時57分54秒 | 歴史・人物

幕末、長州藩の勤皇の志もあった閨秀歌人である野村望東尼という人は、高杉晋作のその短い晩年における交流でも知られています。夙に有名なのは、高杉晋作が死の床で「おもしろきこともなきよをおもしろく」と書いて力尽きたのに対し「すみなすものはこころなりけり」と継ぎ、晋作が「>おもしろいのう」と答えて目を閉じたという挿話です。事実は、死ぬ少し前の事のようですが、同士だった伊藤博文が、のちに高杉晋作の顕彰碑に寄せる一文で「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや」といったように一代の風雲児の人間風景としては、人口に膾炙されている事の方が劇的で相応しく思われます


野村望東尼は再婚相手の夫に誘われるままに歌の道に入った事が契機となって教養をつみ、更には文久年に京都で過ごす内に、次第に国を憂うる心を持つようになったようです


親子以上に年の離れた二人の間に、元より男女の感情は無かったでしょう。彼には彼女の年齢に相応しい美しさと教養、そして志士たちへの命懸けの心配りに敬慕の念があったでしょう。彼女も又彼に対し、常人にはない資質に期待と信頼を寄せていたでしょう


共に「東」という字を使った号というべきものを持っています。野村望東尼の元の名が「もと」であって、そして出家とともに「望東」にしたのであれば、音を合わせつつ、長州から見た東にある京都に憧れる気持ちを暗喩したのではないでしょうか。更には、晋作が望東尼と出会った後に「東行」と付けたとしたら、彼は彼女への敬慕の念とともにそれに倣ったのではないか。彼の場合「東」という字が彼女と同じく京都を意図したのか、それとも「関東」即ち「江戸」を意図したのか。斯く考えるのは穿ち過ぎだろうか。



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パグ犬きなこの写真日記

日記No.2……2010年3月~

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