皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

メディアの恐さ

2021年11月07日 07時40分37秒 | 思想・哲学
メディアというものにはその華やかさとは裏腹に不気味さを感じる。メディアは大衆に対して責任は取りません、否、責任をとる相手が特定されるものでないので取り様がない。メディアは大衆を相手にするだけに、社会的に与える影響は大きい、故に勢力となります。勢力となるとのさばります。のさばると独善的になり勝手を始めます。

公共放送と言いながら、偏向したニュースやドキュメンタリーを垂れ流し、大河ドラマと称して、恣意的解釈に満ち満ちた、誤解を招く大嘘だらけのお粗末な内容の歴史ドラマを、さも史実の如く放送する某テレビ局。芸人やタレントと称するものが自分たちだけ遊んで面白がっているような番組や人気タレントを出せば良いという感じのする安直なドラマの民放。そんな放送を喜ぶのが大衆というものです。
そして、彼らは世間を動かしているのはそんな大衆の欲望だと知っています。それなら大衆の欲望に応えなければなりません。それには大衆に迎合せねばなりませんが、大衆は愚ですから、うまく騙して自分たちのいいように操らねばなりません。そうして視聴率や部数を上げれば、スポンサーに力を誇示して、広告料を吹っかける事が出来ます。

私は、真実を正しく伝えることは不可能だと思っています。我々は真実が報道されていると洗脳されているのです。報道されたことの水面下にはまるで流氷のような大きな報道されない真実があるのです。某国営放送と言われる局はウィグルやチベットにおける中国の残虐行為を報道したでしょうか。いまだに中国に媚びるがごときドキュメンタリーとドラマを制作して流し続けます。民放また然り、己が不始末は自局では放送しないかさらりと流します。

コマーシャリズムとイデオロギーに汚染されたメディアは常に自分たちに都合のいいようにしか報道しません。たまたま、真実だったとしてもそれはそのほうが彼らにとって都合がよかったからにすぎません。言葉を変え表現を変え、手を変え品を変えれば、悪逆非道も善良誠実の如くに思わせたり、善良誠実も狡猾悪徳の如くに思わせたりすることは出来ます。その点、弁護士にも通じる本質があります。
新聞の投書も、街角のインタビューも相手の都合に良いから取り上げられるだけの事です。都合悪ければ、打ち捨てられて我々には知らされません。知らされないことは存在しないことです。そして何時の間にか、メディアの都合の良い事のみ知らされ、我々は洗脳され操られてゆくのです。
その上、テレビ局に限って言えば電波は許認可です。許認可は利権を生む。利権は許認可する人間とされる人間をグルにして巨大な利益を独占させます。莫大な利益は排他を生む。排他は独善を生む。本来無料である電波を独占してのさばります。

そんなメディアや芸能界は大衆の支配を目論む勢力には格好の標的です。すでにある種のイデオロギー勢力や宗教勢力が浸透していることでしょう。
いくら眉に唾をつけ、警戒していても、知らず知らずの内に我々は、メディアの報道をそのまま真実であるかのように信じてしまいがちです。メディアに対しては、幾ら心してかかっても、し過ぎるという事は無いのです。



正義の旗印

2021年11月03日 09時38分14秒 | 思想・哲学

綺麗ごとはいくらでもいえるが、その内奥を覗えば、結局人は人の上に立ちたいのである。そのため納得させて支持を得なくてはならぬ。
政治家など、広くは大衆の支持を得なくてはならぬ。その為には大衆を操れねばならぬ。

そういう人間に対しては、彼らが正義などと言いだしたら眉に唾をして心することだ。庶民の味方だ、弱者の味方だなどと言いだしても心することだ。
非難する相手が自分より上の地位にいる場合は、正義の看板を掲げてその相手を非難するのは嫉妬なのである。本当は自分が相手のその立場に取って替わりたいだけなのである。
世俗的な成功を考えるなら、臆面なんかがあってはいけないのである。生き馬の目を抜く図太さ、人の不幸など見て見ぬふりをする冷酷さがなくてはならぬ。人を出し抜くずる賢さがなければならぬ。
道義に反するだろうかなどと思い悩んでいては遅れをとるのである。

そして話し合いで解決することなどないのです。屈伏させたか、させられたか。それだけです。
話し合いがついたと思っていることは、もとより話し合う必要のないことだったのであり、どうでもよかったのです。
だから、話し合いがつかなくて解決しなければならない時に暴力の出番が来るのです。小は拳骨から大は核兵器まで。



宗教の恐さ

2021年10月25日 17時59分49秒 | 思想・哲学

その教義が如何に優れていようとも、宗教の怖さは、それが本質的に排他性と独善性を有していることだ。
それは、世に知られ、信徒が増え、更に広めるために教団が組織され、集団として動き始める時に顕在化しだす。

信者はどうすべきか?
何より、教祖教主に盲目的に従ってこそ信者なのである。教祖教主に対する盲目的な狂信こそが、教義を信ずる者の教主に対する信徒としての根本姿勢であらねばならないではないか。
とすれば、教主が「彼らを、我々の教えに従わせ、目を開かせることこそが、彼らの幸せなのである」といえば、騙したり、賺したり、脅したり、果ては暴力を使ってでも、その信仰に従わせようとせねばならぬではないか。また、教主が「あれはわれわれの信ずる教義の敵である。如何なる手段をもってしても排除抹殺せねばならぬ」と言えば、ありとあらゆる手段を講じて敵をそうしようとせねばならぬではないか。
それが使命とあれば、そうするのが信徒の使命であろう。
又、教義も後の者によって都合の良いように解釈はできるのだ。それは自己の組織の強化のため、より一層排他的狂信的になるのは必然である。

十字軍、宣教師、魔女狩り
文明へと目を開かせる、信仰の喜びを与える、信仰を守る、聖地を守るなどと、独善的で身勝手でおせっかいな理由を構えて、如何なる残虐と殺戮が、静かに平和に暮らしていた人々に為されたことか。
芸能人のファンを見ると、あれは一種の宗教であると思う。少なくともその要素が濃厚にある。少しでもファンの対象芸能人の悪評価や非難を言うと、ファンは集団となって、食って掛かって否定にかかる。
その様は正にFANATIC(狂信者)である。

宗教が常に排他的であり狂信的であったとしても、個々人の心の問題にのみ容喙するならまだしもその存在も許されるだろうが、現世の政治や社会に容喙し出すとそれは恐怖となって人を威圧する。
それは必ず組織集団として我々個々人に迫ってくる。だから恐ろしいのだ。
政治に宗教が口出さぬ限りにおいて存在が許されるという信長の政治的姿勢は評価されるべきであると思う。

今は多くの制約の中で仮面を被っているが、いつ牙を剥くかわからぬ得も言われぬ不気味な存在なのだ。
暴力を振るわずとも、無言で威圧し、我々を思う方向に従わせられるように、我々が気付かぬようにその悪謀が進んでいるのかもしれない。



相続税

2021年10月22日 14時48分31秒 | 思想・哲学

相続税、贈与税に限って言う。
私は貧乏人だが、以前から相続税、贈与税、特に相続税には反対である。親しい友人には資産家もいるが、そういう人達への迎合では全くなく、そう考えるのである。
苦労して稼いだ金から所得税を引かれたなけなしのカスから、自分亡き後の妻子や孫やこれはと頼む人の為にと営々残した財産に、なぜ更に税を取られねばならぬかと思う。
「金持ちから取り上げるのだから、気味が良くて不満はないでしょう?」「何の苦労もせずに人からもらった金だ、巻き上げてなぜ悪いのですか?」と、心底が隙間見える。
それは、富貴に対する嫉妬、幸運への羨望という、我々人間の心の浅ましく卑しい部分に働きかけたものであり、依拠したものである。我々を品性下劣な人間と見なしているわけだ。それは共産主義的思考である。
重要文化財を含め、伝統的な文化物を受け継いだ者は、相続税の支払いのための費用の捻出の為に切り売りしなくてはならない場合もある、それによって伝統的な文化物さえ破壊され、ひいては伝統も文化も失われていく。


贈与税・相続税をなくし、不労所得を得た人やお金持ちには大いにお金を社会の為に使ってもらって、消費経済に寄与してもらえばいい。
心ある金持ちの中から、孤児の施設などへ寄付等、社会の為になることをする人、未来の為になる研究などに出資する人も出てくるかもしれぬ。
役人の恣意的な税金使いの一堰になるかもしれぬ。そうなれば我々は、お金をどんどん使う金持ちを誉め、使わぬ金持ちは馬鹿にして軽蔑すればいいだけだ。これこそ痛快ではないか。
道徳は個人の中にしかなく組織の中に求めにくいものである。私は個人の中に大いなる善なる意思を期待し望む者である。


ひねくれジジイの戯言です。ああ、叶わぬ夢だ。



小望月

2021年10月20日 08時47分35秒 | 自然・風景

月が出ている


雲間を探して月が出ている
煌々として月が出ている
十四夜の月が出ている


冷気と寒気の混じった風のない深夜
天は高く冷え冷えと
地は雪と見紛うばかりに青白い


私は小さな庭の一隅に立ち
呆然と丸い大きな空を見上げる


なんという宇宙の悠久と雄大
なんという人生の短きと卑小




パグ犬きなこの写真日記

日記No.2……2010年3月~

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