■カンダタのブログ■

日々の雑感+コラム、現在不定期更新です。

デスノート、カラマーゾフの兄弟「大審問官」

2006年05月17日 23時49分59秒 | Weblog
オタキング岡田斗司夫がデスノート最終回について論評していた。

私はまだDEATH NOTEの最後の方を読んでいないのだけれど、

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の章に似ていると思った。


ただ、Lの部下や捜査本部の人間のような強い人間というのが現実の世界ではいないような気がする。

『強い人間たちは、現実をはっきり見据える。  この世界には天国や地獄はない。  奇跡も神も、そして悪への裁きも存在しない。  だからLたちは、今日も現実の犯罪を追いかける。  「悪人を裁く」のではなく「犯罪を食い止める」「すでに起こった犯罪の犯人を逮捕する」。  Lたちができるのは、たったそれだけのことだ。  絶望しない。夢なんか見ない。  Lは、Lのような人たちは強いから、そんな世界でも生きていける。  彼らにとってキラとは「独裁者」以外のなにものでもない。  自分だけを信じて生きていける人間にとっては、たしかにキラなど必要ではないだろう。  彼らは「自分」を信じればいいのだから。』  

デスノートの中では強い人間として描かれているのかもしれないが、現実の世界のこういった人達というのは強いのではなくて「思考を限定している」だけなんじゃないだろうか。

「大審問官」でも大審問官は葛藤をかかえながら現実をみつめている。

しかし、当時のカトリックの僧侶の内面にそういったものがあったとは思えない。

今の世の中でも強い人間というのはほとんどが思考を限定している、あるいは想像力を働かせないから強いような気がする。


謀叛(イワンの「だから神を認めるわけにはいかないのだ!」という、子供を例にとった説得力のある考え)

大審問官 《上》

大審問官 《下》