衣浦の渡し物語
1 亀崎渡船場跡、大店坂跡(半田市)
1.亀崎渡船場跡、大店坂
亀崎渡船場跡、大店坂石碑は、由来によると、亀崎は古くから良港として三河の田戸、高浜、大浜への渡船場があり、江戸時代には番屋がありましたが、現在は燈明台(堂)と言う常夜燈だけが残っております。
大店坂の常夜燈から干潮の海浜に向って、五台の山車を曳き下ろす神前神社の春季大祭の潮干祭は毎年行われています。
尾張三社(半田市亀崎トライアル南)
2.半田市史跡指定
半田市指定史跡 亀崎渡船場跡 付常夜燈一基より
2 亀崎渡船場は、古くから知多から三河へ渡るために衣浦湾北部の高浜市森前渡船場、田戸渡船場と碧南市大浜渡船場へ渡船されていました。
この亀崎の渡しは三河の田戸(八町十間)高浜(10町七間)大浜(二十町)への渡しで、番所を切符売場、事務所、待合所として使用していましたが、明治以後戸長扱とされた後、町営の下請けなどとなり衣浦大橋の開通後には姿を消しました。
亀崎渡船場は、昭和54年4月1日に半田市の指定史跡にされています。
1町≒109m 1間≒1.8m
夢の架け橋 衣浦大橋 森前渡船場跡(高浜市森前公園内)
3 田戸の渡船場(高浜市)
田戸渡船番所跡(由来より)
田戸の渡しは衣浦大橋ガ完成した昭和31年まで対岸の亀崎と往来していました。当時の乗客は1回に数人程度で、便数も一日数回とのことでありました。
この渡しの起源は「天正10年(1582)6月7日徳川家康公伊勢国より渡船に乗ったことから亀崎渡が始められたとの言い伝えもあります。
田戸渡船番所跡碑の横には「南西約80米ニアリシヲ
昭和五十年四月此処ニ移ス」碑があります。
2.田戸地蔵堂(由来より)
この地蔵様は江戸時代中期に田戸、亀崎渡し舟が出来た時に守り佛として建立されたと言い伝えがあり、 建立当時はこれより西方約130メートルの海岸にありましたが、産業道路開設に伴い昭和50年参月ここに建てられた。
田戸地蔵堂碑(由来)
地蔵堂
3 大浜渡船場(碧南市)
大浜渡船は明治8年に三河と知多との渡しである大店坂渡船場から大浜渡船場があったが、昭和48年(1973)8月1日衣浦海底トンネルの開通により昭和44年3月9日で大浜渡船場は廃止されました。
大浜渡船場は堀川(大浜水門)の右岸にあった。
大浜渡船場は大浜漁港の北側にあった。
大浜湊は三州五個所湊
三州には江戸時代海上交通上の重要な役割を果たした湊を「五箇所湊」と呼ばれる湊がありました。この五カ所湊は碧海郡大浜・鷲塚、幡豆郡平坂、宝飯郡犬飼・御馬の5港でありました。
4 藤江の渡し(高浜市-東浦町)
東浦町藤江の須賀川の河口から対岸の高浜市吉浜(芳川)までの約220メートルの間の行き来する渡し舟を「藤江越し」と呼ばれていましたが、藤前渡しは昭和31年衣浦大橋の開通により廃止になりましたが、当時の風情を思い後世に伝えようと同志により碑が建てられました。
現在は「芳川渡し場祭り」として高浜市安立荘前で「嫁入り舟」が再現されています。 参考:東浦ふるさとガイド協会(於大ひめだより)
芳川渡し祭(嫁入り舟) 語りつたえよう「藤江の渡し」祭の応援
結婚の祝福エールを贈る「東浦町ふるさとガイド協会」の皆さん。(藤江ふるさと散歩-平成26年10月19日)
藤江渡し跡(高浜市) 対岸の東浦町藤江-高浜市吉浜 高浜市吉浜-東浦町藤江
藤江越し跡平成二年三月 東浦町教育委員会
衣ヶ浦 藤江越し跡
この渡し船は由来によると定員が二八人船で一日の乗降客は70~80人で、昭和の初め頃の船賃は大人二銭、小人一銭、自転車・乳母車は二銭、であったとのことです。
3.尾州亀崎湊大川松江越渡船場跡
亀崎湊大川松江越渡船場跡 (半田市亀崎すし半前)
※ 松江越渡船場は衣浦湾南部の碧南市松江渡船場へ渡船と福江(田原市福江漁港)通いをされていたと伝えられています。
松江の渡船場
松江の渡しは、明治15年(1882年)武豊線開通により三河と知多を結ぶ渡しとして、両半酒造が渡船を始めたとされて、昭和31年(1956年)衣浦大橋の開通まで利用されていました。
文政七年八月建立
両半酒造の南角に常夜燈(廻船問屋の両口屋半助が建立)と秋葉社
村中安全 秋葉山 秋葉社に隣接し防火貯水槽がありました。
この常夜燈の西(右)へ下ると松江湊へ行く目印となっていたと言われています。
鶴ヶ崎区民館敷地内の道標
道標は常夜燈の近くに設置しされていましたが、現在は鶴ヶ崎区民館の前に移設されています。区民館に隣接して山神社があり、秋祭りの山車を組み立てていました。
鶴ヶ崎 山神社
西 かめざき江 南 つるがさき江 北 にしざき江
南 つるがさき江 東 わしづか江 ・・・・・と読み取れます。
当物語についての原文資料集は別途作成しております。
1 亀崎渡船場跡、大店坂跡(半田市)
1.亀崎渡船場跡、大店坂
亀崎渡船場跡、大店坂石碑は、由来によると、亀崎は古くから良港として三河の田戸、高浜、大浜への渡船場があり、江戸時代には番屋がありましたが、現在は燈明台(堂)と言う常夜燈だけが残っております。
大店坂の常夜燈から干潮の海浜に向って、五台の山車を曳き下ろす神前神社の春季大祭の潮干祭は毎年行われています。
尾張三社(半田市亀崎トライアル南)
2.半田市史跡指定
半田市指定史跡 亀崎渡船場跡 付常夜燈一基より
2 亀崎渡船場は、古くから知多から三河へ渡るために衣浦湾北部の高浜市森前渡船場、田戸渡船場と碧南市大浜渡船場へ渡船されていました。
この亀崎の渡しは三河の田戸(八町十間)高浜(10町七間)大浜(二十町)への渡しで、番所を切符売場、事務所、待合所として使用していましたが、明治以後戸長扱とされた後、町営の下請けなどとなり衣浦大橋の開通後には姿を消しました。
亀崎渡船場は、昭和54年4月1日に半田市の指定史跡にされています。
1町≒109m 1間≒1.8m
夢の架け橋 衣浦大橋 森前渡船場跡(高浜市森前公園内)
3 田戸の渡船場(高浜市)
田戸渡船番所跡(由来より)
田戸の渡しは衣浦大橋ガ完成した昭和31年まで対岸の亀崎と往来していました。当時の乗客は1回に数人程度で、便数も一日数回とのことでありました。
この渡しの起源は「天正10年(1582)6月7日徳川家康公伊勢国より渡船に乗ったことから亀崎渡が始められたとの言い伝えもあります。
田戸渡船番所跡碑の横には「南西約80米ニアリシヲ
昭和五十年四月此処ニ移ス」碑があります。
2.田戸地蔵堂(由来より)
この地蔵様は江戸時代中期に田戸、亀崎渡し舟が出来た時に守り佛として建立されたと言い伝えがあり、 建立当時はこれより西方約130メートルの海岸にありましたが、産業道路開設に伴い昭和50年参月ここに建てられた。
田戸地蔵堂碑(由来)
地蔵堂
3 大浜渡船場(碧南市)
大浜渡船は明治8年に三河と知多との渡しである大店坂渡船場から大浜渡船場があったが、昭和48年(1973)8月1日衣浦海底トンネルの開通により昭和44年3月9日で大浜渡船場は廃止されました。
大浜渡船場は堀川(大浜水門)の右岸にあった。
大浜渡船場は大浜漁港の北側にあった。
大浜湊は三州五個所湊
三州には江戸時代海上交通上の重要な役割を果たした湊を「五箇所湊」と呼ばれる湊がありました。この五カ所湊は碧海郡大浜・鷲塚、幡豆郡平坂、宝飯郡犬飼・御馬の5港でありました。
4 藤江の渡し(高浜市-東浦町)
東浦町藤江の須賀川の河口から対岸の高浜市吉浜(芳川)までの約220メートルの間の行き来する渡し舟を「藤江越し」と呼ばれていましたが、藤前渡しは昭和31年衣浦大橋の開通により廃止になりましたが、当時の風情を思い後世に伝えようと同志により碑が建てられました。
現在は「芳川渡し場祭り」として高浜市安立荘前で「嫁入り舟」が再現されています。 参考:東浦ふるさとガイド協会(於大ひめだより)
芳川渡し祭(嫁入り舟) 語りつたえよう「藤江の渡し」祭の応援
結婚の祝福エールを贈る「東浦町ふるさとガイド協会」の皆さん。(藤江ふるさと散歩-平成26年10月19日)
藤江渡し跡(高浜市) 対岸の東浦町藤江-高浜市吉浜 高浜市吉浜-東浦町藤江
藤江越し跡平成二年三月 東浦町教育委員会
衣ヶ浦 藤江越し跡
この渡し船は由来によると定員が二八人船で一日の乗降客は70~80人で、昭和の初め頃の船賃は大人二銭、小人一銭、自転車・乳母車は二銭、であったとのことです。
3.尾州亀崎湊大川松江越渡船場跡
亀崎湊大川松江越渡船場跡 (半田市亀崎すし半前)
※ 松江越渡船場は衣浦湾南部の碧南市松江渡船場へ渡船と福江(田原市福江漁港)通いをされていたと伝えられています。
松江の渡船場
松江の渡しは、明治15年(1882年)武豊線開通により三河と知多を結ぶ渡しとして、両半酒造が渡船を始めたとされて、昭和31年(1956年)衣浦大橋の開通まで利用されていました。
文政七年八月建立
両半酒造の南角に常夜燈(廻船問屋の両口屋半助が建立)と秋葉社
村中安全 秋葉山 秋葉社に隣接し防火貯水槽がありました。
この常夜燈の西(右)へ下ると松江湊へ行く目印となっていたと言われています。
鶴ヶ崎区民館敷地内の道標
道標は常夜燈の近くに設置しされていましたが、現在は鶴ヶ崎区民館の前に移設されています。区民館に隣接して山神社があり、秋祭りの山車を組み立てていました。
鶴ヶ崎 山神社
西 かめざき江 南 つるがさき江 北 にしざき江
南 つるがさき江 東 わしづか江 ・・・・・と読み取れます。
当物語についての原文資料集は別途作成しております。