環境分析研究所

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「油ヶ淵」と「油ヶ渕」はどっち ! ! ・・   

2015年03月03日 11時01分08秒 | 歴史
 油ヶ淵と油ヶ渕 / 天然湖と人造湖 どっちが本当 ! ! ・・・・・・
 
 「油ヶ淵」は湖沼固有の名前であるが、碧南市内の「油ヶ渕遊園」、「油ヶ渕漁業協同組合」や「油渕町」などで「油ヶ渕」を用いています。
    油ヶ渕漁業協同組合
  江戸末期~明治の地図には「油ヶ淵」と記載があるとされてあります。
 名称にある「淵」と「渕」の使い方は、碧南市の「広報へきなん」の字句等の使用は中学2年生程度に理解できるようにすることから、広報へきなんでは「油ヶ淵」を「油ヶ渕」と表記するようにとの方針から油ヶ淵の「淵」を「渕」として使用していると聞いたことがあります。
 このため碧南市では「油ヶ淵」を「油ヶ渕」とすることが一般化しており、碧南市内の町名も「油渕町=あぶらがふちまち」となっています。
 しかし、生活排水対策計画案に「油ヶ渕」としため「油ヶ淵」は愛知県管理の2級河川であり、河川名称は愛知県が定めるものであるから「油ヶ淵」とするよう修正の指示があったと聞いたことがあります。
      ニ級河川 油ヶ渕 愛知県
 これをきっかけに、平成の始めの頃から「油ヶ渕」を「油ヶ淵」とするようになりましたが、今でも「淵」や「渕」が混在しています。
  このことから今では固有名である油ヶ淵は「油ヶ淵」とすべきですが、今でも一部「油ヶ渕」と紹介されることもあります。
  混在の例
 油ヶ渕= 油ヶ渕花しょうぶ遊園地、油ヶ渕漁業協同組合、油渕町等があります。(碧南市)
  油ヶ淵= 油ヶ淵悪水土地改良区(安城市) など  

 油ヶ淵は2級河川です。油ヶ淵は河川の一部が広くなっている所である。ここに漁業権があることから環境基準は湖沼に分類されております。

 油ヶ淵は愛知県の南部にある碧南市と安城市に亘る県内唯一の「天然湖沼」と言われています。油ヶ淵は歴史的に見て天然湖沼とすることは疑問があります。

 現在、油ヶ淵が天然湖沼か人造湖沼かについては、歴史的資料の整理中です。  

参考資料  碧南市史第1巻 など 

 

衣浦の渡し(愛知県)物語

2014年10月20日 18時40分06秒 | 歴史
衣浦の渡し物語 

 1 亀崎渡船場跡、大店坂跡(半田市)
   1.亀崎渡船場跡、大店坂
    
亀崎渡船場跡、大店坂石碑は、由来によると、亀崎は古くから良港として三河の田戸、高浜、大浜への渡船場があり、江戸時代には番屋がありましたが、現在は燈明台(堂)と言う常夜燈だけが残っております。
   大店坂の常夜燈から干潮の海浜に向って、五台の山車を曳き下ろす神前神社の春季大祭の潮干祭は毎年行われています。

      尾張三社(半田市亀崎トライアル南)
2.半田市史跡指定  
    半田市指定史跡  亀崎渡船場跡 付常夜燈一基より 
2 亀崎渡船場は、古くから知多から三河へ渡るために衣浦湾北部の高浜市森前渡船場、田戸渡船場と碧南市大浜渡船場へ渡船されていました。 
   この亀崎の渡しは三河の田戸(八町十間)高浜(10町七間)大浜(二十町)への渡しで、番所を切符売場、事務所、待合所として使用していましたが、明治以後戸長扱とされた後、町営の下請けなどとなり衣浦大橋の開通後には姿を消しました。
    亀崎渡船場は、昭和54年4月1日に半田市の指定史跡にされています。
    1町≒109m    1間≒1.8m        
夢の架け橋 衣浦大橋           森前渡船場跡(高浜市森前公園内)
   
3 田戸の渡船場(高浜市) 
田戸渡船番所跡(由来より)
田戸の渡しは衣浦大橋ガ完成した昭和31年まで対岸の亀崎と往来していました。当時の乗客は1回に数人程度で、便数も一日数回とのことでありました。
この渡しの起源は「天正10年(1582)6月7日徳川家康公伊勢国より渡船に乗ったことから亀崎渡が始められたとの言い伝えもあります。  
     田戸渡船番所跡碑の横には「南西約80米ニアリシヲ  
昭和五十年四月此処ニ移ス」碑があります。
  2.田戸地蔵堂(由来より)
    この地蔵様は江戸時代中期に田戸、亀崎渡し舟が出来た時に守り佛として建立されたと言い伝えがあり、 建立当時はこれより西方約130メートルの海岸にありましたが、産業道路開設に伴い昭和50年参月ここに建てられた。      
    田戸地蔵堂碑(由来)         
    
  地蔵堂 


3 大浜渡船場(碧南市)
  大浜渡船は明治8年に三河と知多との渡しである大店坂渡船場から大浜渡船場があったが、昭和48年(1973)8月1日衣浦海底トンネルの開通により昭和44年3月9日で大浜渡船場は廃止されました。  
大浜渡船場は堀川(大浜水門)の右岸にあった。
大浜渡船場は大浜漁港の北側にあった。
    大浜湊は三州五個所湊
 三州には江戸時代海上交通上の重要な役割を果たした湊を「五箇所湊」と呼ばれる湊がありました。この五カ所湊は碧海郡大浜・鷲塚、幡豆郡平坂、宝飯郡犬飼・御馬の5港でありました。

4 藤江の渡し(高浜市-東浦町)
東浦町藤江の須賀川の河口から対岸の高浜市吉浜(芳川)までの約220メートルの間の行き来する渡し舟を「藤江越し」と呼ばれていましたが、藤前渡しは昭和31年衣浦大橋の開通により廃止になりましたが、当時の風情を思い後世に伝えようと同志により碑が建てられました。
現在は「芳川渡し場祭り」として高浜市安立荘前で「嫁入り舟」が再現されています。 参考:東浦ふるさとガイド協会(於大ひめだより) 
    芳川渡し祭(嫁入り舟) 語りつたえよう「藤江の渡し」祭の応援

   結婚の祝福エールを贈る「東浦町ふるさとガイド協会」の皆さん。(藤江ふるさと散歩-平成26年10月19日)
     
        藤江渡し跡(高浜市)     対岸の東浦町藤江-高浜市吉浜   高浜市吉浜-東浦町藤江    
      藤江越し跡平成二年三月 東浦町教育委員会
  衣ヶ浦 藤江越し跡 
   この渡し船は由来によると定員が二八人船で一日の乗降客は70~80人で、昭和の初め頃の船賃は大人二銭、小人一銭、自転車・乳母車は二銭、であったとのことです。
       
  
3.尾州亀崎湊大川松江越渡船場跡  
  亀崎湊大川松江越渡船場跡 (半田市亀崎すし半前)
※ 松江越渡船場は衣浦湾南部の碧南市松江渡船場へ渡船と福江(田原市福江漁港)通いをされていたと伝えられています。
   松江の渡船場
  松江の渡しは、明治15年(1882年)武豊線開通により三河と知多を結ぶ渡しとして、両半酒造が渡船を始めたとされて、昭和31年(1956年)衣浦大橋の開通まで利用されていました。
 文政七年八月建立
  両半酒造の南角に常夜燈(廻船問屋の両口屋半助が建立)と秋葉社
    村中安全 秋葉山 秋葉社に隣接し防火貯水槽がありました。
   この常夜燈の西(右)へ下ると松江湊へ行く目印となっていたと言われています。
 鶴ヶ崎区民館敷地内の道標
   道標は常夜燈の近くに設置しされていましたが、現在は鶴ヶ崎区民館の前に移設されています。区民館に隣接して山神社があり、秋祭りの山車を組み立てていました。
      鶴ヶ崎 山神社
      西 かめざき江       南 つるがさき江    北 にしざき江
  南 つるがさき江      東 わしづか江 ・・・・・と読み取れます。

    
当物語についての原文資料集は別途作成しております。

塩の道(中馬街道)物語

2013年03月02日 07時06分06秒 | 歴史
  塩の道(中馬街道)物語
  はじめに
 昭和45年ごろ矢作川の撮影のため上流をめざしていたころ、足助町(現在は愛知県豊田市)の香嵐渓の入り口に「塩の道」の案内板を見つけました。この道こそ「中馬街道」塩の道でありました。
また、昭和53年4月「第1回全国町並みゼミ有松・足助大会」が開催され、その2日目の足助会場に参加したとき地元の皆さんの歓迎や平成23年には豊田市稲武町で「稲武歴史再発見-塩の道-伊勢神峠を歩こう」の体験などを機に、今回は「塩の道」をとりあげることとしました。
第1章  塩の歴史
1 日本最古の歴史書「古事記」に塩(潮)の記述
712年に太安万侶(おおのやすまろ)によって「古事記」がまとめられて、今年は(2012年)編纂して1300年の年であります。
古事記は7世紀後半の天武朝に天皇の命を受けて、稗田阿礼(ひえだのあれ)が日本の歴史の叙述を記録したもので、現存最古の歴史書でと されています。
この古事記には、「天津神たちに、漂っている国土を整え固めるように命じられ、天の沼矛(あめのぬぼこ)を授けられました。二神は天の 浮橋の上にお立ちになって、その沼矛で国土を掻きまわし、沼矛を引き上げると、沼矛の先から滴る潮(塩)が積もって島になりました。これを淤能碁呂島(おのころしま)という。」と記述されており塩の記載について最も古いものとなっていまいます。


2 人と塩(しおNaCl)
  人にとって塩(しお)は必要なもので、消化と栄養の吸収を助け体の水分を一定に保つほか、温かさや冷たさなどの刺激を伝えるなど大きな
役割を持っているとのことです。体内には20%~25%の細胞外体液のうち0.9%の塩分があると言われています。これによれば体重60Kg
の場合108gの塩分が含まれことになります。
  体内に摂取された塩分は腎臓の働きによって一定に保たれていますが、夏の暑い日に激しい運動をしたときなどのように体内の塩分が欠乏
すると、脱水症状や血圧低下、立ちくらみ、脱力感などの症状があらわれると言われています。
  体には塩分が必要で人が直接塩(しお)を摂取するようになったのは、狩猟生活(動物の内蔵等から塩分を摂取していた。)から稲作へ移行する
なか、海水から塩を取ることを知るようになったとされており、日本人(成人)の食塩摂取量は10.9g/日と報告されています。
平成20年度の食塩摂取目標量は、厚生労働省によりますと日本人の食習慣から女性は7.5g/日、男性は9g/日未満としています。
 
  第2章  塩づくり                 
1 製塩の歴史
   塩は弥生時代後期から海水を製塩土器で煮詰めて造る製塩方法がおこなわれており、沿岸地域で製塩土器の脚部が各地で出土しています。
 製塩土器は深鉢型の杯部の脚部を土に差し込み固定させて煮詰めたと考えられており、塩が析出した鉢と塩を一緒に運搬したため、遺跡には脚部のみが残り発掘されています。


 2 塩浜の塩田方法
塩田方法には揚浜塩田、入浜塩田方法があります。
   (1) 揚浜塩田 
     揚浜塩田は塩田が海面よりも上にあるため、海水を塩田まで汲み上げて塩田にまき太陽熱と風で水分を蒸発させ、砂に塩の結晶化したものに海水を注ぎ鹹水をつくり煮詰めて塩を作る方法です。
(2) 入浜塩田 
     入浜式塩田製塩法は江戸時代から昭和33年ごろまで続いた製塩方法で、潮の干満を利用し塩浜に海水を引き込み、塩田の砂に海水かけ蒸発させ塩を砂に付着したものを集め、鹹水をつくり釜で煮詰めて析出した塩を採取する方法です。
            
       
愛知県西尾市吉良塩田(復元)
    

 愛知県西尾市吉良歴史民俗資料館
       
   入浜式復元塩田(塩づくり体験講座)     



   鹹水の採取


   鹹水を煮詰めて塩の結晶を集める
  (3) 流下式塩田
竹の枝を組み立てた枝条架(しじょうか)で太陽熱と風の力により、水分を蒸発させて濃い海水である鹹水をつくります。



流下式 枝条架(愛知県知多郡美浜町「食と健康の館」)

3 愛知県内の主な塩田
 「愛知県塩業」に製塩地は知多、碧海、幡豆、宝飯、渥美5郡の沿岸で行われていたとあり、明治38年に塩の専売制度が導入され各地に塩務局の出長所が設置され、採算の合わない塩田の整理もおこなわれました。
(1) 田原市 (渥美町)
    入浜式の塩田で明治11年の資料によると塩田が「1町8反7畝11歩で製塩量は222石2斗(約40m3)」とあり、江戸時代から明治には塩浜所へ薪等の燃料を売りながら副業として製塩を行っていたが、明治42年ころには多くの塩田が廃業してしまいました。  
(2) 蒲郡市   
 塩田は揚浜式と入浜式があり明治の始めには、市内7村で50haの塩田がありました。塩づくりは農家の現金収入源であり、薪取りや農作業とで重労働でありました。
大には塩問屋があり豊橋、西三河地域や熱田まで取引があったとのことで、愛知県内での塩づくりは盛んであったことが伺えます。
(3) 碧南市
 大浜・棚尾塩は入浜式塩田であり、塩は矢作川を上り足助の塩問屋へ運ばれていました。
 旧棚尾支所には明治4年の文書「塩浜事件取調書」が保存されておりました。
これは塩浜税の上納について棚尾村と大浜村の塩浜境界が不明確のため、大浜村が2/3、棚尾村が1/3となっており棚尾村が大浜村へ税を差し出し、これをとりまとめて納めていたことから、棚尾村が「免状書分け」を願い出た事件で、このことを菊間県大浜役所(大浜は江戸時代菊間藩(沼津市)の飛び地であった。)へ報告した文書が残っており、塩が米と同じように貴重なものとであったことがわかります。
(4) 東浦町
江戸時代には入浜式塩田で鹹水をつくり農閑期に煮詰めて塩を作っていたが、1800年頃の塩田は18町歩余であったものが5町歩余程度まで減少し、明治38年の塩の専売制度により製塩は消えることになりました。
(5) 西尾市(旧吉良町)最後の塩田
三河湾沿岸地域では戦国時代には塩田による塩づくりが行われ、江戸時代には遠浅の浜で入浜式塩田の塩づくりが行われました。
入浜式塩田は塩の干満を利用しており、塩田に海水を運ぶという重労働がありません。吉良で造られた塩は「饗庭塩(あいばじお)」として岡崎の八丁みそづくりに利用されるばかりでなく、足助を経由して信州へ運ばれました。
明治に入ると外国産の安い塩が輸入されるようになったため、国内産の塩を守るため、明治38年に専売制が導入されると、吉良には名古屋塩務局吉田出張所が設置され、効率の悪い塩田の整理が行われ三河湾では吉良町、一色町、蒲郡市に残るのみとなりました。
入浜式塩田は昭和28年にこの地方を襲った台風13号により壊滅的な被害を受けたが、組合を結成して効率のよい流下式枝条架塩田に替えましたが国策により、昭和47年1月に枝条架(しじょうか)が焼却され国内の塩田は消えてしまいました。
         
        西尾市吉良町民俗資料館 入浜式塩田 復元
   塩と赤穂浪士
 赤穂浪士の四十七士の話は有名ですが、地元では吉良公として慕われておりこの事件は赤穂塩と吉良塩の商売に関わる事件とも言われております。
平成24年12月14日に西尾市(旧吉良町)で吉良公310回忌記念として、「吉良家と上杉家~義の系譜~」の講演会が開催されました。講師は上杉家第17代当主の上杉邦憲氏(JAXA=惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトチーム)でありました。
  
第3章  塩の道(中馬街道)
国内塩の生産が盛んになると海岸でつくられた塩は、街道の発達と共に群馬、長野、岐阜のような山奥地へ運ばれるようになりました。
桑名、尾張塩は中山道で長野へ、飯田街道で足助へ運ばれました。また、三河湾沿岸で作られた塩は伊那街道や舟で矢作川を上り岡崎へ。また吉良、蒲郡、大浜・棚尾塩は岡崎の塩座や足助で各地域から集められ塩を馬の背で運ぶため、俵に詰め直しする「塩ふみ」「足助直し」が行われ飯田街道で信州へ運ばれていました。
豊田市(旧足助町)中馬街道「塩の道」
   莨屋・塩座があった街道筋
  足助には塩問屋が明治20年頃には13軒あり、その一つである莨屋(たばこや)は江戸時代後期から明治の中期まで屈指の塩問屋で塩座がありました、ここで各地から集められた塩の「足助直し」が行われ、新しい俵に詰め直して信州(塩尻、松本)へと運ばれました。
      莨屋(たばこや)で扱った三河湾沿岸の主な塩の産地
塩の銘柄 産地
大浜塩 碧南市
生田塩 西尾市(一色町)
饗場塩 西尾市(吉良町)
吉田塩 西尾市(吉良町)
鹿島塩 蒲郡市
 「中馬」とは「賃馬」「中継馬」が語源といわれており、足助からは塩を馬で伊勢神峠(豊田市稲武)を越えて信州へ運ばれました。また、信州からは米やたばこなどの産物が運ばれました。
     
莨屋(たばこや)足助直し塩(復元)
 伊勢神峠(いせがみとうげ)
 足助町から国道153号線を上ると明治30年に造られた旧伊勢神トンネル(長さ308m)の入口の左脇から山へ上がる道が三河と伊那を結ぶ中馬街道の難所の一つ伊勢神峠があります。峠の途中には観音と馬頭観音像石仏があり人や馬の安全を祈ったことが伺えます。    

 稲武歴史再発見「伊勢神峠を歩こう」平成23年9月4日
旧 伊勢神トンネル

全長:308m 高さ:3.3 幅:3.15 1897年(明治30年)完成
     
       伊勢神峠 塩を馬の背で運んだ堀割り道
 中馬街道の馬場
 伊勢神峠を越えると馬場がありました。
ここの2階にある押し入れに茶室のにじり口を思わせる入口から這うように行くと、屋根裏には窓のない三角屋根の広さ12畳はあるだろう隠れ部屋「とばく場」が現存しており見学させていただくことができました。まるで映画の世界を思わせる「丁・半」のシーンが呼び覚まされて「とばく場」に見入ってしまうほどの貴重な体験でありました。
 
おわりに
  三河湾沿岸には江戸時代から明治、昭和まで塩田がありました。この塩を岡崎の塩座や足助では各地の塩を「足助直し」で塩の量や質の均一化を図りました。
「伊勢神峠を歩こう」では、苦労して塩を険しい山奥へ運ぶ峠越えの厳しさを体験しました。また「にがり」を多く含んだ塩でも塩の採れない地域では、この「にがり」を利用して豆腐づくりをしており、「にがり」が多い塩も地域によっては重宝されたともいわれております。海岸近くに住んでいる者としては塩の貴重さを考えさせられました。

 参考資料
 古代の塩づくり(渥美町郷土資料館)
 新・三州足助(足助町観光協会)
 吉良の塩田(吉良町教育委員会)
 塩の歴史と民族(豊田市郷土資料館)
 改訂 東浦歴史散歩(東浦町教育委員会)
  塩浜事件取調書(碧南市市史資料室) 
  塩のミニ知識(財団法人塩事業センター)