世相と心の談話室

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震災対策について=江戸時代の濱口梧陵に学ぶ=

2005年03月31日 12時14分43秒 | 世の出来事放談
「天災は忘れた頃にやってくる」とは、物理学者寺田寅彦の訓戒であるが、最近は「天災は忘れていなくてもやってくる」という状況にある。10年前の阪神大震災の惨状は、10年ぐらいの時間で忘れられるものではない。その惨事が脳裏に残っているうちに、新潟地震、福岡地震と震災が相次ぎ、昨年末にはスマトラ島沖大地震が発生。さらに、日本時間で29日未明、現地インドネシア時間で28日深夜に再び当地でM8.7の大地震が起きた。震災だけでなく、昨年の夏から秋にかけて相次いで上陸した台風は、観測史上最高の10個となり、多大な被害をもたらした。2000年代に入って震災を中心に、自然災害が生活を脅かしている場面が多くなってきたように思われる。日本は今地震活動の活発期に入っているという。阪神大震災はその前触れであったのか。
 「天災は忘れた頃にやってくる」とは、当然、日頃から防災意識を持っておくことの大切さを戒めた言葉だが、「天災は忘れていなくてもやってくる」という意味は、個人から社会全体まで防災意識が間に合ってないこと示す。
 今年の1月12日に放送されたNHKの『その時歴史が動いた』で、安政大地震のときの奇跡の復興を描いた番組があった。その時活躍した濱口梧陵のエピソードは、現代の私たちの防災対策に何らかの示唆を与えるものであると思った。以下にそのエピソードを示す。
 
濱口梧陵は、津波被害の救済と防災に尽力した歴史上の人物である。紀州藩広村(現在の和歌山県広川町)の醤油製造老舗商人であった。安政元年(1854年)11月5日のこと。安政の南海大地震が発生した。地震直後、梧陵は、濱口家に代々伝わる「地震後の海に注意せよ」との教えを思い出し、津波の到来を予知した。彼は、海鳴りの異常や夕空の異常に気づき、村人に津波が来るのですぐに山の八幡神社に逃げるように告げたのである。その直後、広村には5mを超える津波が押し寄せた。1回目の津波が来た後も、夕暮れて暗くなった村には途方に暮れた人々が大勢いた。そこで梧陵は、田にあったあちこちの藁の束に火を点けて、逃げ道を村人に知らせ、ほとんどの村人を山に避難させた。津波は全部で5回村を襲ったが、これで村人の97%が救われたと言われている。普通、5mを超える津波が来れば、漁村なら60%以上の村人が死亡すると言われているので、これは奇跡に近い救出劇となった。しかし、地震と津波の後の村は壊滅状態。広村は過去にも度々大津波の被害を受けていて、かつて1200戸あった家も300戸まで減少していた。そこへ今度の津波が襲ってきたのだから、村人の絶望も深く、村を捨てて出て行く者も多く現れた。
梧陵は、このままでは村が死んでしまうと思い、財産をなげうって村人の救済にあたり始めた。それでも、村人の生きる希望を取り戻すことができなかったので、彼は、全長900m、高さ4.5mの大堤防建設を思いついたのである。建設は村人総出で行われた。この堤防建設は、この当時の世界では類のない大工事であった。梧陵が計画した堤防建設は、防災という意味と村人の生きる希望の復活という意味があったのである。彼は、「住民百世の安堵を図れ」という言葉で村人の生きる力を鼓舞した。おりしも、安政2年、安政江戸地震が起こり、江戸に出していた梧陵の店が潰れてしまって、経営的に苦しくなるという事態が起きてしまう。それでも、梧陵は自分を慕ってくれている村人の力になりたいと思い、私財を投じて堤防建設を続行した。そうして、安政5年(1855年)12月に堤防が完成したのである。
それから約90年後、1946年に起きた南海大地震では津波による多くの被害が各地に出たが、広村では、人は勿論、家屋もほとんど津波の被害を受けなかったという。梧陵が建設した大堤防のおかげであったことは言うまでもない。明治になって、『怪談』などの著書で日本文化を外国に広めたラフカディオハーン(日本名で小泉八雲)は、濱口梧陵のことに触れ、初めて英語で“TSUNAMI”という言葉を使った。これが国際語として広まっていき、津波は英語でもTSUNAMIとなったのである。
 
この梧陵の偉業から、3つの教訓が汲み取れると思われる。1つは、自然災害に関する教訓は代々伝えるべきで、それを生かす対応が必要であるということ。2つ目は、災害に遭った場合、自分だけでなく多くの人のことが心配できるリーダーが必要であるということ。3つ目は、被災して意気消沈している人々に生きる希望を与える活動が必要であるということ。そんな教訓を先代の偉人から学び取り、それを生かせられるようにしたいものである。
 それにしても、地震の予知というのは今どの程度まで可能になっているのだろうか?東海地震、東南海地震、南海地震が近々起こることが予想されている。そのメカニズムは、スマトラ島沖の地震メカニズムと類似しているという。しかし、東海地震が近く起こるかも知れないというのは、随分前(あやふやな記憶では、30年ぐらい前から)言われていることのように思われる。地震予知の難しさを思う。
 東海地震、東南海地震、南海地震は連動して起こる。この3つの地震は、1605年に連続して起きた後、1707年と1854年にも起きている。その間102年と147年の間隔がある。さらに東南海地震は1944年、南海地震は1946年に起きている。しかし、東海地震はこの年代に起きてはおらず、1854年から現在まで151年の間隔が開いている。もう秒読み態勢に入っていると思われる。東南海地震と南海地震は100~150年周期で起きていて、計算上はまだ起きるような時期ではないのかも知れないが、東海地震との連動を考えれば、発生の可能性は高い。この2つの地震も、秒読み態勢に入っているのである。しかも、東海、東南海、南海の3地域だけで、日本の人口の3分の1が集中している。ただ事ではない。
 日食や月食、彗星の動きなど、遠い天体の動きは正確に計算できるのに、現代科学は足下の闇の動きを予測計算できない。素人の考えであるが、地震予測はあまりにも科学的正確さを追及し過ぎているのではないだろうか。聞けば、地震予測にも、動物の行動から地震雲の観測、地震波の観測など、色々方法があるという。ならば、信憑性=確実性優先の予測よりも、それらの観測も含めた、不確実性優先の予測体制をとるのはどうだろうか。勿論、かなり具体的な地震予知を一度発してしまって、それが誤ったものであったら、その時被る損害を危惧する考えもあるだろう。しかし、濱口梧陵がそんなことを考えて、「津波が来るので逃げろ」と言ったであろうか!地震予知に関しては、信憑性よりも、不確かでもいち早い情報提供が必要である。そして、その情報を受ける側も、予知が外れることを「おり込み済み」で反応すべきである。
 地震発生の可能性予告を、次のようなレベルで段階的に発してみてはどうだろうか。まず予告を、予測段階=可能性レベルと予知段階=発生確実性レベルという2つに分ける。予測段階は、動物の行動観察や地震雲などの発生といった、自然現象の異常から推測されるもので、1年以内に起こる可能性が50%前後考えられるレベルである。予知段階は、様々な地震観測計器を基に算出されたもので、1年以内に起こる可能性が70%前後考えられるレベルである。素人考えであるが、地震の予知と予告体制は早急に整えるべきである。(浅学なので、すでに出来上がっているのを私が知らないのかも知れないが・・…。)具体的に発せられた予測・予知が外れると、不快感を持つものがいると思うが、震災があった後に決まって現れる、「私はあの地震を予知していた」と言う霊能力者や科学者よりもましである。

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