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世相と心の談話室

世の出来事に関する話、心理学的な話、絵と写真をもとにした雑談などのコーナーがあります。

無意識(2)=ユング(分析心理学)にみる無意識①

2005年04月24日 23時42分54秒 | 心理学的な話
ユング(分析心理学)にみる無意識 (1)

人間の心とは何か

 人間の心を説明するのに、「心とは何か」のページで説明したように、「感覚・知覚」、「イメージ・思考」、「感情・欲求・動機づけ」といった心の3領域と、「表層」、「深層」、「超越的層」の心の3層から説明することができる。ただ、別の観点(より人間の主観的な部分を強調する観点)で見ると、それは次のようないくつかの特徴で説明することもできるのである。
 心とは主体である。主体とは、自らのなかに基準をもっていて、それに基づいて判断すること。主体は次のようなものを指す。
1) 認識の主体。人間はいろいろなものを認識して、それをもとにして生きている。
2) 行動の主体。願望・意図・目的などがこれにあたる。
 心はイメージである。心は認識したり、欲したり、何か目的をもったりする。そのとき認識されたものは、全てイメージの形をとり、イメージとして心の中に記憶されるのである。ユングは「人間の心というのは直接的には全てイメージである」と言っている。イメージについては、以下の有り様に留意する必要がある。
1) イメージは、人間以外の動物でも持っている。例えば、昆虫などは現実と忠実に対応したイメージをもって行動する。(葉切り蟻が、大きさの決まっている巣にちょうど入るくらいの大きさをイメージして葉を切り落とすなどの行動)しかし、高等動物になるほど現実にないことをイメージする能力が出てくる。イメージをもっているから心があるということではなく、イメージのもち方が主体的であるかどうかで、心があるかどうかが決まる。昆虫のように本能や環境と機械的に対応しているのは、主体的とはいえない。自分の判断による自由選択の可能性があるほど主体的だと言えるわけで、その意味で人間は主体的であり、心をもつ存在である。
2) 動物や昆虫のイメージは本能と直結している。(一部の動物は、イメージと本能との間に少し距離がある。)しかし、人間の場合は、イメージと本能との結びつきがゆるくなっている。人間のイメージは現実と直結してなくて、その間に主体的な判断が入り込む。人間が生まれつきもっているイメージは具体的でなく、曖昧で、いろいろ経験していくうちに、具体的なものと結びつく。イメージが曖昧だから現実から離れて自由になれる。だからといって、無制限に現実離れするのではなく、適度に曖昧になっているというのが、人間のイメージの特徴である。その曖昧さによって人間はうまく生きてゆくことができる。
3) イメージするという人間の能力はあまり正確ではない。適度にぼやけていて、それが重要でもあるが、間違える可能性も大きくなる。それはイメージが現実や本能行動から離れたからである。現実離れしてイメージが一人歩きすると空想となる。空想は現実から離れているため、現実生活には役立たないが,人間の心を癒したり、新しい創造を生むこともある。ここが昆虫や動物のイメージと決定的に違うところである。 
4) 心が働くとイメージが起き、イメージがあると心も動くというように、心の働きとイメージは密接な関係にある。その人間がもっているイメージのうちで一番根本となるものを、ユングは元型と言っている。これは人類に共通で生得的なイメージと心の働きのパターンのことである。(後述説明を参照)
5) イメージには力があり、イメージすることによって得られる成果は思いのほか多い。人間の自律神経系に作用したり(イメージで血液の流れを変えるなど)、α波を出したりすることができる。
 心は複数である。心は単一のものではなく、いくつもの部分から成り立っている。いろいろな部分があるからこそ、お互いに対立することもある。これは大きく分けると、意識と無意識に分かれる。心はこのようにいくつかに分かれるが、それぞれの部分が主体である。

自我とコンプレックス

(1)自我とは何か
① 自我は経験内容、意識内容を統合している中心であり、経験するときの主体である。自我には自律性がある。言い換えれば、自己法則性(他から影響されない自分なりの行動様式)=心の動きの習性といったものがる。自我は自分で統御できるほど「自由」な存在ではない。
② 自我には持続性(昨日の私と今日の私は同じである)と同一性(怒っている私と笑っている私は同じである)という性質がある。それゆえ、自我は自由に変化することはできない。
③ 自我が自分の認識や行動の主体であり中心であることができるのは、その自我がもっている広義の価値観、価値基準による。ある程度の普遍性をもった価値基準をしっかりもっている人が人格として安定しており、しっかりした自我を持っていると言うことができる。価値観が同一のものとして持続しているということが、持続性や同一性といった自我の安定性の基礎になっているのである。要するに、自我とは意識の中心であるが、中心であることができるのは、価値観によってである。(これはユング派があまり語らないことで、林道義氏の主張)
④ 価値観はまず家庭からやってくる。そして、周囲の環境社会からいろんな価値観、時代やその社会特有の価値観、家族の特殊な価値観といったものが個人に影響を与える。その意味で、自我というのはあまり個性的ではない。自我は個人個人で違うが、その根底は、時代や社会でわりあい共通の性質をもっているということが言えるのである。
⑤ 自我は自分の意思では作れない、周りから作られているという性質が非常に強い。気がつけば、自分に不本意な自我になっていたことはあり得ることで、どのようにして真の自分に近づくのかというのが、ユングの言う、人生後半の個性化と自己実現である。
(2)意識の程度によって現れる3つの自我
自我は意識的なものである。しかし、気がつけば不本意な自我になっていたというのは、それまでの自我は無意識だったのかという懐疑を生む。意識とは、濃淡、強弱の違いがあり、普段はあまり意識してなくても、いざというとき意識できるということもある。その意識の程度と自我の関係について見てみると、次の3つほどに分類するのが妥当だと思われる。
伝統的な自我…・・昔から伝わっている風習、伝統、習慣に従う自我のこと。普段は眠っていて、自分の役割といったものを強く意識することはないが、伝統を踏み外す出来事が起こると目覚める意識である。言い換えれば、普段は意識の程度は低いが、いざとなると強くなる意識ということである。我々の意識は、日常的な生活に近づけば近づくほど、この伝統的な自我に近くなる。
合理的な自我…・・物事を全て合理的にやらないと気が済まないという自我のこと。かなりの緊張と集中性を維持しなくてはならない。
信仰的な自我…・・価値観、スローガンといったものが明確で、理念のようなものを持っている人の自我である。このような自我は、非常に狭くなっていることも確かである。そして、時に社会と対立することもある。
※  ①~③のような自我は固定的である。自我の固定性・持続性は絶対必要なもので、それがないと人格が成立しない。しかし、自我が固定し過ぎて硬直化してしまうと、自我の働きとしては不充分になり、そこに自我の限界が現れてくる。それを補うものとして、ユングの個性化の考え方が必要となる。
(3)自我の機能特性
① 自我は知覚した事柄を、言語を中心として概念化する概念化機能を有する。
② 自我は、概念化された事柄の関係づけを行う思考機能を有する。思考をできるだけ合理的、論理的におしすすめることで、自我の体系はますます強固になる。
③ 自我は直感機能を有する。直感は知覚とは無縁のもので、突然に思いつくものである。例えば、「人間は嘘をついてはならない」という価値観を親から教え込まれた自我は、それを忠実に守ることで、統合性のある人格として存続しようとする。ところが、あるとき、学校の先生に奢られるのが嫌でつい嘘をつくということが起こる。この場合、自我はその存続と安定をはかるために、その経験(嘘をついたこと)を、体系外に排除しようとする。このように、自我は、経験を体系に組み入れる機能と、経験を体系外に排除しようとする機能がある。また自我が、嘘をついたという経験をその体系のなかに組み入れようとすると、その体系を支えてきた支柱に変更を施すことになる。
 自我は、その存在をそのまま続行しようとする傾向と、自らは何時も未完の状態にあり、自らを変革・発展させる傾向と、相反するものをもっていると言える。
④ 自我は運動機能と結びついている。自我は心的内容のみでなく、身体の運動をも支配している。
 ⑤ 自我意識の特性・・…自我は自分自身をも客体として意識することができる。つま  り、自我は自我について意識する「自我意識」をもつ。自我意識の特性をヤスパースは次のように述べている。
1) 能動性・・…「私が」するのだ、「私が」感じるのだといった、「私」を主体とした意識である。
2) 単一性・・…自分というものは1人であって、2人いつのではないという意識。
3) 同一性・・…一年前の自分と今の自分は同一人物であり、生涯を通じて自分は同一人物であるという意識。
4) 外界と他人に対する自我の意識・・…これは、自分を他人や外界とはっきりと区別する意識である。
(4)不安定な自我の主体性とコンプレックス
    自我は完結されたものではなく、つねに発展してゆくものであり、発展を求める ものはどこかで開いている必要がる。完結しているものに発展はない。しかし、開いているものは、危険にもさらされている。これが自我の不安定さにつながっている。
 正常な人でも、自我の主体性が脅かされることはよくある。例えば、ある人の顔を見るとなぜか分からないがイライラするということがある。その人に対して「虫が好かない」という感情を抱く。あるいは、夢は自分の意志でコントロールできないものであり、悪夢に苦しめられることもある。「虫が好かない」場合の「虫」とは何であろうか。それは私のなかにありながら「私」とは異なるものである。自分の意志に従わない夢も、私のなかで生じたものでありながら、「私」とは異なる性格をもつ。このように、自我の機能とは言い難いものでありながら、自我との関係性が重要となる存在がコンプレックスである。

(5)コンプレックスとは何か
① コンプレックスという言葉を初めて用いたのはユングである。ユングは、「言語連想検査」によって、人は感情的なこだわりをもつとき、意識のはたらきの円滑性が失われることを見出した。彼は、なんらかの感情によって結合されている心的内容の集まりをコンプレックスと呼んだ。それは通常の意識活動を妨害する現象を引き起こし、ユングは当初、このような心的内容の集合を、「感情によって色づけされた複合体」と名づけていたが、後で単にコンプレックスと言うようになった。
② コンプレックスは、一度獲得した意識の内容を忘れてしまったり、抑圧したりして無意識の中に追いやってしまったもので、その人個人が獲得してもっているものである。自我は意識的な心の動きだが、コンプレックスは無意識的な心の動きの癖である。コンプレックスは、一定の条件や状況があると自動的に動き出す心の習性である。
③ その動きには、自我と違った動き方をするという特徴がある。ときには自我と全く反対の動き方をする。コンプレックスの内容とは、自我が否定したり、押さえつけたり、大事ではないと考え、忘れていることが無意識になったものなので、自我はその存在に気づいてないし、自我と反対の考えや行動をもってコンプレックスが自我を脅かすことになる。
④ コンプレックスの身近な例・1――旧師と久しぶりに会う女性。約束の時間になってもなかなか先生は現れない。女性は少し腹が立っていたが、旧師が多忙であることを知っていたので、これぐらいのことはあっても当然と思っていた。そこへ、「やあ、今日は」と挨拶して恩師が現れる。女性は、「長らくご無沙汰しております」と挨拶するつもりが、「長らくお待たせしました」と言い間違えた。それは教師が言うべきことと彼女が期待していたことだった。――この例は、女性の心のなかに一種の分離が生じ、一方では待たされたことを心外に思い、一方ではそれを受け入れようとしたのである。そして、恩師と会ったとき、後者が一応主体性をもって行動しようとしたのに、前者が反逆して、思いがけないことを言わしめたのである。これは、比較的単純ですぐに解消できるようなコンプレックスが生じた例だと言える。
⑤ コンプレックスの例・2――二重人格。これは、葛藤を引き起こし、自我の主体性を脅かすコンプレックスが、一個の人格として現われ、自我の座を奪ってしまうという劇的な現象である。二重人格とは、同一個人に異なった2つの人格が現われる現象で、両者の間に自害意識の連続のないものである。この両者の間の自我意識の連続は、両者共に全然ないときと、どちら一方の人格が行動しているときだけ、他方の人格との連続がある(人格が変わったとき、その経験を他方の人格が知っている)場合がある。
(6)コンプレックスの構造
コンプレックスの構造は、ある党派のなかの派閥によく似ている。それは、ある程度その党の動きに従いながら、時にはひとつの集団として党の動きに対抗したりする。このように考えると、自我というのもひとつの派閥であるが、主流派として政権を獲得している。つまり、運動機能の統制力をもっているのだと考えることができる。そのような意味で、自我もコンプレックスの一種であると考えることができる。ただ、これは他のコンプレックスと異なって、安定度が高く、運動機能と結びついているわけである。つまり、自我は主流派であり、政権をもった派閥なのである。
 ところが、普通のときは主流派の統制に服している派閥も、問題の種類によっては、なかなか主流派の思いどおりにならないように、コンプレックスは、問題に従ってその感情を露呈する。ユングはこのような現象を、ワグナ―の楽劇におけるライトモチーフにたとえてのべている(「早発性痴呆症の心理」)劇の進行するなかで、その構成上重要な感情が出現する際に、ライトモチーフが奏せられる。それと同じ様に、われわれの日常生活においても、われわれのコンプレックスと関係する事象に出会うと、それにまつわる感情が湧きあがってくるのだ。
   コンプレックスの最も根源的なものとして、フロイトはエディプス・コンプレック
  ス(女性の場合は、エレクトラ・コンプレックス)をあげているが、ユングはこれに 
   異論を唱えている。(これについては後述)

心の相補性と「自己」

(1) コンプレックスと心の相補性・・…二重人格の事例の場合に非常に顕著に認められることであるが、無意識内に形づくられてくる心的内容は、その人の自我の一面を補う傾向をもっていることが認められる。この際、自我の一面性を補償するものとして、コンプレックスが大きい役割を果たしている。
(例)対人恐怖症の女子学生。勉強一筋で、何の問題もなく育っていた。最近になって対人恐怖症で勉強も思うようにできなくなったとの悩み。カウンセリングを続けると、人間全部が恐ろしいのではなく、男性が恐ろしいのだと気づくようになる。さらに彼女は、化粧を濃くして、男性を探しに大学に来ているような同級の女子学生を非難する。さんざんそのような話をした挙句、ある日、「何となく」学校へゆく気になり、おまけにボーイフレンドもできて、化粧までするようになった。
 この例は、彼女の自我が一面的な成長をしているとき、いわば異性コンプレックスとでもいうべきコンプレックスが無意識内に形成され、その圧力が自我を脅かし始めた。ここに、安定を崩されたくない自我と、圧力をかけるコンプレックスとの妥協の産物として対人恐怖症が生じる。しかし、カウンセリングを続けることで、自我はだんだんコンプレックスの存在を認め、また、自分は異性に関心をもたなかったという一面も認める。コンプレックスに対する反発が同級生の非難という形でされるが、それに伴う感情を放出すると、コンプレックスを自我のなかに取り入れていくことに成功したのである。
(2) ユングは、人間の心の相補性に注目し、人間の心は全体として、つまり意識、無意識を包含して、全きひとつの存在であるという考えを早くからもっていた。彼は、二重人格や夢中遊行などの現象について論じ、単に病的現象としてのみ見られていたこれらの現象に、目的をもった意義、つまり意識の一面性に対する補償の可能性を見出そうとした。
(3) フロイトにとって、コンプレックスは自我にとって受け入れられず抑圧されたものであり、コンプレックスの表出は何らかの意味で病的なものをみられ勝ちであった。それに対して、ユングはコンプレックスの表出はマイナス面もあることを認めた上で、そこに人格の発展の可能性として、目的論的な見方を導入したのである。ユングは、次のように述べている。
「コンプレックスは広義においての一種の劣等性を示す。――このことに対して私は、コンプレックスをもつことは必ずしも劣等性を意味するものでないと直ちに付け加えることによって、限定を加えなければならない。コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである。――多分それは障害であろう。しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちでもあろう。」
(4) 心の相補性に注目したとき、意識の一面性を補う傾向が無意識に生じるということは、自我はあくまで、意識の統合の中心であっても、心全体(意識も無意識も含めて)の中心ではあり得ないとユングは考え始めていた。すなわち、自我があくまで意識の中心であるのに対して、我々人間の心全体の中心ということを考えざるを得ず、それを「自己」(Selbst;self)と名づけた。
(5) 人間の心を単純なモデルで示すと(図2参照)、人間の心という球の中心が自己であるのに対して、その球の表面に存在するひとつの円としての意識の中心が自我なのである。コンプレックスというのは、この球に含まれ、意識という円に隣接する多くの円であるということができる。そして、自我もコンプレックスも、この自己という中心の周りに、大きい統合性に基づいて存在しているのである。
(6) 全てのコンプレックスは「もう1人の私」たり得る可能性をもっている。そして、それらすべての「もう1人の私」の奥深く、これらの全ての人間の統合者である自己が存在する。この自己は「もう1人の私」の中の最高位につくものであり、「私」をも超える真の「私」なのだということもできる。

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