世相と心の談話室

世の出来事に関する話、心理学的な話、絵と写真をもとにした雑談などのコーナーがあります。

歴史・公民教科書問題

2005年04月15日 00時59分05秒 | 世の出来事放談
先日文部科学賞省は、来春の中学教科書についての検定結果を公表した。今回の改定でも歴史・公民教科書問題が浮上している。私は扶桑社版教科書の採用に賛成する。ただし、内容が正しいからではない。間違っているからでもない。そもそも、なぜ授業で使う教科書を1種類に限定しなくてはいけないのか、そこに疑問を持っているからである。対立する立場、異なる見方を示し、学生自らに考えさせるという観点に立てば、見方・立場の異なる教科書を複数使用した授業があってしかるべきだと思う。今回、竹島問題が浮上している。この状況こそ格好の教材である。なぜ韓国が過激に領有権を主張しているのか、扶桑社はなぜ公民教科書で「領有権をめぐって対立」という記述を「韓国が不法占拠」という記述に変えたのか、そんな問題を学生に考えさせ、自らの主張を持つように指導していくのが、考える力をつける本来の教育である。しかし、学校はそれを指導する時間がないと言うだろう。時間がないのではなく、種々の見方があることを適切に指導する方法がないのである。歴史とは多角的な見方をもって研究すべきものであることを教えて欲しい。
韓国や中国にはそれぞれの国の立場があり、学生も国を思う立派な主張を持っている。今の日本の学生が、そのような韓国の学生とまともな議論ができるであろうか。できないと思う。なぜなら、日本の学生にとっての関心事は、竹島問題や尖閣諸島問題、日本の安全保障理事国入りが試験に出るかどうかだけなのだから・・・。答えが容易に出ない、政治的な問題、歴史的な問題、社会的な問題を深く考えようとすることをめんどうくさがる学生は多いように思う。「考える力を養う」という教育理念を教科書選定システムが歪めている。
また、戦後の歴史教科書を批判して、「自虐的」という言葉を使うことには反発を覚える。この言葉は一体誰の立場に立って発せられているのであろうか?この言葉は、戦時中の権力者と国民を一体化している。また、戦後の戦争責任回避論者と国民を一体化している。我々はそれらの者達と一心同体とは思っていない。「自虐的」とは、「国民が自虐的になる」という意味である。しかし、我々は、戦時中の日本と戦後日本の戦争責任について、自虐的などという思いはない。我々にある思いは、次の論者に見るような戦争への怒りである。
「何の情報もなく、ひたすら死ぬ訓練をしていた60年前の8月15日までは米国は『鬼畜』であった。ところが、米軍が進駐を始めると時の権力者、指導者たちは見事に変身して『解放軍』として歓迎し、その占領政策に協力して恥としないばかりか、厚顔にも『一億総ざんげ』と称して国民に責任を押しつけ自らの責任には全く自覚も反省もなく今日に至っている。」――これは、ある新聞に投稿された79歳の方の怒りである。
 戦時中の「一億総玉砕」。その反動から戦後は「一億総ざんげ」。そしてそのまた反動で「一億総自虐的」が言われようとしているのである。国民の総意というものをでっち上げて、国民に責任を押しつけ、自らの責任所在を曖昧にしてしまうこの傾向は、日本の権力者の性向とでもいうべきものだろう。これは、戦時中のことを記した歴史教科書を見れば明らかである。ドイツのヒットラーとナチス党、イタリアのムッソリーニとファシズム党の名前は出てくるが、日本には当時の権力者・指導者の名前がないのである。顔が見えないのである。ドイツなら、国民も自分達に犠牲を強いた悪しき権力者に対して明確な非難を向けることができる。日本では、国民がその怒りを向ける対象がぼやけているのである。それゆえ、その怒りはいつのまにか自分たちに向けられ、それを、自らの責任には全く自覚も反省もなく変身を成した権力者が「自虐的」と言って、「お前達はいつまで自国を卑下しているのだ」と叱咤するのである。それによって戦争への怒りは中性化される。国民は「自虐的」になっているわけではない。戦争責任について、戦中・戦後の権力者への「怒りと反省」を持っているのである。「反省」は、あのような戦時中の日本を生んでしまった自分たちへの反省である。「反省」は「自虐」とは違う。「自虐」は内側に向く鬱積である。国民に、自己否定感による自信喪失はダメだと言っているのである。これは権力者が国民の怒りの矛先を逸らせようとするロジックである。「反省」は、自己の外側と内側との対話である。外側とは戦中・戦後の日本とその権力者、内側とは国民自らの内面である。「反省」の作業には、理性と時間が必要である。「自虐」とは全く違う。
 私は日本の権力者にこのような狡猾な性向がある限り、将来の日本に大きな不安を持っている。勿論、私の「自虐的」という言葉に対するこのような見方も一面であろう。この言葉に対してどう考えるかを議論していくのも、1つの歴史教育だと思う。そのような注意力をもって、戦中・戦後の歴史を子どもたちに教えてゆく必要がある。戦争を語るとき、その悲惨さ、残酷さ、それへの怒りは国民の立場で、真の意味で国を愛した心と、権力者に騙された無念さは兵隊達の立場で、戦争の愚かさと当時の政治的無能ぶりは、時の権力者を描くことで語るべきであると私は思っている。教科書は信じるものではない。それに懐疑心をもつこと、そこからもっと膨らませた世界を考えること、見方が違う世界もあることを知ること、そのために利用するのが教科書である。それゆえ、扶桑社の歴史・公民教科書を排除するものではないが、それを一方的に信じ込まそうとする教育は排除すべきである。偏った教育の弊害は、今の中国の反日デモ暴動を見て明らかなことである。
 「愛国心――その原点」のページでも書いたように、愛国心は偏向教育によって植え付けるべきものではない。愛国心は誰の心にも存在する。歴史・公民教育はそれを目指すべきものではない。多角的な歴史や社会の見方を教えるものである。その1つひとつの見方に対して、愛国心はリトマス紙のように反応するであろう。教育は、それらの反応を尊重し、認めなければならない。酸性もアルカリ性も中性も存在していて、この世の中が成り立っていることを教えなければならない。ちょうど大地や人間の体など、自然の世界がそれらの性質のバランスで成り立っているのと同じように、社会もそのような成り立ちをする必要があることを教えていくことが肝要である。





最新の画像もっと見る