★第9次 21世紀の朝鮮通信使 ソウルー東京 友情ウオーク      (2023・4・1~5・23)★

ソウルから東京まで(約2,000㌔)、毎日30㌔の道を日本人・韓国人・在日韓国人ウオーカーが共に歩き日韓交流を深めます

4月30日 京都・交流日

2009-04-30 15:56:25 | 朝鮮通信使ウオーク
今回私たちのウオークに対して、韓哲文化財団からの助成金が認められた。
同財団は1990年に日韓両民族の相互理解と善隣友好を深めるために設立された。
そこで、京都にある同財団の韓昌祐理事長を表敬訪問した。
韓理事長は78才とは思えぬほど元気で「私は毎日6㌔歩いています。
今回のみなさんのウオークの話を聞き、とてもいい企画だと思いました。出来たら私も参加したい気持ちです。
東京まで頑張って歩いて、日本と韓国の友好発展につくしてください」と激励された。
日本チームと韓国チームからそれぞれ記念品が渡された






4月29日 枚方ー京都 (31㌔)

2009-04-29 22:13:22 | 朝鮮通信使ウオーク

国内コースで、大きな荷物の運搬やサポートを担当する江平浩博さんとマイカー。
毎日荷物を一杯に積み込み、次の宿泊場所へ運ぶ「縁の下の力持ち」



田んぼの日で中学生に出会う


田んぼ道を歩くのは実に気持ちがいい。



「おじさんたちはどうして歩いているのかな?僕たちはマイカーがあるのに」



鴨川に出ると、河川敷の道を川のせせらぎの音を聞きながら進む



川べりには若いカップルが列を成すように並んでいた。
中にはこんな和服姿も

4月28日 大阪ー枚方(28㌔)

2009-04-29 22:11:59 | 朝鮮通信使ウオーク

いよいよ国内の歩行が大阪からスタート。朝8時、新緑の美しい公園から
歩き出し朝日に旗をたなびかせて、街中を歩く


ちょうど通勤時間帯とあって、どこもサラーリーマンやオフィスレディで混雑


かつて朝鮮通信使たちも通った高麗橋は、当時はとても雅な木の橋だった



淀川の土手に上がると、さわやかな風が吹いてきた。
通信使一行は大阪から京都までは川舟に乗り換え,岸辺から人が綱で引いて
進んだ




土手沿いの高校校舎からは「アンニョンハセヨ(こんにちは)、サランヘヨ
(愛してるよ)、、、」と手を振って応援してくれた


午後からは急に空模様が怪しくなり、突然強風と共に雨が降り出した



デイリー参加者は31人。
ゴールすると「正使」役の宣相圭・韓国隊長から一日の歩行距離
が書かれた参加証が渡された

4月27日 牛窓

2009-04-27 22:12:40 | 朝鮮通信使ウオーク
4月27日
ゆかりの地探訪の最終日。
朝の日が上がり、瀬戸内海をのぞむ山の上からは小豆島が間近に見える。
さわやかな青空のもと、宿のバスで牛窓に移動。
「牛窓海遊文化館」で牛窓の紹介ビデオを見る。
牛窓は天然の良港で、朝鮮通信使たちは宿泊場所では、訪れた日本の儒学者たちと
夜の更けるのも忘れたように筆談を交わしたという。
写真撮影用に用意された韓服をかわるがわるに着て、朝鮮通信使の雰囲気を味わった。
江戸持代の港のたたずまいが残る街中を歩き、本連寺へ。
瀬戸内の穏やかな海を見下ろす丘に建つ寺は通信使の宿所になり、三重の塔には八重桜の花びらが舞っていた。
ウオーキングスタイルの元牛窓町長の東原和郎さんと合流。
昔、文禄3年(1594)に東原さんの先祖が漂流していた小船に乗っていた朝鮮の衣装をまとった女性を救助したが、
数日後息を引き取った。豊臣軍の朝鮮攻撃の際に捕虜になった人達を追いかけてきたのではないか、と東原さんは
想像する。
その霊を弔うため「朝鮮場大明神」として小さな社殿を作り霊を慰めてきたという。
韓国人ウオーカーたちは両手を合わせて冥福を祈った。


















4月26日 鞆の浦

2009-04-27 22:10:32 | 朝鮮通信使ウオーク

通信使たちが「日東第一形勝」と、その美しい瀬戸内の風景を賞賛した
鞆の浦。
今、江戸時代の港の景観を壊すような道路建設が計画され、差し止め訴訟が
つい最近結審され、判決の内容が注目を集めている


鞆の浦を見下ろす通信使の宿になった福禅寺には、通信使が残した詩などが
扁額として残されている


鞆の浦には通信使が好んで飲んだ「保命酒」メーカーがたくさんある。
甘い味わいの酒は「酒」というよりは滋養強壮の「薬酒」のようだった。
「正使」の宣さんも美味そうに味わっていた



江戸時代の落ち着いた家並みが、鞆の浦に数多く残り、旅人の気分をほっと、
させてくれる


この郷愁を誘うような時代の雰囲気は、壊してしまったら二度ともどってこない