文治2年(1186)島津忠久が薩摩・大隈・日向、三国の地頭職に任せられ家臣の本田貞親を任地に下向さして三国の情勢を探らせた。
そして、山門院(現在の野田を中心に高尾野・出水の針原、六月田の一部、荘・江内・阿久根の脇本)の豪族を平げて建久7年、貞親は山門院の木牟礼に城を築いて島津氏の三州支配の基礎を作った。すなわち、忠久自身が木牟礼城に定住したことはないが、木牟礼城は薩摩の国の守護所であり、ここに、本田氏ら守護島津氏の家臣が常駐し、守護勢力の拠点となり、これ五代貞久まで至るのであります。この城、東南二百米の付近は野田町の尾地という地名であるが、当時、城郭内になっていたと伝えられています。
しかし、驚きました。ここ出水平野の鶴の越冬地の近くに薩摩の拠点がつくられ、ここから、薩摩・大隈・日向といった方向に戦力を拡大していったこと。出水から始まったと話には聞いていましたが、篤姫の原点・薩摩の原点がここからだったと思うと感動するばかりでした。
そして、山門院(現在の野田を中心に高尾野・出水の針原、六月田の一部、荘・江内・阿久根の脇本)の豪族を平げて建久7年、貞親は山門院の木牟礼に城を築いて島津氏の三州支配の基礎を作った。すなわち、忠久自身が木牟礼城に定住したことはないが、木牟礼城は薩摩の国の守護所であり、ここに、本田氏ら守護島津氏の家臣が常駐し、守護勢力の拠点となり、これ五代貞久まで至るのであります。この城、東南二百米の付近は野田町の尾地という地名であるが、当時、城郭内になっていたと伝えられています。
しかし、驚きました。ここ出水平野の鶴の越冬地の近くに薩摩の拠点がつくられ、ここから、薩摩・大隈・日向といった方向に戦力を拡大していったこと。出水から始まったと話には聞いていましたが、篤姫の原点・薩摩の原点がここからだったと思うと感動するばかりでした。
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