◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆その時歴史が動いた 箸墓古墳(その8)

2013-06-05 12:24:57 | ◆その時歴史が動いた 箸墓古墳
 その後、倭迹迹曰百襲媛は大物主と結婚をする。孝霊天皇の娘であるから、すでにかなりの姥桜であった筈である。大物主とはこの場合大田田根子を指すのであろう。「しかれどもこの神は常に昼には見えずして夜のみ来す。百襲媛夫に語りて曰く『君常に昼は見たまわねば、分明にその尊顔を見る事を得ず。願はくばしばらくとどまりたまへ。明旦に仰ぎて麗しき威儀見たてまつらんと思う』といふ」
それはもつともな事だ。では明朝姫の櫛笱に入って居よう。しかし私の姿を見て驚かないでくれ、と大物主神が変なことを言うと次の朝櫛笱の中をみれば、ちいさな美しい衣の紐のような蛇が入っていたので、媛は驚き泣き叫んでしまう。「汝忍びずして我に恥せつ、我還りて、汝に恥せむ」
 衣の紐程の小さな蛇とは誠意の欠片のない、下らない男であるとの例えであろう。出雲の大物主家の再興を企て、吉備と天皇家の接点である百襲姫にあらゆる手を使い百襲姫に近付き、姫の巧みな神託の演技により出雲の復権に成功した。仕事が終われば後は用済みである。最初から姫に対する愛の欠片も無かったのだ。気付いた時には姫は既に妊娠をしていた。【神武以前】【裏古事記】の著者山本健造氏は次のように推論している。気丈な姫はそんな男を嫌悪のあまり箸でホト(陰部)を突き妊娠中絶を図ったのでないか。其の傷が感染し死に至った。真に当を得た推論であると思う。箸墓古墳の名の由来を考え、私もその様に推察している。
 吉備と出雲を結集させ、政治主権を完全に手中にした兄吉津彦は、百襲媛の死を大変に悲しみ、慙愧(ざんき)の念を込めて天皇の陵を凌駕(りょうが)する大きな古墳をつくる。「この墓は日は人が作り、夜は神が作る。故、大阪山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまで大民相踝ぎて手ごしにて運ぶ」昼夜兼行で一列に並んで手送りで石を運んだとある。奴隷のごとく使ったと考えがちだが、過剰な使役は人民の反感をかう。吉備の財力を示すため、又、新しい吉備の政治影響力が人気を得るため、今でいえば金のバラマキ、手当の多い夜間工事をあえて実行に移したのでないか。今、話題の箸墓古墳はこのようにして出来たのである。卑弥呼の墓でもなく、神功皇后の墓でもないのだ。多くの古墳と同じく箸墓古墳も宮内庁の厳重な管理下に置かれて発掘は許されない。過日調査のため古墳の前方部を調べたところ、吉備系の祭器の破片が大量に出たとのことである。科学的にも歴史の事実を裏付けるものであると私は思っている。(つづく)


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