図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
自然淘汰と優性思想
しばらく投稿しませんでした。何か別の視点で書けないかなあと考え出したら、
「妖怪おっほっほ婆」というキャラクターを思いついて、それに肉付けしたりして別ファイルにお話を書いたりしていました。妖怪は、実際にはいないのかもしれません。心の中のもやもやとしたものが、キャラクターになって民話になっていくのだと思っています。もう少し、上手く書けたら投稿したいと思います。その前に、またいつものことをグダグダと書きます。
えーー、絵本の読み聞かせ講座では、よくこのように説明があります。屋台のやきそばも必要だが、基本的な栄養のあるものが子どもには必要である、だからボランティアは、基本を押えて、良い絵本を選んで読みましょう、というものです。
これを紙芝居に当てはめてみましょう。紙芝居は全部やきそばかといえば、やきそばもあるし普通のごはんもあります、それは絵本にもいろいろなものがあるのと同じですね。道具が違うだけ。
良い絵本というのも受ける側によりまちまちだから、とりあえず読み継がれて版を重ねたのを選べばいいというのも習ったことでした。そして、これの行き過ぎが各種問題が起った原因だったのではないか、というのが私の考えです。良い絵本というのは、本全体をジャンル分けしたときの、一つのジャンルだと思います。研究者により「殿堂入り」などと言われていますが、まあそういうジャンルですね。そしてどの本も、それぞれの本はそれぞれ特徴を持ち、色々なジャンルに分けられます。だからどのジャンルからも漏れなく選んで来れたらいいね、と思っています。
「子ども時代は短いから、なるべくその間に優先的に良書を」という考えも習いましたが、これも行き過ぎる原因だったと思います。読み聞かせ自体が少ない機会だから、なるべく良いものをひたすら選び抜くという、なにかせわしない気分に追い詰められた時もありました。あれこれとやかましく細かく注意されて、うんざりした時もありました。これが優性思想に入っていくきっかけではなかったかと思います。人間を育てるのは、えんどう豆を促成栽培するんじゃないんだよね。
普通のご飯は、それぞれの子ども一人ひとりに沿って、不足分を補いながら、あるときは屋台のような遊びのおやつとして、あるときは嫌いな食材をみじん切りにして、あるときは作る側の手抜きもあり、あるときは子どもと大人が一緒に作ったり、その子どもに愛情を持って届けられるもの。 その結果、支持の少ないメニューが自然淘汰されて消えていく、それでもいいじゃないかと思います。でもね、優れたものばかり掛け合わせようとするのは優性思想で、ナチスドイツがやったのと同じことなんですよね。それをボランティアに教え込んだのは、まずかったんじゃないかなあと思います。だから、自然淘汰は認め、優性思想に気をつける、という考えはどうでしょう。
数年前、友の会ができるときに、「絵本の読み聞かせは友の会とは別にする」という判断があったでしょう?その時は、図書館の職員は「絵本で地域を良くする(浄化)ために、ボランティアを図書館の指導者の管理の下に置きたい」と思ったんじゃないかと、推測しました。ボランティアのステップアップとして、ボランティアを指導者側につけさせたいみたいだものね。ボランティアに自立を促しながら、どこかで自分たちに合わせさせたい様子もありありで、「プログラムの作り方」一つとっても、なんとか図書館側の今までのルールの中でやらせたいみたいだった。
その考えは、今も変わらないのでしょうか。
集団相手にやるならば、種類に関係なく、絵本も紙芝居も祝祭的な意味合いが強いのです。絵本を集団相手に使おうとした時に、「やきそばとしても使えますよ」と割り切れば良かったのに、「できれば」とフランス料理的な内容が饒舌な本を勧めたのが、図書館の指導者でした。
だから、今、全国的に、絵本の読み聞かせを「集団向け」などと冠をつけて説明されることが増えました。とても良かったと思っています。
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