「清潔な語り」から転換して

 図書館のストーリーテリングの講座では、 あたりまえのように暗誦型で説明を受けました。また、 「良い本を」「良い資料を」「選び抜いて」「何を選ぶかが大事」「昔話には力がある」という呪文が飛び交い、ここでも「良い本って何?」と、つまずくことになります。

 とりあえずわからないから、講師が指導する本(おはなしのろうそくやこぐま社の本など)から選んで、暗記していきます。「誠実に」「リボンもつけずに飾らずに」という言葉も飛び交いました。自分で工夫することは資料に対して誠実でない、勉強を始めたばかりなのに生意気だ、自分の表現など十年早い、ストーリーテリングを自分の趣味のはけ口にしている、自己実現のために読み聞かせしないでよね、という陰口が行き来します。権力を持つ講師に対しての「へりくだり」の競争のようでもあり、やがて「活字」を権力と見て、それに対する「へりくだり」の競争になっていき、活字の通りに粛々とやるのが「ストーリーテリングだ」という刷り込みが行われます。 
 「自己実現のために読み聞かせしないでよね」というのを切り札のように使った絵本講師がいて、数年前に夏にほんぽーとで集中講義をやっていました。たくさんの人が受講して、半分くらいの人は「変だね」と思ったし、半分くらいの人は「図書館の先生がそう言っている」と真に受けて、真に受けた人が地域で指導を始めたりなんかして、そりゃーもう大変。
 そんなことないんですよ、自己実現としてボランティアするのは大切なことだと私は思います。
  
 それから、「清潔な語りを」などとも言われまして、清潔=不潔でない=泥臭くない=洗練された、というような道に続いていきました。不潔よりも清潔がいいに決まっている、そうやって暮らしてきたのですから、それを信じるのは自然なことだったような気がします。結果として、自分の語りの美しさに執着する習慣がつき、語りテキストや語り口のことばかりに反省の目が向き、語りで相手との時間を共有するという意識が薄れていきました。テキストを見てはいないけれど、朗読発表会と同じことをしていたわけです。

 語り方については、特別な指導があるわけではありません。なにせ最初は全文暗記するのが精一杯ですから。受講する人は、たいてい勉強好きな優等生が多いので、そういった集団における奇妙な自制心がはたらき、まあ、無難にやりましょう、ということで、身振り手振りなく、空を睨んでやることになります。「聞き手と視線を合わせなくちゃだめですよ」と指導されようものなら、まるで首ふり扇風機のごとく左右に視線を動かす・・・と言った具合。 
 最後には、各自が実際に語る発表会が組み入れられ、それに対して講師の講評があります。講師に指導され、「指導されなければ自分は人知れず恥ずかしい思いをするかも知れない」と、優等生は依存度を深めていき、今でも講師の追っかけになっている人々もいる。

 驚くのは、昔ばなし受講生たちが口づたえに教えてくれたことです。「松谷みよ子のは創作民話だからダメなんだって」「伝説は本物じゃないからダメなんだって」・・・。
 情報を発した側から見れば、「そんなこと言っていない」というかもしれません。何せ口伝えですから。でも、去年出版された魚沼の昔話の採話本を見れば、また豊栄図書館の講座メニューを見れば、いかに新潟市の指導者たちが「昔ばなし」に固執しているかがわかりそうなもの。 結局、昔話とされた本から暗記し、それをそのまま口にするのが、正しいストーリーテリングだ、という暗黙のおきてのようなものが出来上がっているのです。

 加えて、おはなしのじかんでは、「図書館の本の中から選ぶ」という決まりがあります。これを、「図書館の本の通りに語る」と解釈してしまうのですね。私などは「図書館の本の中からいくつか選んで参考にする」と解釈しています。

  同じように、 特に、学校に訪問して語るというようなときは、子どものお手本になるように、間違えないようにやんなくちゃなんない、後で子どもが本に手を伸ばしたときに、本と違う語句が入るとまずい、という指導も入ってきます。 自分の言葉で語るなんて、とんでもない、ということになるでしょう。

 ・・・・・・・・それにしても、なんといろいろな呪文をかけられたことだろう。
物語では呪文を解いてくれる王子様が現れるのですが、現実の自分はもうそんなに美しいお姫さまではなく、自分の力で脱出するしかないんだよね、と思います。自分の意思を持つことが自分の語りを作る第一歩なので、「だれか教えてくれないかしらん」と思っているうちは呪文から抜け出せないんじゃないかと思います。

 いま、50・60歳代の人が大学や短大に通っていた頃、そのころは一斉に指導者に向かい同じ方を向いて指導者のいうことを疑わずしっかり身につけるのが優等生と言われていました。その習い性がここで姿を現すのですね。

「ストーリーテリング」は、図書館だけに通じる造語でしょうか?いいえ違うはずです。
世界的な視野に立てば、ストーリーテリングフェスティバルなどいろいろな語りが披露されるはずで、図書館の中に留まっているはずはないのです。私は、これからも「ストーリーテリング」を「語り」と同じように使うことにしようと思います。自分の言葉で語るのもストーリーテリングです。

 それから、 学校では子どもは「聞く体勢になっている」から聞いてもらえるのではないかと私は思っています。学校で歓迎されたからこれでいいと、そんな自分の傲慢さに気付くことはないでしょうか。 一般のおはなしのじかんでは、少ない人間しか聴きたがらない、という原因を突き止め研究し、人間の生理と照らし合わせ、歴史を振り返り、年老いてからやっと口を開く人々がゆっくりと自分を認められるような、そんな語りを作って次の世代にバトンタッチしたいものです。それが豊かなストーリーテリングだと思います。
 それは、清潔で異物を排除した語りとはちょっと違う。だから「清潔な語り」一方を唱える講座は、視野を広げて転換してほしいものです。

 清潔の反対語は「不潔」です。不潔というのは雑菌だらけ、ということでもあります。無菌状態で人間を育てて、今、いろいろな問題が起こっているのは皆様ご存知の通り。どの程度の雑菌を認めるかはそれぞれ尺度が違いますが、選択するのは聞き手です。ひとりひとりがそのことを思うことで、聞き手も語り手もらっくり大きく息を吐けるストーリーテリングが研究されていくことと思います。

 

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