図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
図書館への手紙・・・回答あり
手紙の内容
新潟市の図書館の貸し出しNO1の絵本が、ずっと『ぐりとぐら』だということを、今年の読み聞かせ講座の講師も喜んでいらした様ですが、その本の良し悪しは別にして、NO1がずっと変わらないでその本であること、そのことを私は、疑問視したいと思います。
できたら、読み聞かせ講座の講師は
「同じ本がずっとNO1であることの、いいことと、わるいことを客観的に説明してくれる人」「そこを問題提起して受講生に考えさせてくれる人」に来て欲しいと思います。
理由(これも手紙に書きました)
① 民主主義では、人はみな対等で一人一人の個性は違って当たり前だという立場だと思います。好みも千差万別、成長段階もまちまち、なので、ある特徴を備えた本をとりあげてそれに向かえというのには、違和感があります。
戦後の一時期にある階層に歓迎された本を基本にすると、その本に出会わなかったとか、趣味に合わない人はボランティアしにくくなります。ボランティア講座を受講しても実際に始められないという理由の一つではないでしょうか。
② 公共図書館では、どんな家庭環境、どのような思想を持っていても受け入れられる場所であるべきだと思います。それなのにある一つの本がずっと一番多く借り出されている現実を、良いこととしか考えられないのでは、視野が狭いというだけでなく、ある種の本のカリスマ化として危惧されなくてはならない面もあると思います。
③ 読み聞かせボランティアや聞き手が増えないという現実をボランティアの責任にする風潮があります。図書館も、教育機関だから市民を教育するのだ、そのためのボランティア教育が足りないと言ってずっとやってこられました。また、受講生が図書館員や講師を「先生、先生」と崇拝する様子があり、おかしいと思っていました。
図書館は行政機関でもあるので、市民が図書館を監督し、利用者が図書館を作るのだと思います。ボランティアは市民の声を率直に図書館に橋渡しする役目もあるので、反論もできない雰囲気を講師自身が作り、崇拝されているようでは困ります。東京子ども図書館の意向に沿って動いている様子でしたが、その語録に「みなさんは間違いやすい」とありました。自分が正しいと思い込んでいれば他はみな間違いになるのは当たり前で、この言葉だけでも、この方が指導者失格だと私には思えます。講座に臨む前に読んで準備してくる本が一冊だけであったことも、問題です。複数人の論理を手がかりに各人が積み上げていくものだと思うからです。
また、東京子ども図書館ではおはなし会はおもに素話で、絵本は数人の子どもと一緒に書架の近くで同じ方向を向き、ひざつき合わせて読むことが主です。つまり自分たちは集団相手の絵本の読み聞かせをほとんどしていないのです。そのことも情報として届けられていないと思います。また、コレクションのように自分好みの本を集めている私立図書館の関係者に、どうして公立図書館が振り回されなくてはならないのかも不思議でなりません。
生涯学習なので、お互いが教育されるべきで、職員も利用者に教育されるものだと思います。ティーチングからコーチングを提唱したいと思います。共に間違い、共に選び、相手の話をしっかり聞き、併走するような感覚の図書館やボランティアが必要だと思います。そういう人を育成するための、今までと違うボランティア育成プログラムを希望します。例えば、傾聴ボランティアのような感覚があれば、聞き手主体の本を自然に選ぶことができます。
④ 個人的見解ですが、『児童文学論』の挿入画から、本を集団相手に使うという発想をした20年位前の方針に、無理があったのだと思います。
戦後のある時期に図書館児童サービスの権威者だったその人たちは、紙芝居的要素を絵本読みに取り入れようと考えたのではないでしょうか。「本を前に倒す」(街頭紙芝居舞台)「一見開き一画面」などの指導は紙芝居の特徴そのままですし、一度聞いただけで分かりやすいような骨太の話の絵本を優先して選ぶような感覚は、口承文芸の指導のようです。外国のものを崇拝する下地があることも指摘させていただきます。近代思想と子どもの社会的訓練のため、集団できちんと静かに聞くというしつけ的要素もおはなし会に取り入れました。そのために新潟市の図書館は『えほんのせかいこどものせかい』『児童文学論』を教科書代わりに大量に購入しました。
それは自分が学んだ過去のことをひたすら守ろうという、司書の悪い意味でのプライドでしかないと思います。『ぐりとぐら』がNO1で正しい、という前提から出発するのはそのせいでしょう。行きづまると過去の本に依存し、外部講師もその教育を受けてきたので、昔の児童サービスの権威者の論理を繰り返すことで絵本講座にしてきました。
その問題点があちこちで指摘されているのに自らのやり方を反省しないのでは、利用者に相手にされないのも仕方ないと思いますので、一緒に試行錯誤し、確実な情報公開をされる人にコーチ役をお願いしたいと思います。
『えほんのせかいこどものせかい』を元に「よく選べ」と指導されましたが、それではその指導者好みの本を選んでくることになってしまいます。そうではなく、ボランティアは、利用者と共に迷うことに真価を発揮し、利用者の伴走者になった方がいいと思います。その後起こりうる問題にはみんなが話し合って方向を修正すればいいことで、何々先生の言うとおりにするという歴史はもう終わりにして欲しいのです。この2種類の本は在庫がたくさんありますから、新規図書館でもまた購入するということと、その本一冊だけを読み聞かせの教科書にすることに、反対します。「基本に帰れ」というのは、本に、ではなく、人に、ではないかと思うからです。
⑤ おはなしの講座も「図書館のストーリーテリングはこうです」と本を暗誦するような形からはじまり、「許されて語る」という言葉も聞こえてきました。しかし、新潟にも戦前から口演童話や紙芝居が県立図書館で演じられたという記録があり、それらが忘れられたまま東京子ども図書館の指導本から入りました。以前、絵本の会がらがらどんが、地域の男の方の昔ながらの語りの会を開いた後、「図書館ではそうではないやり方」と指摘され、なんとなく信じた自分を思い出します。
今、書承の語り手がほとんどになりましたが、いろいろな本を頼りに自分の言葉で語ることは、それと同等の価値があること、それこそが昔話の本来の姿であり、人々の共感を得るものではないかと思っています。
⑥ 「子どものために」「子どもを良い聞き手に育てる」などとくり返すその団体関係者が、反対意見を押さえつけ恫喝する現場に私はたびたび出会いましたし私自身も受けました。それをくり返すことによって安息に思える依存が始まったのではないかと思います。
異分子を排除し、閉鎖的状況でいじめはおこります。活動の自由はありますが、公共の場所で活動する団体であれば思想統一するような活動は遠慮していただくべきものでしょう。自己規制を辞め自助努力して、権力や依存に負けない体質を作って欲しいと思います。そのためには図書館員がプライドを捨て断固たる姿勢を見せなくてはならないのに、自らが自由に考えることをやめて権威に依存したのが春の講座ではなかったでしょうか。
⑦ それぞれに個性があり尊重され、適正な情報を受ける権利があるという子どもの人権宣言の趣旨をその団体は理解するべきで、児童サービスのボランティアも、子どもの文化を知り、それを尊重する必要があります。それらの説明も、入門講座にいれていただきたいと思います。
その後回答ありました。「今までにない考えで、同じ思いの人も多いでしょうから、自分で各団体をあたったらどうでしょうか。図書館は特定の思想に偏ることはない」などというお返事でした。(こんなまとめで良かったかな?)
新潟市の図書館の貸し出しNO1の絵本が、ずっと『ぐりとぐら』だということを、今年の読み聞かせ講座の講師も喜んでいらした様ですが、その本の良し悪しは別にして、NO1がずっと変わらないでその本であること、そのことを私は、疑問視したいと思います。
できたら、読み聞かせ講座の講師は
「同じ本がずっとNO1であることの、いいことと、わるいことを客観的に説明してくれる人」「そこを問題提起して受講生に考えさせてくれる人」に来て欲しいと思います。
理由(これも手紙に書きました)
① 民主主義では、人はみな対等で一人一人の個性は違って当たり前だという立場だと思います。好みも千差万別、成長段階もまちまち、なので、ある特徴を備えた本をとりあげてそれに向かえというのには、違和感があります。
戦後の一時期にある階層に歓迎された本を基本にすると、その本に出会わなかったとか、趣味に合わない人はボランティアしにくくなります。ボランティア講座を受講しても実際に始められないという理由の一つではないでしょうか。
② 公共図書館では、どんな家庭環境、どのような思想を持っていても受け入れられる場所であるべきだと思います。それなのにある一つの本がずっと一番多く借り出されている現実を、良いこととしか考えられないのでは、視野が狭いというだけでなく、ある種の本のカリスマ化として危惧されなくてはならない面もあると思います。
③ 読み聞かせボランティアや聞き手が増えないという現実をボランティアの責任にする風潮があります。図書館も、教育機関だから市民を教育するのだ、そのためのボランティア教育が足りないと言ってずっとやってこられました。また、受講生が図書館員や講師を「先生、先生」と崇拝する様子があり、おかしいと思っていました。
図書館は行政機関でもあるので、市民が図書館を監督し、利用者が図書館を作るのだと思います。ボランティアは市民の声を率直に図書館に橋渡しする役目もあるので、反論もできない雰囲気を講師自身が作り、崇拝されているようでは困ります。東京子ども図書館の意向に沿って動いている様子でしたが、その語録に「みなさんは間違いやすい」とありました。自分が正しいと思い込んでいれば他はみな間違いになるのは当たり前で、この言葉だけでも、この方が指導者失格だと私には思えます。講座に臨む前に読んで準備してくる本が一冊だけであったことも、問題です。複数人の論理を手がかりに各人が積み上げていくものだと思うからです。
また、東京子ども図書館ではおはなし会はおもに素話で、絵本は数人の子どもと一緒に書架の近くで同じ方向を向き、ひざつき合わせて読むことが主です。つまり自分たちは集団相手の絵本の読み聞かせをほとんどしていないのです。そのことも情報として届けられていないと思います。また、コレクションのように自分好みの本を集めている私立図書館の関係者に、どうして公立図書館が振り回されなくてはならないのかも不思議でなりません。
生涯学習なので、お互いが教育されるべきで、職員も利用者に教育されるものだと思います。ティーチングからコーチングを提唱したいと思います。共に間違い、共に選び、相手の話をしっかり聞き、併走するような感覚の図書館やボランティアが必要だと思います。そういう人を育成するための、今までと違うボランティア育成プログラムを希望します。例えば、傾聴ボランティアのような感覚があれば、聞き手主体の本を自然に選ぶことができます。
④ 個人的見解ですが、『児童文学論』の挿入画から、本を集団相手に使うという発想をした20年位前の方針に、無理があったのだと思います。
戦後のある時期に図書館児童サービスの権威者だったその人たちは、紙芝居的要素を絵本読みに取り入れようと考えたのではないでしょうか。「本を前に倒す」(街頭紙芝居舞台)「一見開き一画面」などの指導は紙芝居の特徴そのままですし、一度聞いただけで分かりやすいような骨太の話の絵本を優先して選ぶような感覚は、口承文芸の指導のようです。外国のものを崇拝する下地があることも指摘させていただきます。近代思想と子どもの社会的訓練のため、集団できちんと静かに聞くというしつけ的要素もおはなし会に取り入れました。そのために新潟市の図書館は『えほんのせかいこどものせかい』『児童文学論』を教科書代わりに大量に購入しました。
それは自分が学んだ過去のことをひたすら守ろうという、司書の悪い意味でのプライドでしかないと思います。『ぐりとぐら』がNO1で正しい、という前提から出発するのはそのせいでしょう。行きづまると過去の本に依存し、外部講師もその教育を受けてきたので、昔の児童サービスの権威者の論理を繰り返すことで絵本講座にしてきました。
その問題点があちこちで指摘されているのに自らのやり方を反省しないのでは、利用者に相手にされないのも仕方ないと思いますので、一緒に試行錯誤し、確実な情報公開をされる人にコーチ役をお願いしたいと思います。
『えほんのせかいこどものせかい』を元に「よく選べ」と指導されましたが、それではその指導者好みの本を選んでくることになってしまいます。そうではなく、ボランティアは、利用者と共に迷うことに真価を発揮し、利用者の伴走者になった方がいいと思います。その後起こりうる問題にはみんなが話し合って方向を修正すればいいことで、何々先生の言うとおりにするという歴史はもう終わりにして欲しいのです。この2種類の本は在庫がたくさんありますから、新規図書館でもまた購入するということと、その本一冊だけを読み聞かせの教科書にすることに、反対します。「基本に帰れ」というのは、本に、ではなく、人に、ではないかと思うからです。
⑤ おはなしの講座も「図書館のストーリーテリングはこうです」と本を暗誦するような形からはじまり、「許されて語る」という言葉も聞こえてきました。しかし、新潟にも戦前から口演童話や紙芝居が県立図書館で演じられたという記録があり、それらが忘れられたまま東京子ども図書館の指導本から入りました。以前、絵本の会がらがらどんが、地域の男の方の昔ながらの語りの会を開いた後、「図書館ではそうではないやり方」と指摘され、なんとなく信じた自分を思い出します。
今、書承の語り手がほとんどになりましたが、いろいろな本を頼りに自分の言葉で語ることは、それと同等の価値があること、それこそが昔話の本来の姿であり、人々の共感を得るものではないかと思っています。
⑥ 「子どものために」「子どもを良い聞き手に育てる」などとくり返すその団体関係者が、反対意見を押さえつけ恫喝する現場に私はたびたび出会いましたし私自身も受けました。それをくり返すことによって安息に思える依存が始まったのではないかと思います。
異分子を排除し、閉鎖的状況でいじめはおこります。活動の自由はありますが、公共の場所で活動する団体であれば思想統一するような活動は遠慮していただくべきものでしょう。自己規制を辞め自助努力して、権力や依存に負けない体質を作って欲しいと思います。そのためには図書館員がプライドを捨て断固たる姿勢を見せなくてはならないのに、自らが自由に考えることをやめて権威に依存したのが春の講座ではなかったでしょうか。
⑦ それぞれに個性があり尊重され、適正な情報を受ける権利があるという子どもの人権宣言の趣旨をその団体は理解するべきで、児童サービスのボランティアも、子どもの文化を知り、それを尊重する必要があります。それらの説明も、入門講座にいれていただきたいと思います。
その後回答ありました。「今までにない考えで、同じ思いの人も多いでしょうから、自分で各団体をあたったらどうでしょうか。図書館は特定の思想に偏ることはない」などというお返事でした。(こんなまとめで良かったかな?)
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
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気まぐれに立ち寄りました。前にも書いたかもしれないですが・・・。
わたしの後ろを歩く親子。子供が、点字ブロックについて「これ何?」と、親にたずねた。親は、「滑り止めだよ」と答えた。わたしは、”この親、本当にそう思ってるの?どうして、きちんと教えないの?前に、白い杖をついた視覚障害のわたしが歩いてるから答えづらいの?”と、怒りに近い思いをした。最近は、点字も生活になじんできたが、もっともっと身近に自然に点字があれば良いのに。「触る絵本」、点字のついている(色も絵もきれい)、下記のネットショップにあります。こういうポピュラーな所で扱うのは珍しい。点字本、本屋さんで売ってないでしょ。
にじいろのもり
http://www.bidders.co.jp/user/3662077
4年前から、近くの小学校で子供たちと絵本を楽しんでいる、ぴこと申します。検索でこちらのブログへ参りました。読ませていただいて、とても刺激になりました。ときどきおじゃまさせていただこうと思っておりますのでよろしくお願い致します。
実は、偶然、お書きになっている講座を受講しまして、以前より持ち続けていた疑問がますます大きくなり、少々悶々としていました。
件の「ぐりとぐら」(もう聖書扱いですね)を喜ばれたのは、図書館ボランティア連続講座の「子どもと本をむすぶために~児童サービスについて~」というテーマでの講師でした。
率直に言って、ロングセラー絵本の素晴らしさを力説された他は、焦点のぼけたもので、事前に主催者側との打ち合わせがあったのか疑問でした。
その後、ステップアップ講座が開かれ、絵本に関してはオーソリティという市内図書館司書Mさんと長年ボランティアをしてらっしゃるNさん、お二人がそれぞれ20人の指導をなさいました。
私は、Mさんのご指導を受けました。
まず、「えほんのせかいこどものせかい」を読んできたうえでの講習、実技指導というお決まりのコースでした。
「えほんの~」について、以前から疑問に思っていた2、3を質問しましたら、「まだそんなところまで考えなくてよろしいです」と。一蹴されてしまいました。少し、食い下がりましたら、あなたのように経験の浅い人が何を言ってるの、というニュアンスのお返事で終わらせられてしまいました。
その後は、私のことは完璧に無視でした。う~ん、私はそんなにひがみっぽくは無いと思うのですが・・・
このような方が、子どもたちに本を読んでるの?と
しばらくは落ち込んでしまいましたけれど、また、子ども達との楽しい時間を過ごしながら、私なりに続けていこうと思っております。
初めてなのに長々と、書いてしまい失礼しました。