地域の伝説を紙芝居にする

図書館おはなし会の帰り道、電車のなかで「青山生鮮屋」が閉店したと噂話を小耳にはさむ。春には角上魚類も撤退してしまったし、新潟は魚がおいしいといわれていても魚屋さん系で対面販売の店がどんどんやめていっている。

 青山には、青山稲荷といって青山狐伝説の神社がその店の向かいにある。以前、青山狐の紙芝居を作ろうと赤い鳥居がたくさん連なるその神社に通ったこともあった。 調べているうちに、それは1811年「北越奇談」の「青山の老狐」の言い伝えだとわかった。また、「かみそりぎつね」の昔話と同じだということに気がつき、それは狐話というジャンルでくくられるのだなと分かった。

 口承の話にはたいてい類話があり、ときにそれは地球の裏側の地域の話とそっくりのこともある。いつか本や物が消えてなくなっても、はなしは昔話となったり地域の名前をくっつけられて伝説となったり、そうして残っていくのだな、と思った。
 発端句・結末句などの分かりやすいマークがつくと昔話で、地域の事物に結びつくと伝説で、と習った。それはそうだが、時と場所によりどちらにも姿を変えるこんな狐話はどうすんのかな、と考えていくとよく分からなくなってくる。

 「語るに足る昔話を」みたいな説明があった。それはそれを口にした先生の思想ではなく、何かの本や誰かの思想がずるずると伝わってきたものだということがなんとなく分かってきた。
で、「語るに足るって何だ?」と気持ちが暗くなったような気がする。狐話なんかあんまり価値がなさそうで、あってもなくてもいい、作っても自己満足、という三段論理になり、およめさんをあぶり殺すみたいなところを絵にしてみようもなく、紙芝居を作るのをやめてしまいました。
 そうやって残るべき大切なものが淘汰されていくのだといえばそうでしょうが、淘汰されるものにすればとんでもないことです。

せっかく地域の図書館でおはなし会をするのだから、どこか遠くの民話の紙芝居やおはなしを語るのに付け加えて、地域の伝説も語ればいい。今の子どもにもわかるような、おうちの人が近所の子どもに「あのね、あの神社のね・・」とやるような、そんな語り口にならないだろうか。現に昔話集をみると、「何々だと」「何々だてや」、と伝聞型がひんぴんと出てくる。
 要するに図書館資料に向う機会になればいいのですね。語りは、その時だけ現れてあとは煙のように消えてしまうので、「資料」といわれたら、新潟の伝説などの本を並べて、「ここにもっといろいろ書いてあるよ」と言えばいいのでしょうか。

 覚えて語ることをよくやっていると、要するに暗誦になるのです。新しい語り手とよく言われる人たちは、そうでない語り方の人も混ぜた方がいいし、自分なりに変えて語るものも受け入れたほうがいいと思う。参考資料そのままでなく。

 でもね、おもしろくするためにいいかと思ってするんだけど、それが高じて自慢話みたいになっちゃう人もいる、知識の披露話になっちゃう。そうなったら困るよね。このまえ、「黄金バット」の図書館の紙芝居資料を借りたら、自分で調べたことを口上にして紙に書き、それが紙芝居と一緒にケースに入っていた。図書館の方に指摘して、本人に返却してもらったけど、公私の境目がはっきりしない人も多いし、自分でも頭をクリアーにして考えないといけないときがある。

この項も追加して書いていきます。ここまでは18年5月。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 中越地震の仮... 大阪のコンクール »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。