相手の感性を尊重して

絵本を集団相手に読むことを、「読み聞かせ」「読み語り」であって「朗読」でない、という意見はよく聞きます。
 ・・・それはそれでよし、そう思うことは自然なことでしょう。

絵本を読んでいる人を見た某さんが、「朗読してる」と思う。これもよく聞くことです。
 ・・・それはそれで自然なことだと私は思います。某さんが感じることを、他人が土足で踏み込むことはできません。

 ありがちな失敗は、「朗読だ」と思った某さんを批判し、説得して自分の思ったように某さんの感覚を変えさせる、という方法です。
これと同じことを、今までの絵本講師はしてきました。読み継がれているのに古典絵本にあんまり興味を持たない市民やボランティアを批判し、説得して、自分の思ったように相手の感覚を変えさせる、ということです。

 大切なことは、「某さんが朗読だと思った」ということを肯定し、そこから前に進むことだと私は思います。相手の様子を見て、自分を変えればいいということです。読み方が上手くなればなるほど「朗読」に近くなるよね、と私には思えます。

 もっと言わせてもらえば、上手く読むことが「つまらなさ」に通じると思います。上手く読む人ばかりになればなるほど、「つまらない」のです。授業に入るのだから、読みは真面目に、完璧に、上手に・・・と、「子どもの今」から目をそらして自分たち「大人の上」ばかり見てきましたね。子どもにとってはそれが「つまらない」のです。つまらないことを、子どもは授業なので一生懸命受け入れなくちゃならない。
 悲しいことに、やればやるほど大人は「上手く」なるのです。私にはそれがとても悲しいのです。変な言い方だけど、当会のSさんなどは、あんまり上手くならないので、圧倒的に子どもに愛されるのです。

指導者というのは、独善になりやすい。自分が習ったことが正しいと信じ、相手の自然な感覚まで指導して変えさせようとする。そういう激しい姿を見て、周囲が反論もせず引いていく、そんなことは、古今東西 山のようにあるのでしょう。かつての「教育」とは、そういう物だったのかも知れません。

 長岡は、「絵本の読み聞かせ」を、「集団相手」から「ブックスタートのような個別」に舵を切ったように思えます。「プログラムの作り方至上主義」だとか「読み方に異様に固執する」だとか、人間の自然な感覚にまで踏み込んだ事例が、後を絶たないのでしょう。そこまでする必要は、全然ないのにね。

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